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【第六部:終わりと始まり】第六章
ティーダの手品
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翌日は快晴で、昼を過ぎたころから、町の人々が大きなテントを目指して集まってきた。舞台裏から、緞帳越しに熱気を感じる。見なくてもわかる。客席は満員だ。
はじめに登場する道化師は、すでに舞台中央で準備万端だ。二番目に出番が来る踊り子たちは、舞台の両袖に散っている。誰一人じっとはしておらず、準備運動のような動きで緊張をほぐしている。
胸がはち切れそうな緊張と高揚。開幕直前のこの感覚が、ナイシェは好きだった。
始まりを告げる耳慣れた金の音が場内に響く。次第に静まっていく観客席。やがて物音ひとつしなくなったとき、ゆっくりと緞帳が引かれ、舞台の真ん中にひとりの道化師が姿を現した。
夢と幻想の世界へようこそ――。
これは、道化師が主人公の青年を夢の世界へと誘う物語だ。案内の途中で道化師にも仲間が増え、旅は徐々に、現実と幻想との境界が曖昧になっていく。案内人だったはずの道化師は、やがて仲間の手引きにより、幻想の深淵へと飲み込まれていく――。
ツールで観客として見たこの公演を、今度は裏方として支えることになるというのは、何だか不思議な感覚だ。
袖で舞台の様子を見ていたナイシェに、ディオネが話しかけた。
「いよいよだね。あたしまで緊張しちゃう」
ディオネの頬は、興奮しているのかやや紅潮している。
「そうね。姉さんも、気が抜けないわよ」
「わかってるって。彼女が戻ってきたら、ランプを受け取って蝋燭交換。そのあとは……」
紙に書かれた進行表を見ながら確認していると、うしろをカルヴァが勢いよく走り抜けていった。手には真紅のショールを抱えている。すでに袖に控えている、次の出番の踊り子が使うものだ。
「おっと、ごめんよ! 参ったよ、ショールのひとつが破けてることに今気づいてさ、予備が間に合ってよかった!」
カルヴァは踊り子のひとりと布を交換した。踊り子は布を広げて笑顔でうなずき、カルヴァは何度も頭を下げている。それを見ていたディオネは、恐ろしそうに肩を縮めた。
「あたしも、蝋燭交換が終わったら、小道具が壊れていないか見てこよう……」
初日は順調な滑り出しだった。裏方にいても、時折観客の歓声が聞こえる。この町でも、リューイ一座は人々を魅了しているらしい。
ひと際大きな大歓声の中、控室にラジワノカが戻ってきた。真っ赤な衣装に身を包み、大粒の汗を流している。息が乱れて豊かな胸が大きく上下していた。
「すごい歓声ね」
ナイシェが声をかけると、ラジワノカは余裕のある笑みを浮かべた。
「あれくらいは、当然」
自信に満ちたその姿は、まったく嫌味に見えない。これが貫禄という者か、とナイシェは憧憬のまなざしでラジワノカを見つめた。自分がこの域にまで達している姿など、全く想像できない。
そのとき、隣を小さく黒い影が通り過ぎた。ディオネがその人物に黒いハンカチとシルクハットを渡している。
燕尾服を着たティーダだった。小さな体に合わせて作られた黒服を着て、やや大きすぎるようにも見えるシルクハットを目深にかぶったその姿は、背伸びをしている幼い少年にしか見えない。
なるほど、これは道化師の演目になじむいでたちだわ。
ナイシェの頬が緩む。
かわいらしくて、ちょっぴり滑稽で、応援したくなる。
「がんばってね」
ナイシェが軽く肩を叩くと、ティーダはにっこり笑って親指を立ててみせた。
道化師のあとを追って舞台に出ていったティーダの後ろ姿を見て、ナイシェはいてもたってもいられなくなってきた。なぜだか、自分のこと以上に緊張する。そこへディオネが耳打ちした。
「あの子、肝据わってるねえ」
「そうね。練習では失敗してるとこばかり見てるから、こっちが不安になっちゃうわ」
「あの子、奇術担当でしょ? あたしも、小道具係なのに心配になっちゃって。だって、あの子用の準備品、シルクハットとハンカチしかないのよ」
ナイシェは驚いてディオネの顔を見た。
