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第13話 苦しい恋
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まだアスファルトに熱気の残る街をブラブラして、暑さに耐えられなくなると買う気もないのに寄り道する。
普段は入らない、イマドキ珍しい百貨店に入ってみたりもする。大人と一緒ってこういうことかな、なんて思う。自分も年齢的には大人なのにおかしな話だけど。
自分の服装があまりにお安くて、ちょっと隠れたくなる。
恭司みたいに、自分を貫ける自信がない。
どんな時でも凛としてる。
それがお子様なのかもしれない。
入ってすぐの女性物の小物売り場で、ちょっとかわいいタオルハンカチを見て手に取る。
裏側に貼ってある小さい値札を見てギョッとする。
······お値段は決してかわいくない。
売り場の女性がにっこりする。決して勧めてくるわけじゃない。
ただ、声もかけずににっこり。
「どうした? それが気に入った?」
恭司が同じものを手に取って値段を見ようとする、その手を阻む。
「そういう訳じゃないの。行こう、次」
強引に手を引くと、恭司は振り返りまだ後ろを見ていた。
「なにか素敵なものがあるかなぁ」
かなり棒読み。
素敵なものならいっぱいある。
ただし買える範囲のものじゃない。
なにしろ、家出中の身でもあるし。
わたしには、そもそも似合わない。分不相応だ。
「女っていうのはこういうとこ、すきだよなぁ。買うわけでもないのに」
エスカレーターの一段下にいる恭司を見る。
それは、誰かとこういうところに来たってことだよね。
その人はきっと、わたしより年上で、パンプスを履いても転んだりしないし、男性にエスコートされてもキョドったりしないに違いない。
⋯⋯ああ、あの人も。
見るだけなのは、素敵だと思うものは大概買えないからだ。
そう、例えば美術館の絵画のように、どんなに素敵でも買えない。
何枚も何枚も描いたというモネの睡蓮さえ買えない。
複製画でさえ高い。
買えるとしたら、ポスターやポストカード、クリアファイルなんかだ。
買えないけど、目の保養は必要なんだ。人間ってヤツは。
「さっきのさぁ」
エスカレーターはグルグルと折り返しを続けながら、わたしたちを上の階へと運ぶ。
下へ向かう人たちとクロスしてすれ違う。
動く階段を初めて見た人々はなにを思っただろう?
聞こえるか聞こえないかやっとという狭間で恭司は相槌を打った。うん、と。
「空の写真集なんだけど、うちのパパが出した本なんだよね」
二人の間に妙な沈黙が生まれる。
空気が重い。
カウンセラーは黙っていた。
「ほら、今度若いお姉ちゃんと再婚する」
「そうか。お父さんは空がすきなんだな。だから『千遥』なんだ」
唇を、ギュッと噛む。
パパを認めたくない気持ちが、お腹の奥底でのたうち回ってる。こんなことは認めちゃいけないんだ、そう思ってる。⋯⋯そう、思ってる。
「パパはその時だけでもわたしのことを大切だと思ったと思う?」
「思うよ。生まれてきた我が子をかわいいと思えるっていうのは才能なんだ。思えない人もたくさんいる。まして男なら尚更。ハルのお父さんは自分の一番すきなことをハルの名前につけたんだ。愛情の形は人それぞれだけど、その名前はお父さんの愛情のひとつなんじゃないかな」
「そっか」
もう大学生になったのに、中学生に戻ったような気になる。
肩が、ふっと軽くなる。
肩肘を張り続けていたことに気づく。
パパとママが別居した時、それを聞いていたら――聞いていたらどうだっていうんだろう?
わたしはパパにもう少しやさしくできたかもしれない。
そしたらパパはもっとわたしと一緒にいてくれた?
そんなもう過ぎ去った『if』に、なんの意味があるんだろう?
