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第25話 理想と現実
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もしかしたら、逢いたいのはわたしなのかもしれない。
だからこんなにパニックになるのかも。
わたしのアキが、わたしを呼んでる。
――ちょっと待て。わたしのアキって、なに?
なんで所有格?
それって、本物のアキ?
わたしの中の思い込みや、勝手な理想を押し付けてない?
⋯⋯そんなことってあるかな? だって考えたこともない。
アキは、いつだってわたしのために⋯⋯。
困惑する。
本物のアキは、どこにいったの? 凧を飛ばして泣きそうだった、あのアキ。字が下手くそで、計算も字の汚さでバツもらったこともあるアキ。
そういうお互いの欠点を知ってるのもわたしたちの強みだ。
でも、今はどうだろう?
アキってスーパーカッコいい彼氏じゃない? 外見も、頭脳も、やさしいところも、頼もしいところも、⋯⋯キスが上手なところも。呼べばなにがあっても駆けつけてくれるところも――。
どのアキが本物なんだろう?
「なんだ立ち止まって。ハルらしくないな。行くんじゃないのか? 自分のバカさ加減に気が付いたのか?」
「うん⋯⋯バカだからなのかな? ちょっと混乱して」
「なにを? 行くべきか、行かないべきか?」
「そういうのじゃなくて。あの、上手く言えそうにない」
恭司はまた顎をさする。
顎には名探偵になるためのなにかいい成分があるのかもしれない。
そして恭司は実は名カウンセラーなのかも。
「無理に言葉にしなくてもいい」
あ、そうなんだ、とホッとする。わたしはカウンセリングしてもらうつもりではなかったけど、とにかく一生懸命喋り続けなきゃいけないのかと思ってた。
でも、上手く言えないことは上手く言わなくても別にいいんじゃん、ともうひとりのわたしが囁く。
エアコンから涼しい風。
確かに少し寒いくらいかもしれない。
恭司の毛布をもう少し自分に引き寄せる。
恭司は文句を言わず、ゴロンと転がって肘をついて手で自分の頭を支えた。
「わたし、勝手にアキのこと、王子様みたいに思ってたかも。都合のいい王子様」
「でも助けに行くんだろう? 姫が王子を」
「ん⋯⋯子供の頃はアキは手下みたいなものだったからなぁ、その名残り?」
「それでなにか都合が悪いの?」
自分の中の自分に訊く。
わたしはなにを不都合だと感じてるんだろう?
「別に姫が王子を助けても問題ないし、ハルがアキくんに理想を重ねていても、恋愛ってそんなものだろう? 若い頃なら尚更。自分の理想を相手に投写する。ブレる。『思ってたのと違う』。現実を受け止めて愛し続けるか、切り捨てるか」
「⋯⋯恭司にも経験ある?」
しゃがんでるわたしの方に、恭司は少し首を伸ばしたような気がした。大きな目でわたしを見る。
「それ訊く?」
「え、大人の体験談って役に立つでしょう? 先人の知恵? でもプライベートなことだから、答えたくてもいいよ、ごめん」
恭司は今度は顔を下げた。
わたしの足下を見ている、いや見ていない。
「俺は⋯⋯」
なんだか教会の懺悔室のようだ。苦しい経験を告白させている。
そう思わせるような語り口で恭司の話は始まった。
「俺は、話した通り元々口下手で人付き合いが苦手だった。だから、心理学を専攻したもうひとつの理由は、人の心を知りたかったっていうことだ。神社に願いを持って参拝に来るたくさんの人たち、他人を排斥する人たち、人の心はいろんな色で染まっている。
そんな中で知り合ったのが千嘉だ。千嘉はにっこり微笑んで俺に近付いてきた。もちろん俺だけじゃなくてな。でも俺にとって、アイツが平等な視線の持ち主に見えたんだ」
「少しして、普通に話すようになって、時にはランチを一緒にするようになって、それでその度にアイツを好ましいと思うようになって、だから、その、告白したわけだ」
そこで恭司はさらにガクッと首を落とした。
これは拷問なのでは、と思い始めて「もういいよ」と横に手を振る。
「いや、大丈夫。いつも微笑んで変わらない穏やかなトーンで話をする彼女は俺の理想になって、いつも一緒にいたいと思うようになったんだ。
だが、付き合い始めて、深い関係になっていくにつれて、彼女がその時、瞬間的に見せる本当の顔。それは疲れた顔だったり、不満を持っていたり、別のことを考えていたり、怒っていたり⋯⋯思えば当たり前のことなんだけどその時はそのひとつひとつに裏切られたような気持ちになったんだよ。今までのは作ってたのかって」
「それはさぁ」
「そうだよ、俺の勝手な思い込みだ。押し付けてたんだよな、理想を。
それに気が付いたから別れた。千嘉はそれほど動揺しなかったよ。俺との関係に疲れてたのかもしれない。すっぱり別れた。ジ・エンドだ」
「理想を押し付けたら、別れなくちゃいけない?」
「そんなことはない、虚像をお互いに見つめ合いながら幸か不幸か付き合いを続けることもできる」
わたしたちは、どうなんだろう?