「姉さん。それ、間違ってない? ちゃんと用意したの?」
手品の小道具に仕込みの種がないなど、冗談にもならない。一瞬、初舞台で大失敗をして凍りつく幼い少年の悪夢が頭をよぎる。しかし、ディオネは即座に否定した。
「あたしもおかしいと思って本人に確認したわよ。そしたら、それでいいんだ、っていうんだよ。種はもう自分で仕込んであるんだ、って」
自分で、服の袖などに隠している、ということだろうか。
二人は顔を見合わせた。どうにも不安が拭えず、舞台袖にかじりつくようにしてティーダの挙動を見守る。
舞台の中央に、道化師と主人公の青年、そして二人の妖精が座っている。ティーダはその周りを一周すると、客席に向かってにっこり笑い、帽子をとって深く一礼した。その帽子を道化師が素早く奪い取り、かぶってみたり妖精たちとおもちゃのように取り合いをして客の失笑を誘っている。ティーダがそれを奪い返すと、帽子のつばを持ってくるくると回転させた。何の仕掛けもないというさりげない表示だろう。それからティーダはハンカチを取り出し、シルクハットの上にかけた。指先で何やらまじないのような動きをすると、ハンカチの下からほのかな光が漏れ出て消えた。ハンカチを取り去ると、ティーダは帽子の中へ手を入れ――その手が出てきたときには、青と橙の可愛らしい花束が握られていた。観客から拍手が沸き起こる。ティーダはその花束を主人公の青年に手渡した。そして再びハンカチを載せる。まったく同じように、ハンカチと帽子の間から光が漏れたあと、今度は桃色の花束が現れた。再度の拍手。ティーダは終始笑顔で三つの花束を作り、青年と二人の妖精に手渡すと、客席に向かって深々とお辞儀をし、帽子をかぶって退場した。
短い出番だったが、観客は幕間のちょっとした清涼剤として楽しんでくれたようだ。
ティーダは舞台袖に立っているナイシェに気づいて、いたずらっぽく笑って見せた。
「ね、本番は大丈夫っていったでしょ」
「……そうね」
そう答えたものの、ナイシェは上の空だった。
ティーダが去ったあと、ナイシェは隣のディオネの顔を見た。その表情で、姉も同じことを考えていると気づく。
二人とも、何もいわなかった。いわなくてもわかった。
今の手品は、もしかすると――。
はじめに登場する道化師は、すでに舞台中央で準備万端だ。二番目に出番が来る踊り子たちは、舞台の両袖に散っている。誰一人じっとはしておらず、準備運動のような動きで緊張をほぐしている。
胸がはち切れそうな緊張と高揚。開幕直前のこの感覚が、ナイシェは好きだった。
始まりを告げる耳慣れた金の音が場内に響く。次第に静まっていく観客席。やがて物音ひとつしなくなったとき、ゆっくりと緞帳が引かれ、舞台の真ん中にひとりの道化師が姿を現した。
夢と幻想の世界へようこそ――。
これは、道化師が主人公の青年を夢の世界へと誘う物語だ。案内の途中で道化師にも仲間が増え、旅は徐々に、現実と幻想との境界が曖昧になっていく。案内人だったはずの道化師は、やがて仲間の手引きにより、幻想の深淵へと飲み込まれていく――。
ツールで観客として見たこの公演を、今度は裏方として支えることになるというのは、何だか不思議な感覚だ。
袖で舞台の様子を見ていたナイシェに、ディオネが話しかけた。
「いよいよだね。あたしまで緊張しちゃう」
ディオネの頬は、興奮しているのかやや紅潮している。
「そうね。姉さんも、気が抜けないわよ」
「わかってるって。彼女が戻ってきたら、ランプを受け取って蝋燭交換。そのあとは……」
紙に書かれた進行表を見ながら確認していると、うしろをカルヴァが勢いよく走り抜けていった。手には真紅のショールを抱えている。すでに袖に控えている、次の出番の踊り子が使うものだ。
「おっと、ごめんよ! 参ったよ、ショールのひとつが破けてることに今気づいてさ、予備が間に合ってよかった!」
カルヴァは踊り子のひとりと布を交換した。踊り子は布を広げて笑顔でうなずき、カルヴァは何度も頭を下げている。それを見ていたディオネは、恐ろしそうに肩を縮めた。
「あたしも、蝋燭交換が終わったら、小道具が壊れていないか見てこよう……」