でも、今は、自分の名前を少しだけ愛したいという気持ちになった。それは胸を締めつけたりしないで、やさしく、暖かく心を癒した。
「お」
くたくたになるほどエスカレーターに乗って、やっと九階まで辿りついた。別に最上階まで制覇したかったわけじゃないけど、せっかく来たんだから、非日常を楽しもうと思った異文化に馴染めず、結局、途中の大型書店に戻った。
書店では恭司は専門書を少し見たいからと、わたしは不意に手を離された。
最初から繋いでいた訳じゃないけど、心の中で繋がりかけた手がするりと解かれて遠のいていく。手の、伸ばしようもなかった。
大きな書店はまるで頑丈な書棚で作られた迷路のようで、棚と棚の間には重なるように人がいた。
それを見て歩く。
まるで不思議の国のアリスになったように、ここもまた非日常だ。
ブックカフェを見つけて少し休もうかなと思う。フラフラと入っていくと、本を手にした人たちで座席は埋まっている。ガッカリして店を出る。と言っても、書店とカフェには明確な仕切りはない。
わたしはまた迷路を歩く。
北欧神話の本。
子供たちが夢中になって小さいテーブルに群れる絵本コーナー。
難しい顔をした女の人たちが立ち読みしている手芸本コーナー。
いろんな本があるということは、世界は広いということだ。わたしは行先もなく、その特別な世界を漂う。
そして、パパの本も置いているかな、とふと思い付く。
でも今日は足は棒だし、探すのはまた今度にして、始点に戻ろうと思う。スタート地点は心理学の専門書。
今月の新刊、ベストセラーの棚、そんなものの棚をわけ行って、静かな方へ進む。
『心理学』のプレートを見付ける。
「恭司」
胸を撫で下ろす。あまり迷路は得意じゃない。探し物は大抵、見つからない。
「ああ、待たせてごめん」
恭司は棚に向かって立っていたわけではなかった。
棚と棚の間を心細く覗くわたしを振り返る。
腕組みをした女性が大きな背中の向こう側に見える。
「こちらはさっきも会ったと思うけど、佐伯さん。俺の大学での同期なんだ」
「また会ったわね。佐伯です、よろしく」
よろしくお願いします、と、もごもご言葉を漏らす。
なにをよろしくするのかよくわからないけど、挨拶ってそんなものだ。Nice to meet you.
さすがに握手はしなかったけど。
佐伯さんは眼鏡のフレームを指先でくっと上げた。
無表情で。
眼鏡の位置が定まると、またわたしに微笑む。
「若いっていいわね」
彼女も十分若かった。失礼だけど少し童顔だし、丸い瞳がまた彼女を一段と幼く見せた。
背もわたしより小さく、そして運動なんてしたことがないというように白くて細かった。
「そんなに若くないです」
この答えはNGな気がしたけど、ほかに言葉が浮かばなかった。わたしはその微笑みから視線を外した。
「わたしがあなたくらいの頃、勉強に必死で、毎日にちっとも余裕がなかったの。あなたは今を楽しんでね。すぐ大人になっちゃうから」
じゃあね、と恭司に手を振ると、規則正しい歩幅で真っ直ぐ背筋を伸ばして彼女は去ってしまった。
彼女は、去っていく。
さっきの男性はどこにいるんだろう?
「佐伯さん」
「そう、佐伯千嘉。隠すことじゃないから言うけど、いわゆるあれが元カノだ」
「⋯⋯未練タラタラじゃん」
自分の言葉に少し傷つく。
「どこが?」
「その、目がずっと追ってるところ」
ああ、と恭司は後ろ頭に手をやった。
困ってる。
「そういうつもりはないんだけど、なんだろう、昔の癖かな? いつも見送ってたから」
聞いてないから。
そんなこと、聞いてないから。癖になるまで見送るなんて、どれだけ見送ったんだ?
