76 / 371
【第二部:天と地の狭間】第二章
報われない恋
しおりを挟む
穏やかな朝陽にくすぐられて、フェランは目を覚ました。あんな夢を見たのは初めてだ――きっと、昨夜エルシャに話したからだろう……母の、予言のことを。誰かが、母や自分の予見の能力――あるいは、予言そのもの――を恐れて、記憶を封じたのであろうことを。
彼はゆっくりと身を起こした。
確かに、その誰かが宮殿の者だとするならば、イルマのような小さい村ひとつを滅ぼすくらいの人間は使えるだろう。
隣で寝ていたはずのエルシャはいなかった。そっと敷かれた毛布に触れてみる。冷たかった。
眠れなかったのだろうか。
そんな思いが心中をよぎる。フェランは複雑な気持ちで立ち上がると、窓際からまだ人気のない通りを見下ろした。
「ずっと起きていたのか?」
背後で声がした。テュリスだ。
「あ……いえ、今起きたばかりです」
テュリスは無表情にあたりを見回した。
「エルシャは? どこか行ったのか」
「ええ……たぶん、散歩か何かでしょう」
「あいつはいつも何もいわずに出ていくんだな。はた迷惑なやつめ」
そういって起き上がろうとし、テュリスが顔をしかめる。
「どこか具合でも悪いんですか?」
フェランの問いに、彼はいっそうしかめっ面をして答えた。
「全身、ね! おまえのふざけた助言のおかげで、俺は全身ぎっしぎしだ」
それを聞いて、思わず吹き出す。
「ひょっとして、床板のことですか? だから、慣れるのには少しかかるっていったじゃないですか」
「『すぐに』といったぞ」
そんなテュリスの言葉も、フェランには滑稽にしか聞こえない。
「で、残りの二人は?」
いうと同時に、隣の寝室からナイシェとディオネが姿を現した。
「あら、エルシャは出てるの? ならちょうどいいわ。私、朝ごはんの買い物に行ってくる」
出ていこうとするナイシェに、危険だからとあわててフェランがついていく。
「朝食の買い物にフェランと、ねえ……」
テュリスと二人きりになり突然静かになった部屋で、ディオネが半分呆れたようにいう。
「そういえばあいつ、宮殿でもときどきちょっとしたものを作っていたな。台所女顔負けの手際のよさだぞ」
「そっか、女の子のふりしてたんだもんね。料理とかもするわけだ」
想像して、ディオネは思わず苦笑した。二階の窓から視線を落とすと、ちょうど二人が野菜を買いに行くところだ。楽しそうに話をしている。
「――本当に仲いいね、あの二人は。……羨ましいくらいに」
ぽつり、と独り言のように漏らす。
「自分は報われない恋なのに?」
低く、テュリスがいった。一瞬、沈黙が流れる。ディオネが鋭い目つきで振り返った。
「――どういう意味よ」
テュリスがにやりと笑う。
「隠そうとしても、俺にはわかるぜ」
今にもかみつきそうな勢いのディオネをさらに挑発するかのように、テュリスはいった。
「命を賭けても守るような女がいるやつに惚れるんだからな、ばからしい」
「だからなんだっての!? あたしが誰を好きになろうとあんたの知ったこっちゃないわ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るディオネを、テュリスは楽しそうに眺めるだけだった。すべてを見透かされた悔しさと怒りにこぶしを震わせながら、ディオネは彼をにらみつけた――が、しばらくし小さく息を吐くと、踵を返して呟いた。
「……あいつにいうんじゃないわよ」
「約束はできないね」
「あんた……っ!」
かっとなってディオネがテュリスの襟元を乱暴につかむ。テュリスは動じる様子もなく鼻で笑った。
「怖いのか? あいつに知られて、わかっているのに実際に言葉にされるのが、怖いのか。臆病な女だな」
「……あんたなんかに、わかるはずないわ。自分のことしか考えないあんたなんかに」