初日は順調な滑り出しだった。裏方にいても、時折観客の歓声が聞こえる。この町でも、リューイ一座は人々を魅了しているらしい。
ひと際大きな大歓声の中、控室にラジワノカが戻ってきた。真っ赤な衣装に身を包み、大粒の汗を流している。息が乱れて豊かな胸が大きく上下していた。
「すごい歓声ね」
ナイシェが声をかけると、ラジワノカは余裕のある笑みを浮かべた。
「あれくらいは、当然」
自信に満ちたその姿は、まったく嫌味に見えない。これが貫禄という者か、とナイシェは憧憬のまなざしでラジワノカを見つめた。自分がこの域にまで達している姿など、全く想像できない。
そのとき、隣を小さく黒い影が通り過ぎた。ディオネがその人物に黒いハンカチとシルクハットを渡している。
燕尾服を着たティーダだった。小さな体に合わせて作られた黒服を着て、やや大きすぎるようにも見えるシルクハットを目深にかぶったその姿は、背伸びをしている幼い少年にしか見えない。
なるほど、これは道化師の演目になじむいでたちだわ。
ナイシェの頬が緩む。
かわいらしくて、ちょっぴり滑稽で、応援したくなる。
「がんばってね」
ナイシェが軽く肩を叩くと、ティーダはにっこり笑って親指を立ててみせた。
道化師のあとを追って舞台に出ていったティーダの後ろ姿を見て、ナイシェはいてもたってもいられなくなってきた。なぜだか、自分のこと以上に緊張する。そこへディオネが耳打ちした。
「あの子、肝据わってるねえ」
「そうね。練習では失敗してるとこばかり見てるから、こっちが不安になっちゃうわ」
「あの子、奇術担当でしょ? あたしも、小道具係なのに心配になっちゃって。だって、あの子用の準備品、シルクハットとハンカチしかないのよ」
ナイシェは驚いてディオネの顔を見た。
「姉さん。それ、間違ってない? ちゃんと用意したの?」
手品の小道具に仕込みの種がないなど、冗談にもならない。一瞬、初舞台で大失敗をして凍りつく幼い少年の悪夢が頭をよぎる。しかし、ディオネは即座に否定した。
「あたしもおかしいと思って本人に確認したわよ。そしたら、それでいいんだ、っていうんだよ。種はもう自分で仕込んであるんだ、って」
自分で、服の袖などに隠している、ということだろうか。
二人は顔を見合わせた。どうにも不安が拭えず、舞台袖にかじりつくようにしてティーダの挙動を見守る。
舞台の中央に、道化師と主人公の青年、そして二人の妖精が座っている。ティーダはその周りを一周すると、客席に向かってにっこり笑い、帽子をとって深く一礼した。その帽子を道化師が素早く奪い取り、かぶってみたり妖精たちとおもちゃのように取り合いをして客の失笑を誘っている。ティーダがそれを奪い返すと、帽子のつばを持ってくるくると回転させた。何の仕掛けもないというさりげない表示だろう。それからティーダはハンカチを取り出し、シルクハットの上にかけた。指先で何やらまじないのような動きをすると、ハンカチの下からほのかな光が漏れ出て消えた。ハンカチを取り去ると、ティーダは帽子の中へ手を入れ――その手が出てきたときには、青と橙の可愛らしい花束が握られていた。観客から拍手が沸き起こる。ティーダはその花束を主人公の青年に手渡した。そして再びハンカチを載せる。まったく同じように、ハンカチと帽子の間から光が漏れたあと、今度は桃色の花束が現れた。再度の拍手。ティーダは終始笑顔で三つの花束を作り、青年と二人の妖精に手渡すと、客席に向かって深々とお辞儀をし、帽子をかぶって退場した。
短い出番だったが、観客は幕間のちょっとした清涼剤として楽しんでくれたようだ。
ティーダは舞台袖に立っているナイシェに気づいて、いたずらっぽく笑って見せた。
「ね、本番は大丈夫っていったでしょ」
「……そうね」
そう答えたものの、ナイシェは上の空だった。
ティーダが去ったあと、ナイシェは隣のディオネの顔を見た。その表情で、姉も同じことを考えていると気づく。
二人とも、何もいわなかった。いわなくてもわかった。
今の手品は、もしかすると――。
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