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【第五部:聖なる村】第十二章
限界
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「姉さん、朝ごはんよ」
快晴の下、王族専用の病室のすぐ外にある小さな庭で、椅子に腰かけ休んでいるディオネに、ナイシェは声をかけた。
「すごくいい天気だから、今日はこのまま外で食べましょうよ」
そういいながら、盆に二人分の朝食を載せてナイシェは外へ出た。やさしい風がふわりと頬を撫で、鳥のさえずりや葉擦れの音が心地よく体を包む。
その日はパンとサラダに果物、そしてスープという取り合わせだった。給仕係に頼んで用意してもらったものだ。
「ありがとう、ナイシェ。いただくね」
食事がとれるようになり三週間経つが、まだディオネは食事の時間だけは妹と二人きりを望んでいた。その理由は、ナイシェもわかっていた。
さりげなく様子を見ていたナイシェが、姉の皿へ手を伸ばす。
「バター、まだ難しいわね。私が塗るわね」
ナイフにバターをとるまではしたものの、そこからうまく塗り広げられないディオネに代わり、ナイシェが滑らかな手つきであとを引き継ぐ。
「悪いわね」
ディオネはそういって、スープを手に取った。両の手のひらで、覆うように慎重に持つ。昨日はつい油断して落としてしまったからだ。
ディオネの筋力の訓練は、毎日続いていた。今では歩けるようになり、日常生活にほとんど支障はないが、まだ細かい作業や重い物は苦手だし、走ることもできない。階段を上るのには今までの倍の時間がかかっていた。
「……悪いわね」
ディオネがもう一度いう。ナイシェはまったく気にしていない素振りだった。
「だから、謝らないでってば。姉さんが死にかけたときと比べれば……助かって、こんなに元気になって、私、本当にうれしいんだから」
その笑顔に嘘はなかった。
「私ね、最近思うのよ。姉さんとトモロスの町で再会してから、こんなふうに二人でゆっくり過ごすことがなかったな、って」
いわれてみればそうだった。ナイシェが五歳のときに生活のため離れ離れになり、再会したのは実に十一年後のことだった。今度こそ姉妹水入らずで生きていくつもりが、サラマ・アンギュース探しをしているエルシャたちについていくことになったのだ。それからは危険の連続で、ナイシェが思い描いていた姉妹での平穏な生活とは程遠いものだった。今回、皮肉にもディオネが死にかけたことで、二人は初めて、姉妹だけの平穏な時間を過ごしているのだ。
「私、忘れてた。ニーニャ一座をやめて、姉さんに会いに行こうって決めたとき、本当は、やっと姉さんとこんな生活ができる、って期待してたのよ」
ディオネは声をあげて笑った。
「トモロスの家は、こんなお城じゃないけどね」
ナイシェもつられて笑う。
「それはそうだけど。でもね、こんなふうにゆっくり食事をして、笑い合って、夜も安心して眠れて……普通の、静かな暮らし。何だかね、すごく幸せに感じちゃうの。ああ、私は姉さんとこんなふうに暮らしたかったんだ、って」
そういうナイシェの表情に、裏腹な陰りがわずかながら射していることに、ディオネは少し前から気づいていた。
「ナイシェ」
ディオネは隣に座る妹の手を握った。
「本当は、もっとほかにいいたいことがあるんじゃないの?」
ナイシェはディオネの目を見つめた。その目は、いつもと同じように自分を包み込み、支える目だった。ナイシェは目の奥が熱くなっていくのを感じた。口にしてはいけないと、ずっと堪えていた言葉が、震える声とともに漏れ出た。
「私……私、もう、終わりにしたいの……」
そこまでいうと、かろうじてとどまっていた涙が、次から次へと溢れてきた。それに後押しされるかのように、言葉も次々と溢れ出た。
「私ね、姉さんがこんなことになって……あのとき初めて、姉さんは本当に死んじゃうのかも、って思った。動かなくなって……息が、止まって……あのとき……言葉にできないくらい、怖かった。姉さんを失うと思ったら、怖くて怖くて、正気じゃいられないくらいだった。もしまた……もし、万が一、またあんなことがあったら、たぶん私、耐えられない。もう次は……絶対に……」
嗚咽が込み上げてきてうまく話せない。涙は拭っても拭ってもとめどなく溢れる。ディオネは黙って妹の肩を抱き寄せた。
