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【第五部:聖なる村】第十一章

奇跡を待って

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 重たい扉を閉めると、医務班の騒がしい動きが遠のき、突然の静寂が訪れた。そこには簡易のソファとテーブル、そして流しがあった。奥にも扉が二つ見えており、隙間からは一人用の寝台が見える。
 フェランはナイシェをソファへと促した。

「ここは、王族専用の医務室なんです。医務班以外に、警護や従者がそばにつけるよう、こうして控室が接続しています。狭い部屋ですが少しは休めるし、すぐ隣にディオネがいると思えば、ナイシェも安心でしょう?」

 ソファに腰を下ろすと、思いのほか柔らかい羽毛の中に体が沈んだ。
 そういえば、丸二日、狭い馬車の中で硬い椅子に座りっぱなしで悪路をひたすら走ってきたのだ。
 突然甘い夢の中へ入ってしまったような不思議な感覚に囚われていると、フェランが目の前にカップを差し出した。

「温かい紅茶です。まずは、一息ついてください」

 いわれるがままに口をつけると、それまでこわばっていた体中の皮膚が一気にほぐれるような感じがした。

「おいしい……」

 無意識に、口をついて出た。するとフェランが微笑んだ。

「こういう場所でお茶を入れるのは得意なんです。何しろ、長いことエルシャのとしてアルマニア宮殿で仕えてきましたからね」

 自然に、頬が緩んだ。同時に、張り詰めていた心も緊張が解けていく。まるで魔法にでもかけられたようだった。

「……ありがとう」

 隣に腰を下ろしたフェランを見つめて、ナイシェはいった。

「これくらいのお茶なら、いつでも淹れますよ」

 微笑むフェランに、ナイシェは首を振った。

「そうじゃなくて……。姉さんのために、宮殿までひとりで馬を走らせて……。寝てないんでしょう? 食べ物だって……」

 それでもフェランは笑っていた。

「ナイシェ、あなたに比べれば大したことはありません」

 ナイシェは激しくかぶりを振った。

「私は、何にもできなかった……! どうしていいのかわからずに、ただうろたえていただけ。あなたやエルシャが、全力で姉さんのために動いているのに、私は怖くて……怖くて、何もできなかった……」

 うつむくと、膝の上に涙が落ちた。

 まただ。またこんなに簡単に涙が出て、もう私の目はどうにかなってしまったに違いない。

「違いますよ、ナイシェ」

 フェランはナイシェの頭をそっと引き寄せて自分の胸へあてた。

「あなたがそばにいたからこそ、ディオネはここまでがんばれたんです。反応できなくても、ディオネにはすべて伝わっています。あなたの、ディオネを想う気持ちが。大切な家族を失うかもしれない怖さ――それを受け止めるのは、大変なことです」

 フェランはナイシェの涙を拭ってその目を見た。

「……よくがんばりましたね、ナイシェ」

 ナイシェは肩を震わせた。涙は留まることを知らず、堪えようとすると嗚咽が漏れた。フェランの胸に顔をうずめ、ナイシェはあらがうことなく泣き続けた。





 わずかな物音に目を開けると、人影が動いた。重たい身を起こすと、その人影が振り向いた。

「起こしてしまったか、すまない」

 エルシャだった。いわれて初めて、ナイシェは自分が眠っていたことに気づいた。すぐ横で、フェランがナイシェの背中に腕を回したまま寝息を立てている。

「着替えを用意させた。もっとちゃんとした客室もあるが、当分は……ここで寝泊まりしたほうが、落ち着くだろう? 外には警備を置くから、君もディオネも安全だ」

 ナイシェはあたりを見回した。窓がなく、外の様子がわからない。

「姉さんは……!?」

 エルシャは制するようにうなずいた。

「あのあとすぐ、薬草を使った。しばらくしてから、ディオネの呼吸が戻った。心臓の動きも、今は安定している。薬草が、効いたんだ」
「じゃあ……!」

 エルシャが、初めて笑った。

「一命はとりとめたと思う」

 エルシャはナイシェを連れて隣の部屋へ戻った。先ほどまでディオネの顔を覆っていた無機質なマスクは取り払われ、ディオネが穏やかな表情で目を閉じていた。

「……姉さん」

 声をかけてその手を握る。反応はない。エルシャが静かな声で告げた。

「薬を使ってまだ数時間しか経っていない。心臓や呼吸は回復したが、ほかは……正直にいって、どこまで戻るかは、わからない」
「わからない……って……」
「呼吸は戻ったが、しばらく息が止まっていた時間があったのは確かだ。医者によると、意識はあるが筋力の回復が遅れているだけなのか、意識もないのか……判断ができないとのことだ」
「そんな……」

 言葉を失うナイシェに、エルシャは優しく声をかけた。

「俺は、ディオネにはすべて聞こえていると信じているし、薬の効果もこれから出ると信じている。ジュノレのときだって、意識が戻るのに数日かかったからな」

 ナイシェは唇を噛み締めた。目頭が熱くなったが、涙はこぼれなかった。

「ディオネ姉さん」

 しっかりした声で話しかける。

「絶対戻るって、信じてるからね。姉さんは、こんなことで負けるような人じゃないもの。私、待ってるからね。ずっと、待ってるから」
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