まっすぐテュリスの瞳を見つめて、ディオネはいった。
「いいたいわよ……。結果がわかってたって、あたしの気持ち、知ってほしいわよ。そしたらあんたのいうとおり、彼は拒絶するでしょうね。あたりまえよ、愛する女性がいるんだから。愛する女性がいるのに、あいつがあたしの気持ちを知ったら、どうなると思う? 絶対、あたしに気を遣って苦しむんだわ。そんなんで、ジュノレと幸せになれるわけないじゃない。あたしが想いを伝えるだけで、あいつもジュノレも不幸になるんだ」
「……相手のことを考えて自分は一生打ち明けないなんて、やっぱり馬鹿だな。相手が不幸になるだって? じゃあ自分の幸せはどうするんだ」
冷たい目をしたテュリスを凝視する。しばらくして、ディオネはつかんでいた手を放した。
「……とにかく、いったら承知しないからね」
再びそう告げて部屋へ戻ろうとしたとき、テュリスが背後からいった。
「――ジュノレを、殺してやろうか」
「えっ……?」
自分の耳が信じられなかった。ディオネは振り返って、笑みを浮かべているテュリスを見た。
「ジュノレを殺してやろうかといったんだよ。あいつがいなくなれば、おまえにとってもうれしいんじゃないのか? 少なくとも、エルシャを手に入れるチャンスができる。もともと殺す予定だったんだ、俺にとっても都合がいい。おまえが首を縦に振りさえすれば、うまくいくぞ」
張り詰めた空気が流れる。長い沈黙のあと、ディオネが口を開いた。
「――馬鹿にしないでよ。人間みんな、あんたみたいな腐ったやつじゃないのよ。ジュノレを殺したら、あたしがあんたを殺してやる」
ばたんと扉を閉めると、ディオネは部屋を出ていった。
買い物から帰ったナイシェとフェランが、自慢の腕で手早く料理を作り食卓に並べているとき、ちょうどエルシャが帰ってきた。
「遅いぞ。出るときは何かいっていけ」
テュリスが一瞥する。
「あ……ああ、すまなかったな。すぐ戻るつもりだったんだが」
「気分転換ですか?」
フェランの問いかけに、エルシャは言外の意味を察知してきまり悪そうに微笑んだ。
「ああ……もう大丈夫だ、心配かけたな」
もともと悩みや心配事を人に話すような性格ではないが、ジュノレのこととなるとなおさら、エルシャはフェランにさえその胸中を明かすことはなかった。それでもいいと、フェランは思っていた。エルシャが話したくないことを無理やり聞き出す必要はない。自分はただ、エルシャが必要とするときにそこにいればいい。
「朝から豪勢な食卓だな。二人の手作りか」
テーブルに乗った手料理を見て、エルシャが顔をほころばせる。
「そういえば、ディオネは? 出かけてるのか?」
テュリスが無表情に扉のひとつを指さした。
「部屋にいるぜ」
「? ……そうなのか」
エルシャは扉を小さくノックした。
「ディオネ? 食事ができてるぞ」
しばらくの沈黙のあと、扉の向こうからディオネの声がした。
「――今行く」
「? 大丈夫か? どこか具合でも悪いのか」
心配そうなエルシャの声に、今度は即答が返ってきた。
「ううん、元気だよ。ちょっと荷物をまとめてただけ。すぐ行くから先に食べてて」
首をかしげながら、エルシャはわかったといって席についた。数分後部屋から出てきたディオネに、いつもと変わった様子はなかった。いつものように明るい笑顔で、彼女は食事の席についた。
「おまたせ! これがナイシェとフェランの共同作品? おいしそうじゃない」
「でしょ? フェランたら、あまり作れないっていってたのに、すごく上手なのよ」
ナイシェが笑顔でいう。
「こいつの料理の腕は俺が保証するぞ。宮殿では何度もごちそうになったからな。普通の料理もだけどね、デザートを作らせるとすごいんだ」
エルシャの言葉に、すかさずフェランが口を挟む。
「エルシャ! その話はしない約束だったでしょう!」
