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第27話 一緒にはいられない

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 ガタンゴトン、ガタンゴトン、⋯⋯。
 車窓からの景色は真っ暗だ。
 わたしの、自分で言うのもなんだけど難しそうな顔が鏡のように映し出されている。
 いっそ青春18切符を買って、鈍行と快速だけで旅をしようか迷った。
 そしたら寄り道の連続だ。笑える。
 よく知った街並みがどんどん近づいてくるのを、及び腰で待っている。
 なにしろあの街にはわたしが育った家もあり、そこにはパパもいる。写真をわたしに教えてくれたあのパパは、若い女とそこにいる。
 どうしようもなかったら、その家に、思い出の詰まった家にお世話になることもあるかもしれない。
 でも、その前にやるべきことが。

 バカなわたしは満里奈と別れたあと買い物に行って、考え事をしながらカレーを作っていた。
 玉ねぎ多めなのはわたしの好みだから。
 恭司は特に好き嫌いを口にしたことはない。「美味い」を繰り返すのは、他人への遠慮かもしれない。
 カレーは今、冷蔵庫だ。
 メモも置いてきた。⋯⋯恭司、わたしのやってること、合ってる?
 頭の上に「大丈夫だ」と口に出す代わりに乗ってくる、あの大きな手が今はない。すっかり慣れた重みが。
 すん、と匂いを嗅ぐ。
 昨日、恭司にくるまるように寝た時の匂いがまだ残ってるかもしれない。⋯⋯そんなわけないか。
 もう少しで電車は目的地に着く。
 わたしはスマホを開く。
 呪文はひとつ。
『もう少しで着くから、駅まで迎えに来て。前のファミレスでいい?』
 アキはなにをやってるんだろう?
 予備校には行かないと言っていた。
 ひとりでやる方が自分には合ってるんだと。
 既読はつかない。
 駅に着くアナウンスが流れる。
 乗り換えの情報も一緒に。でも、わたしは次の駅で降りるんだ。

 知らないうちに秋は確実に近づいて、思っていたより夜は冷える。
 UVカットの薄いパーカーしか持ってこなかったわたしは後悔する。空気が冷たくて、パーカー越しに素肌を冷やす。
 既読がつかない。駅からファミレスに向かう人たちの流れを見ている。
 なんでかな? こんなこと、なかったのに。
 逢えない。
 ここまで来て逢えないなんて、そんなことあるのかー。
 今夜、どうしよう?
 終電には間に合わないし、行ける所まで行っても、恭司は車を持ってないから迎えに来てもらうわけにもいかない。
 サクラさんには会いにくい。
 ⋯⋯アキに、直接逢うことになる。アキの気持ちを無視して。
 やっぱりわたしは大雑把で考えなしだ。
 バカ丸出し。

 人波に少し飛び出た頭を見つける。
 湿度でいつもよりくせっ毛が際立つ。
 近づこうと踏み出すと、スーツ姿のサラリーマンのオジサンの肩にぶつかり、横目で睨まれる。
 小さな声で「ごめんなさい」と言う。
「ハル!」
 アキがわたしの肩をぐいと引く。オジサンはチッという顔をしてどこかに行った。
 アキは前に立ってわたしの両肩に手をかけた。
「どこも怪我はない?」
「うん、大丈夫⋯⋯」
 わたしの小さい体はアキにすっぽり包まれて、目の前はなにも見えなくなる。
「ファミレスにいるって書いてあったのに」
「三十分、待ってみた。たまにはわたしがアキを追うのもいいかなと思って」
 中学生の時は来てくれるのが当たり前だと傲慢にも思っていて、スマホ片手に人混みにアキを探したりせず、ただ待っていた。来るに決まってた。
 ――今日は確証がなかった。

「ごめん、未読無視なんて中学生みたいなことして」
 シュンとしょげて頭を下げる仕草は、昔の彼を思わせた。まだわたしより背が低くて、声変わりもしてなかった頃の。
「わたしが突然、勝手に来たんだからいいの。それに、呼んだでしょう? 呼ばれたら来るのはアキだけじゃないよ」
 ごめん、謝らなくていいのにアキはそう言った。

 ファミレスまでの交差点は相変わらずひとが溢れていて、その流れに乗って渡らなくちゃいけない。信号はまだ赤で、わたしたちは手を繋ぐこともなく、ただ並んで立っていた。
 赤、それはすべてのものが止まる。
 あの曇り窓から何度も見ていた。時間は止まっては流れ、時に点滅する。
 青になり、ようやくひとが流れ始める。
 わたしたちも一歩を踏み出す。
 ああ、離れちゃったんだな、心。
 つい最近、逢ったばかりなのに。
 あの日となにが違うんだろう?

