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#19 Don't make her lovely !
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#19 Don't make her lovely !
「ねぇねぇ、見てちょうだい! どう、この組み合わせ。派手すぎるかしら?」
秀司の母親は手に提げていた紙袋を公園のベンチにドンと載せて、その一つからごそごそと包みを取り出した。包みは少し乱暴にこじ開けられ、中から引っ張り出されたのは男性用のシャツとネクタイだった。
(これって……おばさんのコーディネイトだったんだ)
香夏子は広げられたシャツとネクタイを見ながら愛想笑いを作った。
「とってもセンスいいと思います。テレビに出ているとき、いつもお洒落ですよね、秀司くん。さすがです」
「香夏子ちゃんったら、お世辞が上手なんだから! でも少し派手なくらいのほうがテレビ映りがいいみたいで、でもあんまり派手だと軽い男だと思われても嫌だし、ほんっと難しいわぁ」
秀司の母親はすっかりはしゃいでいて、香夏子は公園中に響き渡る彼女の甲高い声に内心ひやひやしていた。事実、若い親子連れの数組はこちらをチラチラと見てなにごとかと注目している。
だが、秀司の母親はそんなことはまったく気にならないらしい。
「でもねぇ、そろそろ秀ちゃんもこういうのを選んでくれるお相手を連れて来てくれればいいのにって思うの。だってねぇ、もう三十代になっちゃったでしょ? ようやくお仕事も決まったし、あとはお嫁さんが決まれば私も肩の荷が下りると思うのよね」
「はぁ……」
気の抜けた返事をする香夏子に、秀司の母親は恐ろしいほどの笑顔で迫ってきた。
「ねぇ、香夏子ちゃん。秀ちゃんはどうかしら? 私、香夏子ちゃんがお嫁に来てくれたらいいなーとずっと思ってたの」
「はぁ……」
(そんなこと言われてもなぁ)
思わず視線を地面に落としてため息をつく。秀司の母親がハッとして香夏子の腕を掴んだ。
「あ、ごめんなさいね! 私、自分勝手なこと言っちゃって、迷惑よね。香夏子ちゃんの気持ちもあるのにね」
「いえ、あの……そう、ですね」
秀司の母親の顔が曇った。香夏子の曖昧な返答に何かを感じたようだ。
「やだわ。私の希望を押し付けちゃダメよね。本当にごめんなさいね。さっき言ったことは忘れてちょうだいね」
香夏子は困った顔のまま小さく頷いた。
突然、秀司の母親はがっくりと首を項垂れた。
「やっぱり……聖夜くんには敵わないのかしら」
「え……!?」
驚いて声を上げてしまう。慌てて口を押さえたがもう遅い。
そんな香夏子の様子を見て、秀司の母親は複雑な表情で微笑んだ。
「秀ちゃんが飛行機の模型作りにはまった理由、知ってる?」
「いいえ」
話の流れが見えず、戸惑いながら香夏子は首を横に振った。
「あなたたちが小さい頃、よくこの公園で遊んだわね。秀ちゃんはいつも香夏子ちゃんにちょっかいをかけては独占したがって、他の子とは全然遊ばないの。聖夜くんはおとなしく少し離れたところで遊んでいて、香夏子ちゃんは秀ちゃんに絡まれて仕方なく一緒に遊んでくれていたわ」
秀司の母親は実際に公園内を走り回る子どもたちに目を遣りながら、当時の三人の姿を懐かしんでいるようだった。
「でもしばらくすると秀ちゃんが意地悪して香夏子ちゃんを泣かせちゃうのよね。その後はもう香夏子ちゃんは聖夜くんのほうに行っちゃって、秀ちゃんはひとりふてくされているの。毎回その繰り返しで可笑しかったわ」
香夏子もマサルの姿を目で追いながら、頭の中で昔のおぼろげな記憶の断片を呼び覚まして苦笑した。
「そうだったかもしれませんね」
相槌を打つと秀司の母親はフフッと笑う。
「小学生になった頃だったかな。ある日、秀ちゃんがとてもしょんぼりして帰ってきたの。どうしたの、と聞いても何も言わずにいきなり飛行機の模型を作り始めたのよね。何かあったな、と思って香夏子ちゃんママと聖夜くんママに訊いたらね……」
そこで秀司の母親は小さくため息をついた。香夏子は続きを促すように隣を見る。
「聖夜くんママが『秀司くん、ウチに来たんだけど、カナちゃんと聖夜が一緒に眠っちゃったのを見て黙って帰った』って。それから何かあるたびに一人で黙々と模型作りするようになったってわけ。おかしな子でしょ。一緒に遊ぼうって、そのひとことが言えなくて本当にバカな子よね。それに今思うと私があれもこれもと習い事をやらせたせいで、だんだんと二人の間に入りづらくなったのかもしれないのよね」
