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【第六部:終わりと始まり】第六章

決死の逃走①

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「ティーダ!」

 人波を押しのけてティーダへ手を伸ばす。背後の男がティーダの後ろ襟を掴もうとしたとき、一瞬早くナイシェがティーダの手首を力いっぱい引っ張った。ティーダがバランスを崩してナイシェの上へ倒れ込み、周囲の人間から小さな悲鳴があがる。二人を避けるように人の輪が広がり、その間を縫って男が恐ろしい形相で近づいてきた。

「いたぞ! 回り込め!」

 遠くから別の男が叫んだ。それに反応して右手の路地側からひときわ大きな男が走ってくる。見覚えがあった。あの夜、テントの見張りをしていた大男に違いない。
 敵は三人だ。ディオネはまだ来ない。

「ティーダ、テントに向かって走りなさい! 早く!」

 ナイシェはティーダを立たせると、人ごみのほうへ押しやった。それを見て大男があとを追う。ティーダは大人に紛れてすぐ見えなくなったが、大男は人の波に邪魔されてなかなか進まない。小柄なティーダならば、逃げ切れるはずだ――うまく行けば。

 立ち上がったナイシェの目の前に、怒りで顔の歪んだもうひとりの男が立っていた。

「きさま、邪魔しやがって」

 目はティーダの消えた人ごみに向けられている。

 この男まで、ティーダを追わせるわけにはいかない。どうにかして足止めしないと。

 半分混乱した頭で、ナイシェはためらいなく懐から短剣を抜いた。周りから悲鳴があがり、二人を囲む人の輪が一気に引いた。昼間の大通りは騒然となり、一部は逃げ出し、一部は遠巻きに怯えた目で二人を見ている。
 ナイシェは短剣を構えた。

「行かせないわよ」

 エルシャたちとともに旅をしていたとき、肌身離さず持っていた短剣だ。使ったこともある。しかし、この男相手に短剣ひとつで勝てる自信はなかった。体格も力も、恐らくは実力も、相手のほうが上だろう。だが少なくとも男は、ナイシェの目論見どおり、足を止めた。今まで怒りにたぎっていた目が、不敵な色を宿す。

「そんなもので俺にかなうとでも?」

 口の端を吊り上げてにやりと笑う。かなうかどうかは問題ではない。とにかくティーダを逃がすために、男の気を引かなくてはならない。
 男は自分に向けられた短剣などまったく気にしないそぶりで、指を鳴らしながらナイシェに近づいてきた。じりじりと下がるナイシェに向かって、勢いよく右の拳を繰り出す。ナイシェはわずかのところで半身になってかわし、男と距離をとった。
 力ではかなわないが、反応のよさと素早さでは自信がある。
 男の顔が、怒りでみるみる赤くなった。

「小娘が、舐めやがって!」

 先ほど以上の勢いで、体ごと殴りかかってくる。ナイシェは必死でそれをかわした。一発でも当たれば、命はないだろう。二発、三発と連続で繰り出される拳を、懸命によけ続ける。しかし、よけるので精一杯で、反撃する余裕はない。息を乱しながら後ろに跳んで攻撃を避けたとき、通りに並ぶ屋台の台車に激突し、ナイシェはその場に倒れ込んだ。すかさず男の右足が、ナイシェの手に握られた短剣を蹴り飛ばす。立ち上がる間もなく、男はナイシェの首を鷲掴みにした。

「ふざけた真似しやがって!」

 男が首を掴んだままナイシェの体を持ち上げる。両足が地面から離れ、ナイシェの体は宙に浮いた。取り巻く群衆から悲鳴があがる。
 潰すように喉を握られ、息ができない。
 足をばたつかせながらナイシェは両手で何とか男の手を引きはがそうとした。だが、びくともしない。
 全身が痺れてきた。頭の芯が熱くなり、意識が遠のく。

