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【第六部:終わりと始まり】第八章
ワーグナの告白
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図書室は、本宮である水晶宮の地下にある。国内で発行された多くの本のほかに、アルマニア宮殿でしか読めない歴史書、各種記録も保管されており、貴族の家系図を含む戸籍や個人情報の類は、地下二階の特殊書庫で厳重に管理されていた。
水晶宮には、数多くの貴族が出入りする。エルシャは、頻繁に図書室を訪れていることがばれないよう、周囲を気にしながら調査を進めていた。
庶民から結婚相手や妾を選ぶことはそう多くない。身分が上がれば上がるほどそうだ。なのでエルシャは、まず下級貴族の情報から順に当たっていた。もっとも階級の低い男爵だけでも数百人いる。何冊にもわたる分厚い記録を一枚ずつ確認するのは、予想以上に骨の折れる仕事だった。しかし、これをできるのは王族である自分しかいない。
数日かけて男爵の記録に目を通し、それらしい情報には辿りつけなかった。次は子爵の記録だ。これも二百人近くいる。
エルシャは薄暗く静かな地下の書庫で、その日も朝から家系図や戸籍情報を調べていた。二冊目の記録書に取り掛かろうとしたとき、図書室の階段を下りてくる足音が聞こえた。地下二階には特殊書庫しかない。滅多に人の出入りのないこの場所に向かってくるのは、いったい誰なのか。
エルシャは急いで記録書を本棚に戻した。
姿を現したのは、宮廷長のワーグナだった。ワーグナはエルシャに気づくと、驚いた様子でこうべを垂れた。
「これは、エルシャ様……このような場所でお会いするとは、奇遇でございます。調べものですか」
「ええ、ちょっと……そちらこそ、なぜここに?」
言葉を濁しつつ、逆に質問する。
「私は、事務的な手続きでございますよ。ファミーユ伯爵家にご子息が誕生されたとの報告を受けまして、その処理を……」
そういって、伯爵家の戸籍記録を探し始める。
あまり長居していると、怪しまれかねない。今日はここまでか。
引き返そうとして、エルシャは足を止めた。少し迷ったあと、書架をゆっくりと指で追うワーグナに、エルシャは話しかけた。
「……リキュスは、元気にやっていますか」
白髪の老人は、指を止めておもむろに振り返った。
「大変精力的に、国務をこなしていらっしゃいます。体調をお崩しにならないかと、心配になるほどです」
「そうですか……。あいつはあまり、他人を頼ろうとしないからな……何でも自分で抱え込もうとしているのではないですか?」
ワーグナは白い顎髭に手を添えながらうなずいた。
「大変正確で緻密な仕事をなさる方です。その分、部下の仕事も隅々まで確認なさろうとします。これは、部下を信頼していないのとは異なるのですが……。それで、前国王より、格段に仕事量が増えています。お若いですし、その性格ゆえ奇跡的にもすべて処理されていらっしゃいますが」
「私も、もっと宮殿にいて彼を支えて上げられればよいのですが……」
するとワーグナが笑みを見せた。
「ご心配なく。ジュノレ様が、国王陛下のよき理解者として動いて下さっています。お二人の信頼関係は、強固なもののようです」
それは心強い話だ。腹違いの兄にあたる自分よりは、従姉のジュノレのほうがむしろ遠慮なく接することができるのかもしれない。
「とはいえ……国王陛下には、ジュノレ様にもお話しできない悩みが、おありのようですが……」
ワーグナが意味深長にこぼす。
「悩み?」
「悩みといいますか……。国王陛下は、近頃大変お疲れのご様子で、顔色も芳しくありません。恐らくは、夜もあまり眠れていないのではないかと……。しかしながら、我々にはそのようなことをお話しくださいません。ジュノレ様にも、お話しにならないようです。僭越ながら、一国の王という重責の中、今だ心を開ける相手もなくひたすらに職務に当たる陛下が、いつかお体を害さないかと、私は憂慮いたしております」
それは、エルシャも気になっていたところだ。両親が他界した今、最も近い存在は兄であるエルシャのはずだ。しかし、二人の間には、兄弟というには微妙な距離があった。それは仕方のないことだとエルシャは思っていた――正当な王家の自分と妾の子とでは、血を分けた兄弟のように接することができるはずもない。自分はよくても、リキュスのほうが気を遣うだろう。兄を差し置いて国王になったとあっては、なおさらだ。
エルシャ自身は、自分でも意外なほど、それを意識したことはなかった。どちらかというと、リキュスのほうから一定の距離をとっているように見える。エルシャも、あえてそれを乗り越えてまで親密になろうというつもりはなかった。互いに認め合い、円満な関係が築けている自覚があったから、その距離感でリキュスの居心地がいいのなら、エルシャもそれで満足だった。
しかし、国王として一国を牽引していくとなると話は違う。悩みや本心を恐れず曝け出せる相手が、いずれ必要になるだろう。妾、それも一町娘の子であることをわきまえるリキュスが、そのような相手を見つけることは困難だろうと、エルシャは思っていた。リキュスのほうが、あえて距離を置くに違いない。
「――やはり、あのときのことが原因なのでしょうか……」
ワーグナの呟きに、エルシャが問い返す。
「あのとき?」
ワーグナはエルシャを見ながら、深いため息をついた。