「買うの?」
「いや、特にめぼしいものはなかった」
「そう、じゃあ行こう。お腹空いたし」
「上にレストラン街がある。行こう」
相当、動揺してたのか、恭司はわたしの手首をぐいと引いた。わ、と前のめりになる。悪い、と彼はわたしを受け止める。
「まだすきなんだね」
「⋯⋯かもしれない」
恭司はまた右手で口元を覆った。
眉根が寄る。
困惑したイケメンというのは見応えがある。でも、その困惑の原因がなんなのか、というのは問題なんだと思った。
「わたしには関係ないじゃん」
「え?」
「なんでもないよ」
あの女性に恋人がいることは明白だ。
苦しい恋なんかしてんじゃねーよ、と、頭の中でひとり呟く。――なにしてんだろ、わたし。
恭司はわたしの想い人じゃないし、そもそも恋愛という枠から飛び出した関係なんだ。
割り切らなくちゃやっていけない。
きっと、一瞬嫉妬してしまったのは、気の迷いだ。
普段は入らない、イマドキ珍しい百貨店に入ってみたりもする。大人と一緒ってこういうことかな、なんて思う。自分も年齢的には大人なのにおかしな話だけど。
自分の服装があまりにお安くて、ちょっと隠れたくなる。
恭司みたいに、自分を貫ける自信がない。
どんな時でも凛としてる。
それがお子様なのかもしれない。
入ってすぐの女性物の小物売り場で、ちょっとかわいいタオルハンカチを見て手に取る。
裏側に貼ってある小さい値札を見てギョッとする。
······お値段は決してかわいくない。
売り場の女性がにっこりする。決して勧めてくるわけじゃない。
ただ、声もかけずににっこり。
「どうした? それが気に入った?」
恭司が同じものを手に取って値段を見ようとする、その手を阻む。
「そういう訳じゃないの。行こう、次」
強引に手を引くと、恭司は振り返りまだ後ろを見ていた。
「なにか素敵なものがあるかなぁ」
かなり棒読み。
素敵なものならいっぱいある。
ただし買える範囲のものじゃない。
なにしろ、家出中の身でもあるし。
わたしには、そもそも似合わない。分不相応だ。
「女っていうのはこういうとこ、すきだよなぁ。買うわけでもないのに」
エスカレーターの一段下にいる恭司を見る。
それは、誰かとこういうところに来たってことだよね。
その人はきっと、わたしより年上で、パンプスを履いても転んだりしないし、男性にエスコートされてもキョドったりしないに違いない。
⋯⋯ああ、あの人も。
見るだけなのは、素敵だと思うものは大概買えないからだ。
そう、例えば美術館の絵画のように、どんなに素敵でも買えない。
何枚も何枚も描いたというモネの睡蓮さえ買えない。
複製画でさえ高い。
買えるとしたら、ポスターやポストカード、クリアファイルなんかだ。
買えないけど、目の保養は必要なんだ。人間ってヤツは。
「さっきのさぁ」
エスカレーターはグルグルと折り返しを続けながら、わたしたちを上の階へと運ぶ。
下へ向かう人たちとクロスしてすれ違う。
動く階段を初めて見た人々はなにを思っただろう?
聞こえるか聞こえないかやっとという狭間で恭司は相槌を打った。うん、と。
「空の写真集なんだけど、うちのパパが出した本なんだよね」
二人の間に妙な沈黙が生まれる。
空気が重い。
カウンセラーは黙っていた。
「ほら、今度若いお姉ちゃんと再婚する」
「そうか。お父さんは空がすきなんだな。だから『千遥』なんだ」
唇を、ギュッと噛む。
パパを認めたくない気持ちが、お腹の奥底でのたうち回ってる。こんなことは認めちゃいけないんだ、そう思ってる。⋯⋯そう、思ってる。
「パパはその時だけでもわたしのことを大切だと思ったと思う?」
「思うよ。生まれてきた我が子をかわいいと思えるっていうのは才能なんだ。思えない人もたくさんいる。まして男なら尚更。ハルのお父さんは自分の一番すきなことをハルの名前につけたんだ。愛情の形は人それぞれだけど、その名前はお父さんの愛情のひとつなんじゃないかな」
「そっか」
もう大学生になったのに、中学生に戻ったような気になる。
肩が、ふっと軽くなる。
肩肘を張り続けていたことに気づく。
パパとママが別居した時、それを聞いていたら――聞いていたらどうだっていうんだろう?
わたしはパパにもう少しやさしくできたかもしれない。
そしたらパパはもっとわたしと一緒にいてくれた?
そんなもう過ぎ去った『if』に、なんの意味があるんだろう?
