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【第二部:天と地の狭間】第三章
少年の名前
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太陽が地平線に沈むころ、一行は山の麓を歩いていた。目前に、黄金の砂漠が果てしなく広がる。燃えるような夕陽に美しく輝き、見る者を魅了する砂丘。しかしその裏に潜む恐ろしさを、六人は知っていた。
「一晩野宿するとして、今休まずに行けば明日の夜までにはサラマ・エステに着けるはずだぜ」
テュリスがいう。
「ただし……水は、カマル湖までほとんどなしだ」
そして手の中の水筒を振ってみせる。かすかに軽快な水音が聞こえるだけだった。結局、陽の出ていない今のうちに出発するのが妥当だと考え、一行は早々に山脈をあとにした。
柔らかい砂に足が沈む。歩いても歩いてもまったく景色が変わらないこの砂漠で、進んだ距離は自らの疲労と太陽の位置で測るしかない。その太陽も今は跡形もなく消え去り、深い紺色に染まった空には幾多もの星が輝いていた。六人は疲れに動かなくなりつつある全身の悲鳴に従い、休息をとることにした。火を起こし、見張りをつけながらまとまって横になる。夜の砂漠は、暗闇と静寂に包まれていた。
「ねえ、ショー」
横になり、薄手の毛布をかぶりながらディオネが話しかける。
「あんた、家族はいないの?」
ショーは満天の星を見つめながら答えた。
「妹がいたけどね。金がなくて育てられなくなったから、他家へやった」
「……そっか。どこにいるかはわかってるの?」
「いや……別の町に引っ越したみたいでね、こないだ会いに行ったらいなくなっていた」
ディオネは自分の妹を思い浮かべた。ニーニャ一座に預けたあとも、いつかは必ずまた一緒に暮らそうと思い、どんなに生活が苦しくても自分はトモロスの家を離れなかった。それでも、十年以上経って無事再会できたのは、幸運なことだ。自分も、ひとつ間違えばショーのように妹の所在もわからず二度と会えなくなっていたかもしれない。
「……サラマ・エステの頂上に着いたらさ、今度は一緒に、妹さんを探そうよ」
思いがけない彼女の提案に、ショーが言葉を詰まらせる。ディオネは小さく笑った。
「ほら、あたしも長い間別れて暮らしてたからさ、わかるのよね。……やっぱり、家族は一緒にいるべきよ」
「……ありがとう」
ショーは慣れない声色でそういうと、まだほのかに温かい砂の上に身を横たえて目を閉じた。
『ナイシェ、ナイシェ』
久しく聞いていなかった少年の声を耳にして、少女は顔をほころばせた。
「まあ、ずいぶんご無沙汰ね。どうしたの?」
『……これから、サラマ・エステに行くんでしょ?』
少年の含みのあるいい方に、不安を覚える。
「そうだけど……」
少年は眉をひそめた。
『今度ばかりは、僕にもうまく行くかはわからない。〈あいつ〉の主人の力が、少しずつだけど強くなってきているから、その影響で、予定されていた未来がゆがんでしまうんだ。だから……この先の安全は、保障できない』
ナイシェは口を引き結んでうなずいた。
「わかってるわ。だって、今までひとりとしてあの山から帰ってきた人はいないんだもの」
『そう。あまりにも危険だ。だから……』
少年はしばらく考えた末、少女にいった。
『僕の――名前を、教えるよ』
「えっ?」
今まで少年が意識的に自分の名を告げないでいたことは感じていた。それを今伝えるとは、どういうことだろうか。
『もしもサラマ・エステで大変なことになったら……僕の名を、呼ぶといい』
「そしたら助けに来てくれるの?」
『いや、僕じゃないけど……。もしかしたら、僕の友達が助けてくれるかもしれない』
『友達』の意味がよくわからなかったが、ナイシェはうなずいた。
『でもね、そうすると……たぶん、僕はしばらく君に会えなくなると思う』
「どういうこと?」
『僕はね、自由に動いているように見えても〈あいつ〉の手の中なんだ。いつも監視されていて、何か〈あいつ〉に不利なことでもしようとしたら、たぶん……こんな風に、君と話してはいられなくなる』
つまり、自分が彼の名を知るということは、〈あいつ〉にとって不利になるということだ。
少年が顔をしかめた。
『そろそろ時間だ……これでしばらくお別れだね』
そしてナイシェの耳元で囁いた。
『僕の名は――イシュマ・ニエヴァ』
途端に、少年は空気へ溶け込むようにして消滅した。静寂のみが残る。
「――ねえ……? もう行っちゃったの……?」
ナイシェの呼びかけは、白い無の世界に吸い込まれるだけだった。突然、ナイシェはどうしようもない不安に襲われた。消えてしまった少年、取り残された自分。名を告げた途端、彼は囚われてしまったというのか。〈あいつ〉が、あの小さな囁き声を聞きつけて。そして今も、どこからか自分を見張っているのだろうか――
恐怖に押しつぶされそうだった。夢は自分の無の世界で、あの少年は現実の存在。彼は捕まったが、夢の中の自分が捕まるはずはない。それでも、突然彼がいなくなり広い世界にただ独りになると、そこはとてつもなく恐ろしい闇のように感じられた。
誰か、助けて……私を助けて! この息苦しい真っ白の世界から、助け出して――‼