「あの出来事を知っているのは、アルマニア六世陛下、御父上のアルクス様がお亡くなりになった今、私しかおりません。しかし私も、もう何時この世を去ってもおかしくない老体。あのことは墓場まで持っていくつもりでおりましたが、リキュス様が国王となられた今――エルシャ様にだけは、知っていただいたほうがいいのかもしれません……」
水晶宮には、数多くの貴族が出入りする。エルシャは、頻繁に図書室を訪れていることがばれないよう、周囲を気にしながら調査を進めていた。
庶民から結婚相手や妾を選ぶことはそう多くない。身分が上がれば上がるほどそうだ。なのでエルシャは、まず下級貴族の情報から順に当たっていた。もっとも階級の低い男爵だけでも数百人いる。何冊にもわたる分厚い記録を一枚ずつ確認するのは、予想以上に骨の折れる仕事だった。しかし、これをできるのは王族である自分しかいない。
数日かけて男爵の記録に目を通し、それらしい情報には辿りつけなかった。次は子爵の記録だ。これも二百人近くいる。
エルシャは薄暗く静かな地下の書庫で、その日も朝から家系図や戸籍情報を調べていた。二冊目の記録書に取り掛かろうとしたとき、図書室の階段を下りてくる足音が聞こえた。地下二階には特殊書庫しかない。滅多に人の出入りのないこの場所に向かってくるのは、いったい誰なのか。
エルシャは急いで記録書を本棚に戻した。
姿を現したのは、宮廷長のワーグナだった。ワーグナはエルシャに気づくと、驚いた様子でこうべを垂れた。
「これは、エルシャ様……このような場所でお会いするとは、奇遇でございます。調べものですか」
「ええ、ちょっと……そちらこそ、なぜここに?」
言葉を濁しつつ、逆に質問する。
「私は、事務的な手続きでございますよ。ファミーユ伯爵家にご子息が誕生されたとの報告を受けまして、その処理を……」
そういって、伯爵家の戸籍記録を探し始める。
あまり長居していると、怪しまれかねない。今日はここまでか。
引き返そうとして、エルシャは足を止めた。少し迷ったあと、書架をゆっくりと指で追うワーグナに、エルシャは話しかけた。
「……リキュスは、元気にやっていますか」
白髪の老人は、指を止めておもむろに振り返った。
「大変精力的に、国務をこなしていらっしゃいます。体調をお崩しにならないかと、心配になるほどです」
「そうですか……。あいつはあまり、他人を頼ろうとしないからな……何でも自分で抱え込もうとしているのではないですか?」
ワーグナは白い顎髭に手を添えながらうなずいた。
「大変正確で緻密な仕事をなさる方です。その分、部下の仕事も隅々まで確認なさろうとします。これは、部下を信頼していないのとは異なるのですが……。それで、前国王より、格段に仕事量が増えています。お若いですし、その性格ゆえ奇跡的にもすべて処理されていらっしゃいますが」
「私も、もっと宮殿にいて彼を支えて上げられればよいのですが……」
するとワーグナが笑みを見せた。
「ご心配なく。ジュノレ様が、国王陛下のよき理解者として動いて下さっています。お二人の信頼関係は、強固なもののようです」
それは心強い話だ。腹違いの兄にあたる自分よりは、従姉のジュノレのほうがむしろ遠慮なく接することができるのかもしれない。
「とはいえ……国王陛下には、ジュノレ様にもお話しできない悩みが、おありのようですが……」
ワーグナが意味深長にこぼす。
「悩み?」
「悩みといいますか……。国王陛下は、近頃大変お疲れのご様子で、顔色も芳しくありません。恐らくは、夜もあまり眠れていないのではないかと……。しかしながら、我々にはそのようなことをお話しくださいません。ジュノレ様にも、お話しにならないようです。僭越ながら、一国の王という重責の中、今だ心を開ける相手もなくひたすらに職務に当たる陛下が、いつかお体を害さないかと、私は憂慮いたしております」
それは、エルシャも気になっていたところだ。両親が他界した今、最も近い存在は兄であるエルシャのはずだ。しかし、二人の間には、兄弟というには微妙な距離があった。それは仕方のないことだとエルシャは思っていた――正当な王家の自分と妾の子とでは、血を分けた兄弟のように接することができるはずもない。自分はよくても、リキュスのほうが気を遣うだろう。兄を差し置いて国王になったとあっては、なおさらだ。
エルシャ自身は、自分でも意外なほど、それを意識したことはなかった。どちらかというと、リキュスのほうから一定の距離をとっているように見える。エルシャも、あえてそれを乗り越えてまで親密になろうというつもりはなかった。互いに認め合い、円満な関係が築けている自覚があったから、その距離感でリキュスの居心地がいいのなら、エルシャもそれで満足だった。
しかし、国王として一国を牽引していくとなると話は違う。悩みや本心を恐れず曝け出せる相手が、いずれ必要になるだろう。妾、それも一町娘の子であることをわきまえるリキュスが、そのような相手を見つけることは困難だろうと、エルシャは思っていた。リキュスのほうが、あえて距離を置くに違いない。
「――やはり、あのときのことが原因なのでしょうか……」
ワーグナの呟きに、エルシャが問い返す。
「あのとき?」
ワーグナはエルシャを見ながら、深いため息をついた。
「あの出来事を知っているのは、アルマニア六世陛下、御父上のアルクス様がお亡くなりになった今、私しかおりません。しかし私も、もう何時この世を去ってもおかしくない老体。あのことは墓場まで持っていくつもりでおりましたが、リキュス様が国王となられた今――エルシャ様にだけは、知っていただいたほうがいいのかもしれません……」
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