すべて、青

月波結

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 夏空を鳥が滑空する。奇妙な声を上げて。
 干潟に餌を求めて飛んできたんだろう。
 それはわたしにとってあまりに慣れた光景で、それでいて懐かしいものだ。

 今日の六限は数学だった。
 火曜日は最悪だ。五限と六限、続けて数学だから。理系クラスだからそんなの当たり前、なんてことはないと思う。
 嫌なものは嫌だ。

 もっともそんな数学を得意とするひともいる。
 誰にも解けない問題も、彼にかかると自然に紐が解けるようにするすると答えにたどり着く。
 数学の時間のあと、湖西はみんなに囲まれる。わからない問題を教わるためだ。
 コミュニケーションが苦手な湖西も、そうたくさんのひとに囲まれてはなにも口にしないわけにはいかない。彼なりにみんなに教える。
「あー! なるほど、そこでこの公式使うんだ! すごーい! 考えてもみなかった」

 中には佳祐みたいに自分に出された問題を聞きに行くヤツもいる。明日また当たるらしい。みんなの前で間違いを正されるのは恥ずかしい。
「名璃子、やっぱり教えてくれ」
「湖西くんのとこに行ってたじゃない」
「ダメ。女子に囲まれちゃってさ。なんなんだよ、あいつ。少し数学ができるからって」
 ブツブツ言う佳祐をわたしは笑う。
「オレに優先順位があると思わない?」
「特にないかな?」
「あるだろ! 大事な名璃子を一時でも任せたのに」
 それは数学とは関係ないじゃん、と思う。第一、大切な時に一緒にいてくれなかったわけだし、いまは一緒にいるわけだし。わたしはそれでいいんだけどな。

 仕方ないなぁ、と荷物を詰め終わったリュックあら数学の教科書を取り出そうとして、ふと目を上げた。
 あの日のように、小さくてかわいい綾乃がツインテールを揺らして近寄ってきた。
「なにやってるの?」
「数学の予習を始めるところ。佳祐、明日、当たるんだって」
 綾乃は窓際の湖西を見る。
「うわぁ、行列じゃん」
「いつも通りだよ」
 なにに臆することなく、綾乃はつかつかと湖西に近づいて、小首を傾げて「帰ろう」と言った。
 周りの女子は驚いた顔をしたけれど、元々、綾乃はそういうタイプだ。
 マイペース。周りは気にしない。
 湖西はみんなにごめん、と言って、ちょっとほっとした顔をしてリュックを持ち上げた。覚えてる、あの日、ペットボトルを何本も入れてたわんでたリュック。いまはたくさんの教科書や参考書が入っている。
 女の子たちも「湖西くん、また明日ね」と懲りずに手を振る。

 こうして同じクラスになってみると、彼はものすごく勤勉で、なんだかわたしたちも追いつかなくちゃいけない気になるから不思議だ。

「オレたちも行くか」
「別にここでやらなくてもいいもんね」
 わたしと佳祐の家は同じマンションの同じ階。つまり、すぐ近く。
「綾乃たちももう帰るから、一緒に出よう?」
「湖西のとこに今日も行くの?」
 綾乃は顔の前で手を振った。
「違うよ、そういうのじゃなくて、ただピアノを聴かせてもらうだけだよ。あの日から湖西くんのピアノを聴かないと落ち着かなくなっただけ。それに湖西くんのピアノ、学校のよりずっと素敵な音が出るんだよ」
「綾乃ちゃんは『乙女の祈り』ばかりだから、少し違う曲も弾かせてくれるとうれしいんだけど」
「ショパンは大人しく聴いてるじゃない。発表会までもう少しだし」
 綾乃の手首に真新しい傷はなかった。
 わたしの髪も、この暑いさなか長いままだ。「そのままでいてね」と再会した時、綾乃は言った。美容院に行きたくても、それじゃ行けない。綾乃との大事な約束だから。

 結論から言うと、あの日々の記憶は失わなれなかった。いま思うと、みんなで共通の夢を見ていたようなものだ。
 でもわたしは知ってる。
 あそこは、わたしと湖西の『空虚な気持ち』がある意味上手く作用してできた世界だったということ。
 わたしを逃したくない、孤独だった湖西は水でわたしを閉じこめた。一方、自分の殻から出たくないわたしは空で世界を覆った。
 どっちもどっちだ。
 そしていま、わたしたちはあの世界から飛び出して、元の世界に生きている。不思議なことに時間は経っていなかったし、防災倉庫が開いた形跡もなかった。

 パパはうちのリビングで倒れていた。
 そこへ佳祐とママが乗り込んだ時、水を飲んで咳き込んだパパは落ち着くとポケットから四角い箱を出した。
「ずっと渡せなくて持って歩いてたんだ」と中学生のようなことをパパは言ったと聞いた。
 中身は指輪だった。
 真新しい指輪。
「もう一度、一緒に暮らしてほしい。君のいない毎日はもうたくさんだ。聡美と名璃子以外はなにもいらないから」
「……またベランダから落ちるのはごめんよ」
「こっちもね」

 土曜日に、駅ビルの一階にあるマクドナルドでと会う約束をした。
 湖西経由でわたしのLINEを知ったそうだ。
 佳祐は怒って文句を言っていたけれど、恩人だから仕方ない、と最後は諦めた。
 こっちの世界で会う拓己さんはなんだか知らないひとのようで、やっぱり大人っぽくて、恥ずかしくて顔が上げられなかった。相変わらず背がピンと伸びて、真っ直ぐ前を見ている。
 俯いて、いつまでも吸えないマックシェイクを飲んでいた。
「名璃子ちゃん、どうしたの?」と下から覗かれて初めて声が出た。
「また会いたかったから……。なんか恥ずかしくて」
 拓己さんはわたしの髪を撫でて、「名璃子ちゃんはもう俺の妹だよ」と笑った。
 そのあと、ふたりで駅ビルを回った。あの後のことは昇から聞いたから無理に話さなくていいんだよ、と拓己さんは言った。
 思い出のニトリのベッドはもちろん展示品で、ふたりでこっそり角に腰掛けた。ベッドは重みで沈んだ。
 顔を見合わせて、わたしたちは笑った。

 たったそれだけのこと。

 数学の問題のように、考え過ぎると上手く行かない。道に迷ってしまう。
 数学と違うのは、はっきりした答えがないところ。
 ――わかっているのは。
 わたしは誰かに愛されてここにいるんだということ。ここにいていいんだということ。そして、毎日が冴えない昨日の繰り返しではないということ。ひととひとは繋がっているんだということ。
 バイバイ、あの日までのわたし。
 さみしくないことに早く気づいてあげて。

 そうそう、学校で不思議なことが起きた。
 四階にある生徒の机がいくつも屋上に運ばれていて、その机はSOSをかたどっていたらしい。先生たちはカンカンに怒って、学年集会が開かれた。
 まったく不思議だ。誰からのSOSなんだろう?
 ……でも大丈夫、きっと彼らは自分で問題を解決して戻ってくるから。

 だから大丈夫だよ。
 帰る場所は、ここにある。

(了)
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