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【第六部:終わりと始まり】第十章

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 ディオネがうなずく。廊下はもう塞がれている。二人は庭へ出た。生け垣の間を縫い、食物庫や給仕室を抜けて辿り着くしかない。途中までは木々が多少は姿を隠してくれるが、食物庫のあたりからは芝生が広がり視界を遮るものがない。これほど多くの軍勢を相手に果たして逃げ切れるのか。

 考える暇はなかった。それしか道は残されていないのだ。
 廊下側と違い、庭の周辺はまだ不気味なくらい静かだった。ジュノレは自身の服の裾を引き裂き端切れを作ると、短剣を持ったディオネの右手を引き寄せた。

「剣を使うには、あなたの握力はまだ不充分だ」

 そういって、剣ごとディオネの右手をきつく巻いた。

「絶対に、落とすな。あなたの命綱だ」

 ディオネは息を飲んでうなずいた。
 警戒しながら、生け垣の中を少しずつ進む。なるべく物音を立てないよう、息を殺す。
 不意に、空が暗くなった。見上げると、北のほうから深い黒の色をした雲が生き物のように湧いて灰色の空を置換していく。サラマ・エステの頂上を覆う雲に違いなかった。

「……まずいな、急がなければ」

 背後で、衛兵たちの交戦する音が一段と大きくなった。私室を突破されたのだろう。ジュノレは生け垣を抜け、林へ出た。その瞬間、目の前に鋭い剣が振り下ろされた。すんでのところで、両腕で支えた剣で受け止める。ジュノレの背後からディオネが飛び出して、衛兵の腹に短剣を突き立てた。

「ぐあぁっ」

 男が倒れる。それを皮切りに、木々の陰からたくさんの衛兵が姿を現した。

「ディオネ、走るぞ!」

 いうなり、ジュノレが走り出す。見つかっては仕方がない、数を振り切るにはとにかく速さで突破するしかない。ディオネがついてきているか足音で確認しながら、ジュノレは衛兵たちの剣を巧みにかわした。得意の身軽さで攻撃を避け、すぐさま流れるように剣をさばいて反撃の一閃を加える。足や利き腕を狙ったその一撃は、致命傷にはならずとも敵を無力化するには充分だった。
 それでも、木々の間を縫うように進むうち、水晶宮側から湧いてくる無数の兵士たちが行く手を阻み、疲労の隠せないジュノレの体に少しずつ血筋が滲んでいった。四方から迫る敵に、ジュノレとディオネは背中を合わせる。振り下ろされる刃を自らの剣で弾き、その隙にディオネが短剣で敵を一突きする。そのディオネの背中を狙う衛兵を、ジュノレが串刺しにした。振り返るとさらに別の兵士がディオネに向かって剣を繰り出し、かわそうとしたディオネが体勢を崩して倒れこんだ。

「ディオネ!」

 剣がディオネの胸を貫こうとした瞬間、ジュノレの薙ぎ払った刃が剣を持つ男の腕を両断する。

「立てるか!?」

 ディオネの腕を掴んで引き起こそうとしたとき、ジュノレの背後に衛兵が迫っていた。

「ジュノレ、後ろ!」

 ディオネの声に振り返ったときには、大剣がかがんだジュノレ目掛けて振り下ろされていた。とっさに自らの剣で応じるが、不意を突かれ押し込まれた剣はその勢いを受け止めきれず、鋭い刃がジュノレの左肩を切り裂いた。一瞬にして、ジュノレの衣服が朱に染まる。

「ああ……っ」

 呻き声をあげて膝をつく。その背中に、とどめを刺そうと血の滴る刃が再び迫った。

「ジュノレ――!!」

 成す術もなく見守るしかなかったディオネの目の前で、突然衛兵が悲鳴をあげて倒れた。すぐ後ろに、アルストーリが立っていた。

「遅くなり申し訳ありません、ジュノレ様!」

 肩で大きく息を切らすアルストーリの手に、血塗られた剣が握られている。その背後で、アルストーリと同じ藍色の軍服を着た兵士たちが交戦していた。アルストーリが剣を構える。

「私の部下は精鋭揃いです。これより後ろはお任せください」

 ジュノレはふらつきながら立ち上がった。

「ありがたい。だが、前も――」

 敵は前からも攻めてくる。体力の削られたディオネと傷を負った自分では、到底突破できるものではない――そう思って前を見たジュノレは、その光景に目を見張った。
 リキュスの衛兵たちが、大勢の別の衛兵と戦っていた。

「これは……!」

 アルストーリが力強くうなずいた。

「エルシャ様の小隊です。私の独断で、伝令をやりました。何とか間に合ったようです」

 ジュノレの目に光が宿った。

 二小隊あれば、少しは時間が稼げるかもしれない。

「ディオネ! 行けるか!?」

 ジュノレは右手に剣を握り直した。だらんと垂れ下がった左腕の指先からは血が滴り、ひどく冷たく感じる。しかし、そんなことはどうでもよかった。ディオネが立ち上がったのを確認すると、ジュノレは再び走り出した。林を抜け、平地に出る。遠くに青玉宮が見えた。屋根の一部が崩壊しているが、扉は閉ざされいまだ中の様子はわからない。エルシャたちがいるのか、生きているのかすらうかがい知れない。

 正面からリキュスの兵士たちが剣や槍を構えて向かってくる。それを、右手から現れたエルシャの衛兵たちが迎え撃った。その隙をかいくぐるようにして走る。
 左肩がズキンズキンと脈打ち、次第に頭がくらくらしてきた。出血のせいか、息も上がる。ジュノレは後ろを見た。ディオネが後れを取っている。足がほとんど上がらなくなり、今にももつれて倒れそうだ。
 ジュノレは再び青玉宮を見た。

 まだ遠い――この状態ではもたない。

「ディオネ、こっちだ!」

 ジュノレはディオネの手を引くと、右手に見える食物庫へと身を隠した。扉を閉め、中から閂をかける。

「ジュノレ……ここじゃ、やられる……」

 息を切らすディオネに、ジュノレはいった。

「このまま行ってもやられる。少しでも休んで、体力を回復しないと」

 ジュノレは手近な布袋を見つけると、足で押さえながら右手で引きちぎり、自分の左肩に巻き始めた。口を使って器用に結び目を作り、止血する。そしてちらりとディオネを見やった。血に染まった短剣を右手に括りつけられているが、五本の指はわずかに開き、きちんと握れていない。

「……あなたも、限界が近いようだ」

 ジュノレの言葉に、ディオネは唇を噛んだ。
 薄い木の壁を通して、男たちの戦いの声が聞こえる。少しずつ、食物庫に迫っているのがわかった。
 暗く静かな食物庫の片隅で、二人は乱れた呼吸を整えた。

 加勢はいる。それでも、絶望的な状況だ。この小屋が追手に包囲される前に、再び青玉宮へ進まなければならない。刃こぼれして今にも折れそうな剣と、もはや走る力も残っていないディオネとともに。

 ジュノレは左胸に手を当てた。

 何に代えても、これだけはエルシャに届けなければならない。

 ――必要とあらば、その命を奪うことも、厭わない――

 そういったときのエルシャの顔は、ジュノレの脳裏に深く焼きついていた。

 愛する男のあんな顔を見て、自分がここで諦めるなどできるわけがない。こうなれば、ディオネひとりを何とかこの倉庫にかくまって、自分だけでも一か八か飛び出すべきか。

 覚悟を決めようとしたとき、ディオネが口を開いた。

「……かけらを、出して」
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