姉の声で、ナイシェは飛び起きた。まだあたりは真っ暗だ。全身が冷や汗でぐっしょり濡れていた。言葉を発しようとすると、ディオネがそっとそれを制した。
「静かに。……人の気配がするの」
「一晩野宿するとして、今休まずに行けば明日の夜までにはサラマ・エステに着けるはずだぜ」
テュリスがいう。
「ただし……水は、カマル湖までほとんどなしだ」
そして手の中の水筒を振ってみせる。かすかに軽快な水音が聞こえるだけだった。結局、陽の出ていない今のうちに出発するのが妥当だと考え、一行は早々に山脈をあとにした。
柔らかい砂に足が沈む。歩いても歩いてもまったく景色が変わらないこの砂漠で、進んだ距離は自らの疲労と太陽の位置で測るしかない。その太陽も今は跡形もなく消え去り、深い紺色に染まった空には幾多もの星が輝いていた。六人は疲れに動かなくなりつつある全身の悲鳴に従い、休息をとることにした。火を起こし、見張りをつけながらまとまって横になる。夜の砂漠は、暗闇と静寂に包まれていた。
「ねえ、ショー」
横になり、薄手の毛布をかぶりながらディオネが話しかける。
「あんた、家族はいないの?」
ショーは満天の星を見つめながら答えた。
「妹がいたけどね。金がなくて育てられなくなったから、他家へやった」
「……そっか。どこにいるかはわかってるの?」
「いや……別の町に引っ越したみたいでね、こないだ会いに行ったらいなくなっていた」
ディオネは自分の妹を思い浮かべた。ニーニャ一座に預けたあとも、いつかは必ずまた一緒に暮らそうと思い、どんなに生活が苦しくても自分はトモロスの家を離れなかった。それでも、十年以上経って無事再会できたのは、幸運なことだ。自分も、ひとつ間違えばショーのように妹の所在もわからず二度と会えなくなっていたかもしれない。
「……サラマ・エステの頂上に着いたらさ、今度は一緒に、妹さんを探そうよ」
思いがけない彼女の提案に、ショーが言葉を詰まらせる。ディオネは小さく笑った。
「ほら、あたしも長い間別れて暮らしてたからさ、わかるのよね。……やっぱり、家族は一緒にいるべきよ」
「……ありがとう」
ショーは慣れない声色でそういうと、まだほのかに温かい砂の上に身を横たえて目を閉じた。
『ナイシェ、ナイシェ』
久しく聞いていなかった少年の声を耳にして、少女は顔をほころばせた。
「まあ、ずいぶんご無沙汰ね。どうしたの?」
『……これから、サラマ・エステに行くんでしょ?』
少年の含みのあるいい方に、不安を覚える。
「そうだけど……」
少年は眉をひそめた。
『今度ばかりは、僕にもうまく行くかはわからない。〈あいつ〉の主人の力が、少しずつだけど強くなってきているから、その影響で、予定されていた未来がゆがんでしまうんだ。だから……この先の安全は、保障できない』
ナイシェは口を引き結んでうなずいた。
「わかってるわ。だって、今までひとりとしてあの山から帰ってきた人はいないんだもの」
『そう。あまりにも危険だ。だから……』
少年はしばらく考えた末、少女にいった。
『僕の――名前を、教えるよ』
「えっ?」
今まで少年が意識的に自分の名を告げないでいたことは感じていた。それを今伝えるとは、どういうことだろうか。
『もしもサラマ・エステで大変なことになったら……僕の名を、呼ぶといい』
「そしたら助けに来てくれるの?」
『いや、僕じゃないけど……。もしかしたら、僕の友達が助けてくれるかもしれない』
『友達』の意味がよくわからなかったが、ナイシェはうなずいた。
『でもね、そうすると……たぶん、僕はしばらく君に会えなくなると思う』
「どういうこと?」
『僕はね、自由に動いているように見えても〈あいつ〉の手の中なんだ。いつも監視されていて、何か〈あいつ〉に不利なことでもしようとしたら、たぶん……こんな風に、君と話してはいられなくなる』
つまり、自分が彼の名を知るということは、〈あいつ〉にとって不利になるということだ。
少年が顔をしかめた。
『そろそろ時間だ……これでしばらくお別れだね』
そしてナイシェの耳元で囁いた。
『僕の名は――イシュマ・ニエヴァ』
途端に、少年は空気へ溶け込むようにして消滅した。静寂のみが残る。
「――ねえ……? もう行っちゃったの……?」
ナイシェの呼びかけは、白い無の世界に吸い込まれるだけだった。突然、ナイシェはどうしようもない不安に襲われた。消えてしまった少年、取り残された自分。名を告げた途端、彼は囚われてしまったというのか。〈あいつ〉が、あの小さな囁き声を聞きつけて。そして今も、どこからか自分を見張っているのだろうか――
恐怖に押しつぶされそうだった。夢は自分の無の世界で、あの少年は現実の存在。彼は捕まったが、夢の中の自分が捕まるはずはない。それでも、突然彼がいなくなり広い世界にただ独りになると、そこはとてつもなく恐ろしい闇のように感じられた。
誰か、助けて……私を助けて! この息苦しい真っ白の世界から、助け出して――‼
姉の声で、ナイシェは飛び起きた。まだあたりは真っ暗だ。全身が冷や汗でぐっしょり濡れていた。言葉を発しようとすると、ディオネがそっとそれを制した。
「静かに。……人の気配がするの」
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