頬を赤く染めるフェランに、みな笑いを隠せない。――いつもと同じ、朝だった。
彼はゆっくりと身を起こした。
確かに、その誰かが宮殿の者だとするならば、イルマのような小さい村ひとつを滅ぼすくらいの人間は使えるだろう。
隣で寝ていたはずのエルシャはいなかった。そっと敷かれた毛布に触れてみる。冷たかった。
眠れなかったのだろうか。
そんな思いが心中をよぎる。フェランは複雑な気持ちで立ち上がると、窓際からまだ人気のない通りを見下ろした。
「ずっと起きていたのか?」
背後で声がした。テュリスだ。
「あ……いえ、今起きたばかりです」
テュリスは無表情にあたりを見回した。
「エルシャは? どこか行ったのか」
「ええ……たぶん、散歩か何かでしょう」
「あいつはいつも何もいわずに出ていくんだな。はた迷惑なやつめ」
そういって起き上がろうとし、テュリスが顔をしかめる。
「どこか具合でも悪いんですか?」
フェランの問いに、彼はいっそうしかめっ面をして答えた。
「全身、ね! おまえのふざけた助言のおかげで、俺は全身ぎっしぎしだ」
それを聞いて、思わず吹き出す。
「ひょっとして、床板のことですか? だから、慣れるのには少しかかるっていったじゃないですか」
「『すぐに』といったぞ」
そんなテュリスの言葉も、フェランには滑稽にしか聞こえない。
「で、残りの二人は?」
いうと同時に、隣の寝室からナイシェとディオネが姿を現した。
「あら、エルシャは出てるの? ならちょうどいいわ。私、朝ごはんの買い物に行ってくる」
出ていこうとするナイシェに、危険だからとあわててフェランがついていく。
「朝食の買い物にフェランと、ねえ……」
テュリスと二人きりになり突然静かになった部屋で、ディオネが半分呆れたようにいう。
「そういえばあいつ、宮殿でもときどきちょっとしたものを作っていたな。台所女顔負けの手際のよさだぞ」
「そっか、女の子のふりしてたんだもんね。料理とかもするわけだ」
想像して、ディオネは思わず苦笑した。二階の窓から視線を落とすと、ちょうど二人が野菜を買いに行くところだ。楽しそうに話をしている。
「――本当に仲いいね、あの二人は。……羨ましいくらいに」
ぽつり、と独り言のように漏らす。
「自分は報われない恋なのに?」
低く、テュリスがいった。一瞬、沈黙が流れる。ディオネが鋭い目つきで振り返った。
「――どういう意味よ」
テュリスがにやりと笑う。
「隠そうとしても、俺にはわかるぜ」
今にもかみつきそうな勢いのディオネをさらに挑発するかのように、テュリスはいった。
「命を賭けても守るような女がいるやつに惚れるんだからな、ばからしい」
「だからなんだっての!? あたしが誰を好きになろうとあんたの知ったこっちゃないわ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るディオネを、テュリスは楽しそうに眺めるだけだった。すべてを見透かされた悔しさと怒りにこぶしを震わせながら、ディオネは彼をにらみつけた――が、しばらくし小さく息を吐くと、踵を返して呟いた。
「……あいつにいうんじゃないわよ」
「約束はできないね」
「あんた……っ!」
かっとなってディオネがテュリスの襟元を乱暴につかむ。テュリスは動じる様子もなく鼻で笑った。
「怖いのか? あいつに知られて、わかっているのに実際に言葉にされるのが、怖いのか。臆病な女だな」
「……あんたなんかに、わかるはずないわ。自分のことしか考えないあんたなんかに」
まっすぐテュリスの瞳を見つめて、ディオネはいった。