「ごめんなさい、姉さん。姉さんは二人で町に残ろうっていったのに、私が勝手にエルシャたちについていくって決めたから……。そのせいで、姉さんが死にかけて……こんなことになるまで、私にとって姉さんがどれほど大きな存在なのか、気づかなかったなんて。今までも、ショーやメリナ、ハルを失って……エルシャも失いかけて……でも頑張らなきゃ、前に進まなきゃって思ってた。だけど、もうだめ。私、姉さんを失ったら……もう二度と、あんな思いしたくない」
ディオネは泣いて震えるナイシェの体をそっと両腕で包んだ。
「ナイシェ……確かにあたしは、最初は旅をすることに反対だった。でも、エルシャやフェランと関わって、仲間ができて、旅の目的を知って……あたしは、後悔してないよ。死にかけたって、このまま手や足の力が戻らないとしたって、あたしはエルシャたちと旅をしてよかったと思ってる。あのときあんたが、あたしを押し切ってエルシャと一緒に行きたい、っていってくれたからだよ。だからナイシェ、あたしのせいで旅をやめるっていうんなら、それは全然気にしなくていい」
ナイシェは黙って聞いていたが、ゆっくりとかぶりを振った。
「……ううん、違うの。姉さんのためじゃない。私が、もう……」
言葉に詰まる。ディオネはやさしく語りかけた。
「あたしの一番の望みはね、ナイシェ。あんたと、一緒にいること。離れ離れだった十一年間を、これからゆっくりでいいから取り戻すこと。それはね、旅をやめても続けても、どっちでもできるんだ。だから、ナイシェ、あんたは自分の心に従って、やりたいようにやればいいんだよ。あんたのことだもの、たくさんたくさん考えて、出した答えなんでしょう?」
それを聞いて、止まりかけていたナイシェの涙が再び溢れ出した。
「私……私、エルシャが大好き。フェランもゼムズも、ラミも……みんな大好きなの。ずっと一緒にいたい。でも、そのせいで姉さんを失うのは、耐えられない。エルシャたちと離れることになるなんて、ずっと考えもしなかったけど……卑怯かもしれないけど、私……私には、もう無理――」
最後は、喉の奥から絞り出すような苦し気な声だった。ディオネはすすり泣く妹を強く抱きしめた。
「いいんだよ。あんたは充分がんばったんだから」
縮こまったナイシェの体は、いつもよりひどく小さく感じた。
快晴の下、王族専用の病室のすぐ外にある小さな庭で、椅子に腰かけ休んでいるディオネに、ナイシェは声をかけた。
「すごくいい天気だから、今日はこのまま外で食べましょうよ」
そういいながら、盆に二人分の朝食を載せてナイシェは外へ出た。やさしい風がふわりと頬を撫で、鳥のさえずりや葉擦れの音が心地よく体を包む。
その日はパンとサラダに果物、そしてスープという取り合わせだった。給仕係に頼んで用意してもらったものだ。
「ありがとう、ナイシェ。いただくね」
食事がとれるようになり三週間経つが、まだディオネは食事の時間だけは妹と二人きりを望んでいた。その理由は、ナイシェもわかっていた。
さりげなく様子を見ていたナイシェが、姉の皿へ手を伸ばす。
「バター、まだ難しいわね。私が塗るわね」
ナイフにバターをとるまではしたものの、そこからうまく塗り広げられないディオネに代わり、ナイシェが滑らかな手つきであとを引き継ぐ。
「悪いわね」
ディオネはそういって、スープを手に取った。両の手のひらで、覆うように慎重に持つ。昨日はつい油断して落としてしまったからだ。
ディオネの筋力の訓練は、毎日続いていた。今では歩けるようになり、日常生活にほとんど支障はないが、まだ細かい作業や重い物は苦手だし、走ることもできない。階段を上るのには今までの倍の時間がかかっていた。
「……悪いわね」
ディオネがもう一度いう。ナイシェはまったく気にしていない素振りだった。
「だから、謝らないでってば。姉さんが死にかけたときと比べれば……助かって、こんなに元気になって、私、本当にうれしいんだから」
その笑顔に嘘はなかった。
「私ね、最近思うのよ。姉さんとトモロスの町で再会してから、こんなふうに二人でゆっくり過ごすことがなかったな、って」
いわれてみればそうだった。ナイシェが五歳のときに生活のため離れ離れになり、再会したのは実に十一年後のことだった。今度こそ姉妹水入らずで生きていくつもりが、サラマ・アンギュース探しをしているエルシャたちについていくことになったのだ。それからは危険の連続で、ナイシェが思い描いていた姉妹での平穏な生活とは程遠いものだった。今回、皮肉にもディオネが死にかけたことで、二人は初めて、姉妹だけの平穏な時間を過ごしているのだ。
