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【第一部:王位継承者】第六章

ディオネ

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「えっと、あとは果物ね」

 人ごみの中でもみくちゃにされながら、ナイシェは呟いた。物騒といわれている町、このトモロスでも、朝は女たちの買い物で賑わう。黒山の人だかりの中、ナイシェは呼びこみの声で店を探さなくてはならなかった。

「……まあ、その分安全でいいけど」

 こんな状態では、どんなに腕の立つ盗賊でも襲えないだろう。ナイシェはそう思いながら果物屋を目指した。

「そこのお嬢ちゃん! うちのりんご買ってかないかい。まけとくよ!」

 主人の声に、ナイシェはりんごを三個買って袋の中へ入れた。

「さあ、エルシャたちが待ってるわ」

 ナイシェは再び人の波を掻き分けながら帰路に着いた。その間、周りの風景に目を添わせる。

 ……見たことがあるようなないような……。でも、私が鮮明に覚えているのは真っ白いレンガ造りの私の家だけ。確かお向かいが小物品を売っているお店だったわ。

 考え事をしながら歩いているナイシェに誰かがぶつかった。その衝撃で落としてしまった皮袋から、りんごがころころと転がってわき道へ入っていく。ナイシェはあわててそれを拾おうと腰をかがめた。その瞬間だった。何者かがすばやくナイシェの口を塞ぎ、有無をいわせぬ力で細い路地へと引きこんだ。

 何が起こったのか、とっさには理解できなかった。しかし路地からさらに奥の人目につかない袋小路へ引きずりこまれたとき、混乱は恐怖へと変わった。そこには四人の男。そのうちの一人がナイシェの口を手で押さえたまま低い声でいった。

「嬢ちゃん、有り金全部置いていきな」

 ナイシェは男たちの腰に刺さっている大剣を目にして首を激しく横に振った。忙しそうに買い物をする女性たちの声がはるか遠くに聞こえる。

 誰か……誰か助けて!

 心がそう叫ぶが、声にならない。

「そうかい、置いていく気がないのかい」

 男がいった。ナイシェは再び激しく首を振った。

 違う! 持ってないのよ! 放して!

 必死に訴えようとするが、喉からわずかな呻き声が出ただけだった。

 男がにやりと笑った。

「ほう、持っていないのか。そしたらなおさら帰すわけにはいかねぇなあ」

 ナイシェは驚愕した。

 嫌よ、まだ死にたくない! まだ姉さんにも会ってないのに!

 男が剣の鞘に手をかけた。もう一方の手はナイシェの頭を押さえている。彼は満面の笑みを浮かべた。

「その細い首なら一振りだな」

 全身から血の気が引いた。剣が頭上高く振り上げられる。助けてくれる人の気配はない。剣が、風を切る音とともに勢いよく振り下ろされた。

 死ぬ――‼

 目を閉じ身をすくめた次の瞬間、彼女の耳元でぱあんという破裂音が響いた。続いて男の「なんだ!?」という驚きの声。そして同時に、ナイシェの頭の上から細かい何かの破片が降ってきて彼女の肌を傷つけた。

「……?」

 ナイシェは恐る恐る目を開いて地面に落ちた破片を見、続いて男を見た。男は震えていた――を手にして。

「な……なんで粉々に砕けるんだ!?」

 ナイシェも自分の目が信じられなかった。しかし、動揺した男はナイシェの首をぐいとつかんだ。

「き、貴様の仕業だな!? 何をした!?」

 男が手に力を込め、ナイシェが息苦しさに呻き声を洩らした瞬間、さらに信じられないことが起きた。ぐちゃり、と鈍い音がして、ナイシェは男の手が自分の首から外れ、落ちるのを見た。男が身も凍るような悲鳴をあげる。その手は、完全に潰れ、ただの肉片となっていた――。

 な……何が起こっているの!?

 男の手首からどくどくと血が流れる。ナイシェは目を逸らすことも、身動きすることもできなかった。ただ男の悲鳴だけが、体中にこだまする。しかし、惨事はそれだけではなかった。瞬きすらできないでいるナイシェの目の前で、より鈍い不快な音が響き、男の姿が一瞬にして消え去った。いや、正確には、今度は男自身が、肉の塊と化したのだ――。
 もはや、悲鳴をあげる男はそこになかった。代わりに現れたのは、血の海に浸かる無機質な肉片のみ。それはまるで、料理屋の厨房の隅に無造作に捨てられた家畜の肉の山のような、あまりにも無感情な塊だった。
 ナイシェの体に降りかかった鮮血や肉片が、ナイシェを頭から深紅に染める。むっとする血の臭いが立ちこめ、ナイシェは呼吸すら忘れて小刻みに震えていた。悲鳴をあげながら目の前を走り去っていく仲間の男たちの姿も視界に入らなかった。狭い路地に残されたのは、血まみれの少女と変わり果てた姿の男……。

 声も涙も出なかった。ただ心だけが、声にならない悲鳴をあげていた。そのときだった。何かが脳裏を駆け抜けた。

「……ナイシェ?」

 それは女性の声だった。ふと、心が叫ぶのをやめた。

「ナイシェ!」

 もっと近くで、再び声がした。ナイシェは我に返り、ゆっくりと顔をあげた。そこには、ひとりの女性が立っていた。

「あ……」

 開いた口から、ひどく掠れた声が出た。遠くにある記憶の断片が揺れる。濃い茶色の髪、ややつり上がった鋭い目、そして、自分を呼ぶその声。

「姉……さん……?」

 それは、何年の隔たりがあろうともすぐにわかる、低いけれど澄んだ、懐かしい声だった。

「ディオネ姉さん!」

 ナイシェはふらりと立ち上がった。思うように足に力が入らず、バランスを崩す。自分の手や服に血が付くのもかまわず、ディオネと呼ばれた女性は彼女を抱きかかえた。

「ナイシェ! ナイシェなのね!? 大丈夫!?」

 しかしナイシェは姉の腕をこわばる指先できつく握りながら、目を合わせることもできずにただ震えていた。突然に、熱い涙が溢れてきた。すべての感情が入り混じって、涙が止まらない。

「ね、姉さん……!」

 搾り出すように、それだけいった。ただ一言なのに、やけに呼吸が苦しかった。ディオネは妹をきつく抱きしめた。

「大丈夫よ、ナイシェ。見なくていい。忘れなさい。忘れなさい……!」
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