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【第六部:終わりと始まり】第四章

リキュスの安息

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「本日の公務は以上でございます」

 午後二時に予定どおり会議を終えて光宮へ戻ると、ワーグナが告げた。いわれるまで気づかなかった。

 半日近く休息をとれるのは、いつぶりだろう。いつも多忙で時間が足りないと思っているのに、いざ急に自由な時間が手に入ると、何をすればいいのかわからない。

 自室に戻ると、扉の両脇に立つ衛兵二人が敬礼をした。

「ごくろうだったな」

 一声かけて自室へ入る。ワーグナは、けしてリキュスの私室には立ち入らない。いつものように、リキュスの姿が見えなくなるまで、廊下からうやうやしくこうべを垂れていた。

 リキュスがソファに腰かけようとする前に、扉が叩かれる。

「陛下、お召し物をお持ちいたしました」

 第一侍女のマイレインの声だ。彼女はいつも、どこかに隠れて盗み見しているのではないかというほど的確なタイミングで現れる。
 マイレインは白のシャツと黒のズボンを持参し、手早くハンガーにかけた。続いて、失礼いたします、と一声かけてから、公務でまとっていたリキュスの上着を脱がせる。続いてベストの脱衣を終えたところで、マイレインは一歩下がった。

「リキュス様、このあとは三時に軽食をお持ちいたしましょうか」

 マイレインは、二人きりになると陛下ではなくリキュス様と呼ぶ。まだリキュスが即位する前からの、長い付き合いだ。リキュスはあえて、彼女にそう呼ばせていた。誰よりも長く仕える従者で、リキュスが着替えや湯あみをすべて一人でやりたがることも、すべて心得ている。
 リキュスは時計を見ながらしばし考えた。

「……いや、今日は久しぶりにゆっくりしたい。夕食まで、来なくてよい」
「承知いたしました。では、お召し物はこちらの籠にお入れくだされば、そのときいただきに参ります。何かございましたらお呼びくださいませ」

 マイレインは頭を下げると静かに退室した。

 マイレインとの主従関係は居心地がよかった。彼女は、もう十年近くそばにいるが、消してリキュスの私的な部分に立ち入ろうとしない。リキュスが人と一定の距離を置いた付き合いを好むことを理解しており、絶妙な匙加減で関わってくる。多くの侍女は、その関係が長くなると、リキュスとの間にある見えない壁をさりげなく乗り越えようとしてきた。まるで自分にはその権利が与えられているのだといわんばかりに、ごく自然に近づこうとしてくるのだ。それが察せられた瞬間、リキュスは強烈な不快感を覚え、迷うことなくその侍女を遠ざけてきた。その点マイレインは、リキュスが不快だと思う一線を越えたことがない。もう長い付き合いなのに、よそよそしすぎるほどかもしれない。いや、実際に、その主従関係の長さに見合うほどの繋がりは、築かれていないのかもしれない。だが、リキュスはその関係に満足していた。絆の強さは定かではないが、彼は少なくとも彼女を信頼していた。

 リキュスは独りきりになった自室で、おもむろにシャツを脱ぎ始めた。本来なら新しい衣服に着替えるまでが侍女の手伝うべき仕事だが、リキュスは一度もさせたことがなかった。
 指示された籠にシャツを入れ、用意された新しいものへ着替えるとき、壁に掛けられた大きな鏡に、自分の後ろ姿が映った。
 右の肩甲骨の内側から左の腰骨あたりまで続く、太く長い傷跡。
 リキュスはすぐに鏡から目を逸らし、服を着た。

 自分でも、わかっている。私がこんなに排他的なのは、恐らくこの傷跡のせいだ。

 リキュスは続いてズボンを履き替え、息をつきながらソファへ身を投じた。

 いつ、なぜこの傷を負ったのか、記憶にない。幼いころの怪我が、成長とともに大きくなってしまったのかもしれない。何にしても、庶民上がりの妾の子として息を潜めて生きていた自分には、この傷は輪をかけて救いようのない劣等感となってまとわりついていた。

 ――いつまでたっても、嫁の来手がないぞ――

 ジュノレの言葉を思い出す。
 妻にめとるからには、信頼し、すべてを曝け出さなければならない。一日をともに過ごし、ともに湯に浸ることもあれば、愛を交わすこともあるだろう。

 女の前で、ありのままの自分を見せるなど、想像もできなかった。そこまで心を許せる人間に出会うことなど、一生ないだろう。
 信頼している女性ならいる。例えばマイレイン、そしてジュノレだ。しかし、今の関係で充分居心地がよい。これ以上心を許さなければ夫婦となれないならば、妻など必要ない。

 リキュスはそう考えていた。

 時計を見る。午後二時四十分だ。
 仮眠をとることにした。久しぶりの仮眠で、一瞬不安が頭をよぎる。
 時折記憶が飛ぶのは相変わらずだ。起きている間ならば、前兆があるときもあるし、常に時刻を意識しているから、記憶のなかった時間帯も把握できる。しかし寝てしまうと、ただ眠っていただけなのか記憶が飛んだのか、判断できなくなる。それが恐ろしかった。そのせいで、最近は夜も熟睡できない。

 まさか、外の衛兵に、私が出入りしていなかったか訊くわけにもいかないしな。

 リキュスは扉の外の二人の兵士を思い出した。
 あの二人も、記憶のないうちに自分が選抜した人間だ。
 アルマニア七世に即位し、光宮周辺の警備全般を見直したことがある。これまで第四王位継承者だった自分に仕えてきた、信頼できる兵士を何人か抜擢した。あとは、警吏部長や宮廷長の意見を参考に、面接まで行って身辺警護を担う衛兵たちを自ら選んだつもりだった。
 その選考課程の一部が、記憶から抜け落ちている。
 自ら選抜したとはいえ、何百人もの資料の中から百人近くの兵士を選んだのだ。記憶に残っていない人物画いても不思議ではない。
 最初は戸惑ったが、どの衛兵もしっかり仕事をこなす実直な人間たちだった。恐らく、あとで忘れてしまっただけで、自分に見る目があったということだろう。
 見覚えのない兵士たちに守られる生活にはじめこそ不安を覚えたが、次第にそれが杞憂だったことがわかった。それもそのはずだ、自分のもとへ資料が届く兵士たちがそもそも、厳しい審査を通過した逸材ばかりなのだから。

 リキュスは扉続きの寝室に入った。

 あの者たちがいれば安心だ。恐れずに、安息をとろう。
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