「私、忘れてた。ニーニャ一座をやめて、姉さんに会いに行こうって決めたとき、本当は、やっと姉さんとこんな生活ができる、って期待してたのよ」
ディオネは声をあげて笑った。
「トモロスの家は、こんなお城じゃないけどね」
ナイシェもつられて笑う。
「それはそうだけど。でもね、こんなふうにゆっくり食事をして、笑い合って、夜も安心して眠れて……普通の、静かな暮らし。何だかね、すごく幸せに感じちゃうの。ああ、私は姉さんとこんなふうに暮らしたかったんだ、って」
そういうナイシェの表情に、裏腹な陰りがわずかながら射していることに、ディオネは少し前から気づいていた。
「ナイシェ」
ディオネは隣に座る妹の手を握った。
「本当は、もっとほかにいいたいことがあるんじゃないの?」
ナイシェはディオネの目を見つめた。その目は、いつもと同じように自分を包み込み、支える目だった。ナイシェは目の奥が熱くなっていくのを感じた。口にしてはいけないと、ずっと堪えていた言葉が、震える声とともに漏れ出た。
「私……私、もう、終わりにしたいの……」
そこまでいうと、かろうじてとどまっていた涙が、次から次へと溢れてきた。それに後押しされるかのように、言葉も次々と溢れ出た。
「私ね、姉さんがこんなことになって……あのとき初めて、姉さんは本当に死んじゃうのかも、って思った。動かなくなって……息が、止まって……あのとき……言葉にできないくらい、怖かった。姉さんを失うと思ったら、怖くて怖くて、正気じゃいられないくらいだった。もしまた……もし、万が一、またあんなことがあったら、たぶん私、耐えられない。もう次は……絶対に……」
嗚咽が込み上げてきてうまく話せない。涙は拭っても拭ってもとめどなく溢れる。ディオネは黙って妹の肩を抱き寄せた。
「ごめんなさい、姉さん。姉さんは二人で町に残ろうっていったのに、私が勝手にエルシャたちについていくって決めたから……。そのせいで、姉さんが死にかけて……こんなことになるまで、私にとって姉さんがどれほど大きな存在なのか、気づかなかったなんて。今までも、ショーやメリナ、ハルを失って……エルシャも失いかけて……でも頑張らなきゃ、前に進まなきゃって思ってた。だけど、もうだめ。私、姉さんを失ったら……もう二度と、あんな思いしたくない」
ディオネは泣いて震えるナイシェの体をそっと両腕で包んだ。
「ナイシェ……確かにあたしは、最初は旅をすることに反対だった。でも、エルシャやフェランと関わって、仲間ができて、旅の目的を知って……あたしは、後悔してないよ。死にかけたって、このまま手や足の力が戻らないとしたって、あたしはエルシャたちと旅をしてよかったと思ってる。あのときあんたが、あたしを押し切ってエルシャと一緒に行きたい、っていってくれたからだよ。だからナイシェ、あたしのせいで旅をやめるっていうんなら、それは全然気にしなくていい」
ナイシェは黙って聞いていたが、ゆっくりとかぶりを振った。
「……ううん、違うの。姉さんのためじゃない。私が、もう……」
言葉に詰まる。ディオネはやさしく語りかけた。
「あたしの一番の望みはね、ナイシェ。あんたと、一緒にいること。離れ離れだった十一年間を、これからゆっくりでいいから取り戻すこと。それはね、旅をやめても続けても、どっちでもできるんだ。だから、ナイシェ、あんたは自分の心に従って、やりたいようにやればいいんだよ。あんたのことだもの、たくさんたくさん考えて、出した答えなんでしょう?」
それを聞いて、止まりかけていたナイシェの涙が再び溢れ出した。
「私……私、エルシャが大好き。フェランもゼムズも、ラミも……みんな大好きなの。ずっと一緒にいたい。でも、そのせいで姉さんを失うのは、耐えられない。エルシャたちと離れることになるなんて、ずっと考えもしなかったけど……卑怯かもしれないけど、私……私には、もう無理――」
最後は、喉の奥から絞り出すような苦し気な声だった。ディオネはすすり泣く妹を強く抱きしめた。
「いいんだよ。あんたは充分がんばったんだから」
縮こまったナイシェの体は、いつもよりひどく小さく感じた。
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