「いいたいわよ……。結果がわかってたって、あたしの気持ち、知ってほしいわよ。そしたらあんたのいうとおり、彼は拒絶するでしょうね。あたりまえよ、愛する女性がいるんだから。愛する女性がいるのに、あいつがあたしの気持ちを知ったら、どうなると思う? 絶対、あたしに気を遣って苦しむんだわ。そんなんで、ジュノレと幸せになれるわけないじゃない。あたしが想いを伝えるだけで、あいつもジュノレも不幸になるんだ」
「……相手のことを考えて自分は一生打ち明けないなんて、やっぱり馬鹿だな。相手が不幸になるだって? じゃあ自分の幸せはどうするんだ」
冷たい目をしたテュリスを凝視する。しばらくして、ディオネはつかんでいた手を放した。
「……とにかく、いったら承知しないからね」
再びそう告げて部屋へ戻ろうとしたとき、テュリスが背後からいった。
「――ジュノレを、殺してやろうか」
「えっ……?」
自分の耳が信じられなかった。ディオネは振り返って、笑みを浮かべているテュリスを見た。
「ジュノレを殺してやろうかといったんだよ。あいつがいなくなれば、おまえにとってもうれしいんじゃないのか? 少なくとも、エルシャを手に入れるチャンスができる。もともと殺す予定だったんだ、俺にとっても都合がいい。おまえが首を縦に振りさえすれば、うまくいくぞ」
張り詰めた空気が流れる。長い沈黙のあと、ディオネが口を開いた。
「――馬鹿にしないでよ。人間みんな、あんたみたいな腐ったやつじゃないのよ。ジュノレを殺したら、あたしがあんたを殺してやる」
ばたんと扉を閉めると、ディオネは部屋を出ていった。
買い物から帰ったナイシェとフェランが、自慢の腕で手早く料理を作り食卓に並べているとき、ちょうどエルシャが帰ってきた。
「遅いぞ。出るときは何かいっていけ」
テュリスが一瞥する。
「あ……ああ、すまなかったな。すぐ戻るつもりだったんだが」
「気分転換ですか?」
フェランの問いかけに、エルシャは言外の意味を察知してきまり悪そうに微笑んだ。
「ああ……もう大丈夫だ、心配かけたな」
もともと悩みや心配事を人に話すような性格ではないが、ジュノレのこととなるとなおさら、エルシャはフェランにさえその胸中を明かすことはなかった。それでもいいと、フェランは思っていた。エルシャが話したくないことを無理やり聞き出す必要はない。自分はただ、エルシャが必要とするときにそこにいればいい。
「朝から豪勢な食卓だな。二人の手作りか」
テーブルに乗った手料理を見て、エルシャが顔をほころばせる。
「そういえば、ディオネは? 出かけてるのか?」
テュリスが無表情に扉のひとつを指さした。
「部屋にいるぜ」
「? ……そうなのか」
エルシャは扉を小さくノックした。
「ディオネ? 食事ができてるぞ」
しばらくの沈黙のあと、扉の向こうからディオネの声がした。
「――今行く」
「? 大丈夫か? どこか具合でも悪いのか」
心配そうなエルシャの声に、今度は即答が返ってきた。
「ううん、元気だよ。ちょっと荷物をまとめてただけ。すぐ行くから先に食べてて」
首をかしげながら、エルシャはわかったといって席についた。数分後部屋から出てきたディオネに、いつもと変わった様子はなかった。いつものように明るい笑顔で、彼女は食事の席についた。
「おまたせ! これがナイシェとフェランの共同作品? おいしそうじゃない」
「でしょ? フェランたら、あまり作れないっていってたのに、すごく上手なのよ」
ナイシェが笑顔でいう。
「こいつの料理の腕は俺が保証するぞ。宮殿では何度もごちそうになったからな。普通の料理もだけどね、デザートを作らせるとすごいんだ」
エルシャの言葉に、すかさずフェランが口を挟む。
「エルシャ! その話はしない約束だったでしょう!」
頬を赤く染めるフェランに、みな笑いを隠せない。――いつもと同じ、朝だった。
0
お気に入りに追加
41
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる