〖完結〗インディアン・サマー -spring-

月波結

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第14話 薬指

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 その後、恭司が呆けてしまったかというとそんなことはなく、書店を出るといつもの恭司に戻った。
 人当たりが良く、爽やかで嫌味がない。
 五月の風のような人だ。
 そんなことを考えてるわたしはどうしたんだろう?
 まだ知り合って数日なのに。
 どんどん、知ってしまう。一緒にいればいるほど。
 
 レストラン街にあるお店はちょっとした物でもお値段が張って「いつも作ってもらってるから、今日は奢ろう」と恭司は言った。余程お腹が空いていたのかもしれない。
「お金なら持ってる」と言うと「子供は大人の言うことを聞けばいい。遠慮はいらないよ」と言った。
 同情はいらないよ、と思う。
 奢ってもらった天丼は、ひとつ数千円という恐ろしい代物だった。恭司はたまに食べたくなるんだ、と言った。
 わたしは訝しんだ。佐伯さんには到底似合わない。⋯⋯連れてきたのかな?
「美味しい!」
 一口食べると有名店の天ぷらは、市販の天ぷら粉で揚げたものとはまるで違い、恭司は自慢げに「そうだろう」と言った。
 大盛りの天丼の前でにこやかに。
 それでも天丼を食べ尽くすことは難しかった。いいよ、と言いながら恭司は向こうから手を伸ばし、わたしの残した天ぷらをつまんだ。
 キスとシシトウは食べた。
 ナスは食べ残した。つまり食われてしまった。
 今度来ることがあったら、食べる順番を考えよう。

 そうして不良娘のわたしはまた恭司のアパートへ帰る。
 タイムマシーンに乗った先のようなあの古い部屋に。
 恭司は少しビールを飲んでいつもよりご機嫌なようで、なにか知らない曲を口ずさんでいた。
 佐伯さんのことはもういいのかな、と思う。
 じっと見る。
「なにかついてる? ご飯粒?」
「ううん、なんでもない」
 わたしがあの大学生たちに絡まれた通りを歩く時、恭司はわたしの手をそっと取った。相変わらず騒々しくて猥雑な通りで。
 大丈夫、心配ない。――そう言っているようだった。
 確かにこんなにガタイのいい人の連れてる女に手を出そうという輩はそうそういないだろう。連れてる女も上物とは言えないし。

 そこを通り抜けてもわたしたちは手を繋いだままで、暗い路地を歩く。
 小さな灯りがぽつぽつ光る家々の隙間を縫うように歩いていると、なぜかまた、訳のわからない寂しさが胸を占める。そのギュッと固まった黒い塊は、小さな粒子となってどんどん心を満たしていく。心細い。
 今までならアキを呼んでしまったに違いない。
 でも今は呼ばない。
 スマホは開かない。
 家出中ということもあるけど、なにより、大きな恭司がしっかりと手を繋いでくれてるから。その存在感がわたしを安心させる。揺らぐ心を止めてくれる。目の前にいるから、スマホはいらない。
 もう少し、あと数センチ寄り添ってみたい気がした。
 ハッと思い出す。
 わたしは酔ってるわけじゃないし、恭司には想い人がいる。軽はずみなことはできない。

 やっぱりアキがいてくれたらな。

 柴犬のようなアキが、わたしのそばを離れずにいてくれたら、この訳のわからない寂しさから開放されるかもしれないのに。
 ――恭司の部屋を出なくちゃいけない。
 わたしはそう思った。
 でもほかに行くあてがなかった。
 考えよう、どうしたらいいのか。これ以上、迷惑をかけたらいけない。
 そもそもわたしの下着の干し方をすぐに教えてくれるような女性がいることはわかってたのに。
『元カノ』という言葉に騙された。
 終わったということを意味する言葉では決してない。想いは現在進行形ということはなきにしもあらず、だ。
 鈍感だな、わたし。
 まぁ、保護者だし。
 とりあえずその手の厚さに心を開く。頑丈なその手は、しばらくわたしを助けてくれるに違いない。例え、ほかにすきな人がいたとしても。