お互いに、お互いしか見てなかった⋯⋯。
お互い、ほかの異性との接触がなかったわけじゃないけど、それでも不思議な力で引き付けられて、やっぱりアキといるのが一番心地よくて。⋯⋯だって、なにも説明しなくてもわかり合える部分が多かったから。
なにも言わなくても手を繋いでいれば、心が補完されていく。
「⋯⋯変かな? わたしたち、恋してる?」
「悪い、それは他人にはわからないし、決めることはできない」
「じゃあ恭司は佐伯さんのこと、すきじゃなかったってことになったの?」
「それは違うな。すきだったけど、千嘉のことを自分に都合のいいように見てたことに気付いたんだ。俺がすきだったのは自分に都合のいい幻だった。千嘉をすきだったけど、俺の見てた千嘉は千嘉とブレてたんだ」
「⋯⋯難しいね」
恭司はわたしの頭に手を伸ばした。そして後ろ頭をその手ですっぽり覆った。
その目がなにを語ってるのかわからない。
わたしを見つめている。
「⋯⋯ハルはアキをすきでいいんだよ。立ち止まらなくてもいいんだよ」
「アキの弱さをわかってあげられないの、心のどこかで、アキにはそんなところはないって、逢いたくなるのはわたしの役目だって」
「なるほど、それを慰める大人の役目が俺の役割か」
「そうなの?」
「たぶんな」
抱き寄せられる前に、その腕の中に隠れるように沈む。
甘やかされるのは気持ちいい。
悪いことも忘れられそうになる。
「ハル、もう自分の家に帰る頃なんじゃないか? そうしたらアキくんとの関係ももっとシンプルになるし、⋯⋯俺も大人でいられるし」
「⋯⋯ねぇ、わたし、恭司にも理想を重ねてる?」
「どうかな。俺はハルにフィルターをかけてないよ」
「そうなんだ」
「大人だからな」
その腕の中で深呼吸する。
ここはセーフティゾーン。
恭司はわたしをわたしのまま許してくれる。
「もう少し、ここにいてもいい?」
「アキくんはよく思わないと思うけど」
それは確かだ。
泣いているアキをススキ野原の向こうに見てる。
わたしはなぜか足を動かさない。
アキはひとりぼっちで、途方に暮れてる⋯⋯。
あの子をひとりにしていいの?
「狡いと思う。でもわたしは、あの子と離れてみて、わからなくなったことがあるの。この十九年間、わたしとアキはお互いしか見てなくて、でも本当は外の世界があるんだよね。わたし、それを無視してずっと生きてきたみたい」
「それもひとつの形じゃないのか?」
「それがいいことなのかわからなくなった」
「⋯⋯そうか、ひとつの気付きかもな」
難しいことはよくわかんないよ、とそのままタオルケットの中に潜った。恭司はそれを止めなかったし、わたしは安心だった。
手を伸ばしてスマホを取る。
バックライトが眩しい。
ごめん、心の中で謝る。
『ごめんね、冷静になって考えたけど、すぐには行けない』
既読も付かなかった。寝てしまったのかもしれない。
気が付くと、朝が地平線の向こう側から出てくるのを窺ってる時間だった。
今はここにいたい。
答えはまだ出ない。
本当のアキが揺らいで見えない。
――離れなければよかったのかもしれない。間違えたのかもしれない。
凧を落としたアキと、この前久しぶりに会ったアキが重ならない。
わたしがずっと手を繋いでたのは、誰?