 席に着いてそれからが本当にしんどかった。
 アキは感情を見せずに注文を決めた。わたしも適当なものを選ぶ。
 前にここに通ってた日々を思い出す。
 キラキラとワクワクの連続で、なにもかもがいつでも新しく見えた。
 今見える景色は日に焼けて退色した装飾や、店員が忙しくて補充されないグラス、不満を我慢できずにムズがる子供。なんだか色褪せて⋯⋯そういうものが時間の経過なのかもしれない。
「来たのはまずかったかな?」
「⋯⋯そんなことないよ」
「わたし、考えなしだから」
 わたしの前には相変わらずココアがいて、甘ったるい匂いを撒き散らしている。
 アキは黙って、カプチーノを少しずつ口に含む。
 わたしは――わたしはここに来て、なにをするつもりだったんだろう?
 なにが待ち受けているのかも考えずに。

 不意にアキがカップを置いた。
 白いソーサーが音を立てる。
 カップにはまだ半分、コーヒーが残っている。
 いよいよかな、と身構える。
「呼んだりしてごめん。こんなに遠いのに、冗談でも呼んだりしたらいけなかった」
「なんで? わたしがこの前呼んだら来てくれたじゃん。今度はわたしの番でもよくない?」
「ハルは女の子だから、なにかあったら困るでしょう」
 なにもないよ、と思いながら、目を合わせられない。
 やっぱりわたしの独り合点で、来たらいけなかったのかもしれない。後悔が、手に汗をかかせる。
「それでも来たよ」
「そうだね、ありがとう。無理させたね」
「あのさぁ」
 そこまで行ったところで「お待たせしました」と店員が、アキのすきなチョコレートのデザートと、わたしが頼んだフレンチトーストを持ってきた。
 テーブルにそれを置かれる短時間、アキは頬杖をついて、まだ気持ちを見せずにわたしを見ていた。真っ直ぐに。
 怯みそうになる。
 でもここで逃げたらいけない。
 自分で決めて、ここに来たんだから。

「⋯⋯ごめん、許してほしいことがある」
「え?」
「失望させると思って、言えなかった」
「だってこの間逢ってからまだ何日も」
「あの日も言えなかったんだよ」

 ぼーっとして、なにも考えられない。
 いや、脳が考えることを拒否している。
 聞いてしまったら、たぶん、わたしはズタズタになるに違いない。
 どうしよう、逃げてしまおうか。
 それとも――。それとも。
 こんな時に隣に恭司がいない。話を聞いてくれる人がいない。
「ハル、言えなくてずっと迷ってた。約束、守れなくなった。実は成績が落ちて、ハルの家の近くの大学、難しくなってきて。それで担任から地元の私立の指定校推薦を勧められて⋯⋯迷ったんだ、すごく。
 母さんはハルなら待ってくれるから、今までも離れてたんだし大丈夫だっていつもみたいに暢気なことしか言わないし、担任は事務的なことしか言わない。
 でも僕はハルのそばにいつでもいたいし、そのためにずっとがんばってきて、それなのに⋯⋯」
 アキのデニムに、ポタっと滴が落ちた。
 わたしは座ったまま、落ち着かない気持ちで目を逸らした。男の子の泣くところを、真正面から見ちゃいけない気がした⋯⋯。
 アキの中に、小さい頃のまだ弱かったアキが見えたけど、その子はその時のわたしに手を引かれ、慰められて二人はどこかに消えた。
 わたしとアキの関係は、あの頃とは違うということだ。

「僕はダメだ。今日もここに来るのは間違いじゃないかと思うと、足が進まなかった。ごめん、もう下りるよ。意地を張るのも難しいし、辛くなる⋯⋯。ハルは恭司さんのところに戻りなよ」
「なんでそうなるの!?」
「見てればわかるよ。もし今は違っても、きっと二人は特別なんだと思う。僕たちみたいに当たり前に一緒にいたわけじゃない。ハルは恭司さんを、恭司さんはハルを、互いに惹かれあってあの部屋にいるんだよ」
 なにを言ったらいいのかわからなかった。
 だって恭司の部屋にいるのは成り行きだし、わたしたちは男女なのに同じ部屋で寝起きしていてもなんにもない。
 キスさえない。
 まるで本当に親戚のオジサンのところにお世話になっているようなものだ。
「勘違いだよ。恭司とは本当になんにもないし」
「ハルは鈍感なんだよ。じゃなきゃどうしてあんなに良くしてくれるんだよ。そんな善人、物語にしか出てこないんだよ」
「⋯⋯誤解だよ」
「とにかくハルのそばにこれ以上いるわけにいかなくなった。これは事実。もう決めたんだ。呼ばれても無茶して迎えに行ったりしないし、背伸びして大人のフリもしない。できない。お願いだから僕じゃない人としあわせになって。⋯⋯傷つけてごめん。もう逢わない。期待させてごめん」
 アキは突然立ち上がると、お財布から一万円札を出した。それはピン札で、指紋さえ付いていなさそうに見えた。
「⋯⋯足りないかもしれないけど、これで。ごめん」

 ――アキは行ってしまった。
 残されたピン札が、ひどく薄っぺらなものに見えた。
 いつかの、まだ幼かった頃の五千円札を思い出す。
 あの時、アキも同じような気持ちになったんだろうか?
 わたしは両手で顔を覆い、泣き顔を隠した。


 会計をして店を出る。
 冷めたコーヒー、手のつけられてないデザート。
 ピラピラのレシートと次回来店時のクーポン。
 そして、シワひとつない一万円札。
 残されたのはそれだけだ。
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