でも、今は、自分の名前を少しだけ愛したいという気持ちになった。それは胸を締めつけたりしないで、やさしく、暖かく心を癒した。
「お」
くたくたになるほどエスカレーターに乗って、やっと九階まで辿りついた。別に最上階まで制覇したかったわけじゃないけど、せっかく来たんだから、非日常を楽しもうと思った異文化に馴染めず、結局、途中の大型書店に戻った。
書店では恭司は専門書を少し見たいからと、わたしは不意に手を離された。
最初から繋いでいた訳じゃないけど、心の中で繋がりかけた手がするりと解かれて遠のいていく。手の、伸ばしようもなかった。
大きな書店はまるで頑丈な書棚で作られた迷路のようで、棚と棚の間には重なるように人がいた。
それを見て歩く。
まるで不思議の国のアリスになったように、ここもまた非日常だ。
ブックカフェを見つけて少し休もうかなと思う。フラフラと入っていくと、本を手にした人たちで座席は埋まっている。ガッカリして店を出る。と言っても、書店とカフェには明確な仕切りはない。
わたしはまた迷路を歩く。
北欧神話の本。
子供たちが夢中になって小さいテーブルに群れる絵本コーナー。
難しい顔をした女の人たちが立ち読みしている手芸本コーナー。
いろんな本があるということは、世界は広いということだ。わたしは行先もなく、その特別な世界を漂う。
そして、パパの本も置いているかな、とふと思い付く。
でも今日は足は棒だし、探すのはまた今度にして、始点に戻ろうと思う。スタート地点は心理学の専門書。
今月の新刊、ベストセラーの棚、そんなものの棚をわけ行って、静かな方へ進む。
『心理学』のプレートを見付ける。
「恭司」
胸を撫で下ろす。あまり迷路は得意じゃない。探し物は大抵、見つからない。
「ああ、待たせてごめん」
恭司は棚に向かって立っていたわけではなかった。
棚と棚の間を心細く覗くわたしを振り返る。
腕組みをした女性が大きな背中の向こう側に見える。
「こちらはさっきも会ったと思うけど、佐伯さん。俺の大学での同期なんだ」
「また会ったわね。佐伯です、よろしく」
よろしくお願いします、と、もごもご言葉を漏らす。
なにをよろしくするのかよくわからないけど、挨拶ってそんなものだ。Nice to meet you.
さすがに握手はしなかったけど。
佐伯さんは眼鏡のフレームを指先でくっと上げた。
無表情で。
眼鏡の位置が定まると、またわたしに微笑む。
「若いっていいわね」
彼女も十分若かった。失礼だけど少し童顔だし、丸い瞳がまた彼女を一段と幼く見せた。
背もわたしより小さく、そして運動なんてしたことがないというように白くて細かった。
「そんなに若くないです」
この答えはNGな気がしたけど、ほかに言葉が浮かばなかった。わたしはその微笑みから視線を外した。
「わたしがあなたくらいの頃、勉強に必死で、毎日にちっとも余裕がなかったの。あなたは今を楽しんでね。すぐ大人になっちゃうから」
じゃあね、と恭司に手を振ると、規則正しい歩幅で真っ直ぐ背筋を伸ばして彼女は去ってしまった。
彼女は、去っていく。
さっきの男性はどこにいるんだろう?
「佐伯さん」
「そう、佐伯千嘉。隠すことじゃないから言うけど、いわゆるあれが元カノだ」
「⋯⋯未練タラタラじゃん」
自分の言葉に少し傷つく。
「どこが?」
「その、目がずっと追ってるところ」
ああ、と恭司は後ろ頭に手をやった。
困ってる。
「そういうつもりはないんだけど、なんだろう、昔の癖かな? いつも見送ってたから」
聞いてないから。
そんなこと、聞いてないから。癖になるまで見送るなんて、どれだけ見送ったんだ?
「買うの?」
「いや、特にめぼしいものはなかった」
「そう、じゃあ行こう。お腹空いたし」
「上にレストラン街がある。行こう」
相当、動揺してたのか、恭司はわたしの手首をぐいと引いた。わ、と前のめりになる。悪い、と彼はわたしを受け止める。
「まだすきなんだね」
「⋯⋯かもしれない」
恭司はまた右手で口元を覆った。
眉根が寄る。
困惑したイケメンというのは見応えがある。でも、その困惑の原因がなんなのか、というのは問題なんだと思った。
「わたしには関係ないじゃん」
「え?」
「なんでもないよ」
あの女性に恋人がいることは明白だ。
苦しい恋なんかしてんじゃねーよ、と、頭の中でひとり呟く。――なにしてんだろ、わたし。
恭司はわたしの想い人じゃないし、そもそも恋愛という枠から飛び出した関係なんだ。
割り切らなくちゃやっていけない。
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