凧を落として泣いていたあの子じゃなかったの?
だからこんなにパニックになるのかも。
わたしのアキが、わたしを呼んでる。
――ちょっと待て。わたしのアキって、なに?
なんで所有格?
それって、本物のアキ?
わたしの中の思い込みや、勝手な理想を押し付けてない?
⋯⋯そんなことってあるかな? だって考えたこともない。
アキは、いつだってわたしのために⋯⋯。
困惑する。
本物のアキは、どこにいったの? 凧を飛ばして泣きそうだった、あのアキ。字が下手くそで、計算も字の汚さでバツもらったこともあるアキ。
そういうお互いの欠点を知ってるのもわたしたちの強みだ。
でも、今はどうだろう?
アキってスーパーカッコいい彼氏じゃない? 外見も、頭脳も、やさしいところも、頼もしいところも、⋯⋯キスが上手なところも。呼べばなにがあっても駆けつけてくれるところも――。
どのアキが本物なんだろう?
「なんだ立ち止まって。ハルらしくないな。行くんじゃないのか? 自分のバカさ加減に気が付いたのか?」
「うん⋯⋯バカだからなのかな? ちょっと混乱して」
「なにを? 行くべきか、行かないべきか?」
「そういうのじゃなくて。あの、上手く言えそうにない」
恭司はまた顎をさする。
顎には名探偵になるためのなにかいい成分があるのかもしれない。
そして恭司は実は名カウンセラーなのかも。
「無理に言葉にしなくてもいい」
あ、そうなんだ、とホッとする。わたしはカウンセリングしてもらうつもりではなかったけど、とにかく一生懸命喋り続けなきゃいけないのかと思ってた。
でも、上手く言えないことは上手く言わなくても別にいいんじゃん、ともうひとりのわたしが囁く。
エアコンから涼しい風。
確かに少し寒いくらいかもしれない。
恭司の毛布をもう少し自分に引き寄せる。
恭司は文句を言わず、ゴロンと転がって肘をついて手で自分の頭を支えた。
「わたし、勝手にアキのこと、王子様みたいに思ってたかも。都合のいい王子様」
「でも助けに行くんだろう? 姫が王子を」
「ん⋯⋯子供の頃はアキは手下みたいなものだったからなぁ、その名残り?」
「それでなにか都合が悪いの?」
自分の中の自分に訊く。
わたしはなにを不都合だと感じてるんだろう?
「別に姫が王子を助けても問題ないし、ハルがアキくんに理想を重ねていても、恋愛ってそんなものだろう? 若い頃なら尚更。自分の理想を相手に投写する。ブレる。『思ってたのと違う』。現実を受け止めて愛し続けるか、切り捨てるか」
「⋯⋯恭司にも経験ある?」
しゃがんでるわたしの方に、恭司は少し首を伸ばしたような気がした。大きな目でわたしを見る。
「それ訊く?」
「え、大人の体験談って役に立つでしょう? 先人の知恵? でもプライベートなことだから、答えたくてもいいよ、ごめん」
恭司は今度は顔を下げた。
わたしの足下を見ている、いや見ていない。
「俺は⋯⋯」
なんだか教会の懺悔室のようだ。苦しい経験を告白させている。
そう思わせるような語り口で恭司の話は始まった。
「俺は、話した通り元々口下手で人付き合いが苦手だった。だから、心理学を専攻したもうひとつの理由は、人の心を知りたかったっていうことだ。神社に願いを持って参拝に来るたくさんの人たち、他人を排斥する人たち、人の心はいろんな色で染まっている。
そんな中で知り合ったのが千嘉だ。千嘉はにっこり微笑んで俺に近付いてきた。もちろん俺だけじゃなくてな。でも俺にとって、アイツが平等な視線の持ち主に見えたんだ」
「少しして、普通に話すようになって、時にはランチを一緒にするようになって、それでその度にアイツを好ましいと思うようになって、だから、その、告白したわけだ」
そこで恭司はさらにガクッと首を落とした。
これは拷問なのでは、と思い始めて「もういいよ」と横に手を振る。
「いや、大丈夫。いつも微笑んで変わらない穏やかなトーンで話をする彼女は俺の理想になって、いつも一緒にいたいと思うようになったんだ。
だが、付き合い始めて、深い関係になっていくにつれて、彼女がその時、瞬間的に見せる本当の顔。それは疲れた顔だったり、不満を持っていたり、別のことを考えていたり、怒っていたり⋯⋯思えば当たり前のことなんだけどその時はそのひとつひとつに裏切られたような気持ちになったんだよ。今までのは作ってたのかって」
「それはさぁ」
「そうだよ、俺の勝手な思い込みだ。押し付けてたんだよな、理想を。
それに気が付いたから別れた。千嘉はそれほど動揺しなかったよ。俺との関係に疲れてたのかもしれない。すっぱり別れた。ジ・エンドだ」
「理想を押し付けたら、別れなくちゃいけない?」
「そんなことはない、虚像をお互いに見つめ合いながら幸か不幸か付き合いを続けることもできる」
わたしたちは、どうなんだろう?