 やっぱり、私なんかでは、守り切れないんだ。

 視界がなくなりかけたとき、人ごみから飛び出してきたディオネが男に体当たりを食らわせた。衝撃で手が離れ、ナイシェの体が地面に叩きつけられる。

「ナイシェ! 大丈夫!?」

 ディオネが腕を引き上げた。手放しかけた意識は戻ったが、息苦しさと咳が止まらない。

「早く、こっちへ!」

 ディオネがナイシェを引きずるようにして立たせる。不意打ちを食らって倒れた男も、すでに立ち直ろうとしていた。
 痺れて感覚のない足を何とか動かして、ナイシェは姉のあとを追った。思うように体が動かない。頭もガンガンする。唯一の武器も失ってしまった。手を引いてくれる姉のディオネも、まだ毒の後遺症で全力で走れる状態ではない。
 二人はふらつく足取りで、大通りから路地へ曲がった。
 行き止まりだった。

 どこか、隠れる場所や、入れる建物は。

 そのとき、足がもつれるようにしてディオネが倒れた。

「だめだ、まだ足がいうことをきかない」

 男の足音が聞こえた。壁の向こう側、すぐ近くだ。

 もう、逃げ場がない。これで終わりだ。

 そう思ったとき、大通りの遠くから男の声が聞こえた。

「おい! ガキを見つけたぞ! そっちは放っとけ!」

 角を曲がりかけた男の足音が、遠ざかっていった。
 路地裏の物陰で小さくなっていた二人は、顔を見合わせた。
 どうやら、危機は脱したらしい。しかし彼らは、ティーダを見つけたようだ。一座のテントに辿り着く前に、追っ手に見つかってしまったのだ。

 ナイシェはすぐに立ち上がった。手足の痺れはほとんどとれた。まだ頭はふらふらするが、息苦しさもなくなっている。ただずっと、心臓がやかましく早鐘を打っているだけだ。

「ティーダが危ないわ! 三人に追われているの」

 ナイシェは路地を飛び出した。

「姉さんはここで休んでいて。何とかティーダを見つけるから、あとでテントで合流しましょう」
「でもあんた……!」

 何かいおうとするディオネを無視して、ナイシェは大通りへ出た。人の動きはすでに平常を取り戻しつつある。来た道を振り返ると、足早に動く三人の男の頭が見えた。大男がリューイ一座のすぐ近くにおり、残る二人が、それぞれ筋違いの右手の路地に入ろうとしている。恐らく、ティーダを挟み撃ちにするつもりだ。
 ナイシェも一番近い右側の路地に駆け込んだ。

 裏道が繋がっていますように……!

 祈る気持ちで、ティーダがいるだろう方向へ進む。足音を立てずに、それでいて周りの音には神経を研ぎ澄ませる。
 こっちにはいない!
 そっちに行ったぞ!
 男たちの声が遠くで聞こえる。まだ捕まってはいない。
 路地裏は網の目のように繋がっていた。声を頼りにいくつかの角を曲がったとき、ひときわ軽く小さな足音が聞こえた。走るような足取りと、荒く弾む息遣い。
 ナイシェは一目散に音のするほうへ走った。角を二つ曲がったところで、ティーダが駆けてくるのが見えた。

「ティーダ!」

 小さく呼びかけると、ティーダは息を切らしながら勢いよくナイシェの足に抱きついた。

「こっちよ!」

 ナイシェはティーダの手を引いて再び走り出した。男たちの足音は、すぐそこまで来ている。路地は入り組んでいて、大通りがどの方向かもわからなくなっていた。とにかく足音から遠ざかる方向に進む。ところどころにある行き止まりに当たるたび、慌てて引き返す。そのたびに、男たちの気配が近づいてくる。
 走り続けて、息が続かない。足の感覚もほとんどなくなり、一歩が鉛のように重い。見ると、ティーダの足も止まりかけ、空気を求めて肩が激しく上下している。

 もう、限界だ――。
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