 翌朝、目が覚めると恭司はいなかった。テーブルにメモ書き。
『疲れてるんだろう。よく寝てたから起こさなかった。ゆっくりすきなことでもして。門限は守れよ』

 することもなく、買い物に行く。
 途中で気持ちがダレて、いつもと順序は逆だけど先にコンビニに寄る。
 航太の顔でも見てやろうと思って冷房の効いた店内に入るといない。レジを打っているのも別の子だ。
 雑誌コーナーの前でスマホを開く。
 航太のアイコンはハムスターだ。飼っているらしい。その話になると、顔が溶ける。
『バイト休みなの?』
 パッと既読がつく。ということはバイト中ではないということだ。
『休み。千遥はなにしてるの?』
『バイトに来てるかと思ってコンビニに来ちゃった』
『タイミング悪いよ。俺、実は今、長野。写真撮りに来てる』
 ああ、撮影旅行か。夏休みだもんな。
『わかった。がんばってね』
 ありがとう、と返信が来て、気持ちが一気にシラケる。この前のアタリ棒をアイスと交換してもらおうと思ったのに。
 別の店員でもいいんだけど、なんとなくやめる。

 外はうだるような暑さで、店内から出たら焦げた目玉焼きになってしまうかもしれない。
 まぁいい。少し涼んで適当な飲み物でも買って出よう。
 ガラス越しに、知った人が通った気がした。
 スライドドアはスっと開いて、店に入ったその人は何気なくこっちを見た。
 わたしはその人を目で追っていたので、バッチリ目が合う。
「あら、恭司のとこの」
「こんにちは」
 佐伯さんは、真っ白いブラウスにテーパードパンツを履いていた。足元は黒のローヒールでかなりカッチリしてる。今日は化粧もしてる。ベーシックに、可もなく不可もなく。マットな落ち着いた赤いルージュが目を引く。
 かわいい印象の彼女とその服装はミスマッチのように思えた。それでも赤いルージュが似合う年齢なんだな、と思う。
「この近くに住んでるんですか?」
「違うの。この近くにあるのはわたしたちの通った大学で、わたしはそこの院に残ってまだ研究をしてるの」
「カウンセラー、じゃなくて?」
「そうね、頼まれて少しやることもあるけど、基本的に実地より研究なの」
 へぇ、と思わず口から出て、失礼だったかなと赤くなる。彼女は口角を感じよく上げて笑った。

「恭司は現場一筋だから、ピンと来ないわよね」
「恭司とは関係なくて、心理学の研究ってどんなことするのかな、と思いましたけど。一般教養で心理学、取らなかったんで」
「大学生なの?」
「はい、うちの大学もこの近くですよ」
 なるほど、という顔を彼女はした。
「ごめんなさい、ずっと高校生かと思ってて。失礼なこと言わなかったかしら?」
「ええ、特には」
「そうなの、じゃあ年齢的には成人なのね。恭司が女子高生を抱え込んでるんだとしたらすごく問題だと思って、昨日もそれを考えてたの。なんとかしてあなたに出て行ってもらおうかとか」

 居心地が悪いのは自業自得。
 恭司のところにいるのは彼の慈悲のお陰で、わたしはこの歳になって家出中の身なんだから。
 悪く思われても仕方ない。
「うちに置いてあげてもいいんだけど······。恭司がそれはダメだって」
「恭司が?」
「そうよ、昨日の夜、話し合ったの」
 部屋に着いてから恭司はソワソワし始めて、唐突にビールを買ってくると出て行った。
 そしてのんびりした時間に、小さな缶ビールを一缶だけ、白いビニール袋に提げて帰ってきた。
 ほろ酔い気分でもう一本欲しくなったのかと思ってたけど、外で連絡を取っていたのか。
 わたしの前で話せることじゃないし、メッセージを一生懸命打ってる姿も確かに見たことがない。
 その時、キラリとしたものが目に入った。
 佐伯さんの左手、薬指。
 彼女が髪を触った時だった。
「結婚······」
「ああ、昨日、隣にいたのが夫なの。大学は違うんだけど、研究分野が重なってて、それが縁でね」

 よくわからない。
 大人の世界はよくわからない。
 恭司はまだあんな目をしてこの人を見ていたのに、この人は既婚者、つまりほかに愛する人がいるんだ。
「恭司とは······?」
「ずいぶんプライベートな質問ね。恭司とはまだ学生の時に、付き合ってたの。それでおかしな話なんだけど、恭司の現場主義とわたしの研究主義が合わなくて、ひどい喧嘩もしたわ。でももう何年も前よ。懐かしいわね」
 くすくすと笑った彼女の、その表情が忘れられない。小さくてかわいらしい。
 彼女には完全に恭司はアウトなんだ。
「ごめんなさい。わたし、門限あるんで」
「あら、恭司に?」
「はい、六時なんでヤバいんで」
 それじゃまた、と意味のない形式だけの挨拶を交わす。
 片想いをズルズル引き摺って何年になるの?
 そんなの不毛すぎる。
 時間がない、とりあえずスーパーだ。
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