お互いに、お互いしか見てなかった⋯⋯。
お互い、ほかの異性との接触がなかったわけじゃないけど、それでも不思議な力で引き付けられて、やっぱりアキといるのが一番心地よくて。⋯⋯だって、なにも説明しなくてもわかり合える部分が多かったから。
なにも言わなくても手を繋いでいれば、心が補完されていく。
「⋯⋯変かな? わたしたち、恋してる?」
「悪い、それは他人にはわからないし、決めることはできない」
「じゃあ恭司は佐伯さんのこと、すきじゃなかったってことになったの?」
「それは違うな。すきだったけど、千嘉のことを自分に都合のいいように見てたことに気付いたんだ。俺がすきだったのは自分に都合のいい幻だった。千嘉をすきだったけど、俺の見てた千嘉は千嘉とブレてたんだ」
「⋯⋯難しいね」
恭司はわたしの頭に手を伸ばした。そして後ろ頭をその手ですっぽり覆った。
その目がなにを語ってるのかわからない。
わたしを見つめている。
「⋯⋯ハルはアキをすきでいいんだよ。立ち止まらなくてもいいんだよ」
「アキの弱さをわかってあげられないの、心のどこかで、アキにはそんなところはないって、逢いたくなるのはわたしの役目だって」
「なるほど、それを慰める大人の役目が俺の役割か」
「そうなの?」
「たぶんな」
抱き寄せられる前に、その腕の中に隠れるように沈む。
甘やかされるのは気持ちいい。
悪いことも忘れられそうになる。
「ハル、もう自分の家に帰る頃なんじゃないか? そうしたらアキくんとの関係ももっとシンプルになるし、⋯⋯俺も大人でいられるし」
「⋯⋯ねぇ、わたし、恭司にも理想を重ねてる?」
「どうかな。俺はハルにフィルターをかけてないよ」
「そうなんだ」
「大人だからな」
その腕の中で深呼吸する。
ここはセーフティゾーン。
恭司はわたしをわたしのまま許してくれる。
「もう少し、ここにいてもいい?」
「アキくんはよく思わないと思うけど」
それは確かだ。
泣いているアキをススキ野原の向こうに見てる。
わたしはなぜか足を動かさない。
アキはひとりぼっちで、途方に暮れてる⋯⋯。
あの子をひとりにしていいの?
「狡いと思う。でもわたしは、あの子と離れてみて、わからなくなったことがあるの。この十九年間、わたしとアキはお互いしか見てなくて、でも本当は外の世界があるんだよね。わたし、それを無視してずっと生きてきたみたい」
「それもひとつの形じゃないのか?」
「それがいいことなのかわからなくなった」
「⋯⋯そうか、ひとつの気付きかもな」
難しいことはよくわかんないよ、とそのままタオルケットの中に潜った。恭司はそれを止めなかったし、わたしは安心だった。
手を伸ばしてスマホを取る。
バックライトが眩しい。
ごめん、心の中で謝る。
『ごめんね、冷静になって考えたけど、すぐには行けない』
既読も付かなかった。寝てしまったのかもしれない。
気が付くと、朝が地平線の向こう側から出てくるのを窺ってる時間だった。
今はここにいたい。
答えはまだ出ない。
本当のアキが揺らいで見えない。
――離れなければよかったのかもしれない。間違えたのかもしれない。
凧を落としたアキと、この前久しぶりに会ったアキが重ならない。
わたしがずっと手を繋いでたのは、誰?
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