肩をすくめて見せる秀司の母親に、香夏子はただ遣り切れない視線を送ることしかできなかった。
「カナー! お腹空いたから帰ろう!」
マサルが香夏子の元へ駆け寄ってきた。秀司の母親を見て少し警戒するような顔をし、香夏子の後ろに隠れようとする。
「えっと……なんだったっけ? シワさんのおばさん?」
「ちょっ、マサル、違う……」
香夏子は慌ててマサルの口を塞ごうとした。すると横から秀司の母親が身を乗り出してマサルの顔を覗きこむ。
「しわ、じゃなくて、にわよ、ニワ。お庭のニワ」
秀司の母親は満面に笑みを浮かべていたが目つきが鋭い。マサルは更に香夏子の背後にぴったりとくっついてきた。
「あ、そっか。ニワトリのニワだ」
「そうよー。シワトリじゃないから、間違わないでね」
ウフフと笑ってから秀司の母親はベンチの上に広げてあった新品のシャツとネクタイを畳んで包み直し紙袋に戻した。
ふと気になって香夏子は口を開いた。
「秀司くんはもう戻ったんですか?」
「あら、今朝早くに戻っちゃったわ。香夏子ちゃん、秘書なのに知らなかった?」
「プライベートの予定までは知りません」
「そうなの」
そして荷物をすべて抱えると香夏子のほうへ向き直り、今度は愛想のよい上品な笑顔を浮かべた。
「香夏子ちゃん。秀司のこと、どうか宜しくお願いしますね」
優雅な動作で一礼すると颯爽と身を翻し、きびきびとした歩調で秀司の母親は去った。その後姿を見送りながら香夏子は深い嘆息を漏らす。
「カナー! 早く帰ろうよ」
マサルに腕を引っ張られて振り返る。無邪気な甥の顔を見てようやく香夏子は気持ちを切り替えた。
「よーし、それじゃあ帰ろうか」
紅葉の葉っぱのように小さく柔らかいマサルの手をしっかりと握って、香夏子は実家へと戻った。
実家では義姉の茜(あかね)が昼食を用意して待っていた。三人目を妊娠中の義姉は、かなり目立つお腹の膨らみに手を添え気遣いながら、マサルとその妹のユイを食卓につかせる。
香夏子はそれを手伝いながら、自分が何とも言えない惨めな気分になっていくのを感じた。
「カナ、どうしたの?」
たどたどしい口調でユイが香夏子に問いかけてきた。香夏子はその幼児特有の丸っこい頬を撫でながら「なんでもないよ。マサルとユイのパパとママは幸せだなって思ってたの」と、言った。
言っているうちに自分の意志とは反して目頭が熱くなり、涙がこぼれんばかりに溢れてきた。
「かなしいの? イタイイタイしたの? ないちゃダメだよ。ね、ママ?」
「大丈夫、泣いてないよ。これはね、これは……」
香夏子は心配そうに様子を窺っている茜の視線に気が付いて、指で涙を拭うと照れ隠しに笑って見せた。
「目から鼻水が出ちゃって!」
「えー!?」
マサルとユイが見事にハモった。それから二人は「きちゃない!」を連発し、茜が大声を上げるまで騒ぎ立てた。
(ふう。危ない、危ない……)
食べ終わった子どもたちが席を立つと、入れ替わりに湯呑み茶碗とお菓子の包みを持った母親が台所へやって来た。知人が店に持ってきてくれたものらしい。
「香夏子、後片付けくらいしなさいよ」
「勿論! お茶飲んだらするから、茜さんは座っててね」
「私なら大丈夫よ。今、調子いいし少し動かないと太っちゃうから」
言い終わるか終わらないうちに茜は「よいしょ」と立ち上がる。香夏子もお茶碗を置いて慌てて立ち上がり、シンクの前に駆け寄った。母はその様子を無言で眺め、また店番へと戻る。
「ごめんね、香夏子ちゃん。だんだん蛇口が遠くなってて、手伝ってくれるとホントに助かるわ」
隣の茜を見るとお腹が前に迫り出してきている分、蛇口に手が届きにくくなっているようだ。香夏子は学年では一つ上の義姉を畏敬の念を持って見上げた。茜は背が高く、香夏子より頭一つ飛び抜けている。
「女性の身体って神秘だよね」
しみじみと言った香夏子の言葉がよほどおかしかったのか、茜はクスクスと笑い始めて止まらなくなったようだ。
「いやね、香夏子ちゃんだって妊娠したら体験できるわよ」
「に、妊娠!? その前に相手が……」
やけに簡単に妊娠などと言う茜に、香夏子は驚いて洗っていた皿を落としそうになる。
「相手の一人や二人くらいいるでしょ」
首を小刻みに横に振ってそんな相手はいないことをアピールしたが、茜は今度はニヤニヤと笑って香夏子の腕を小突いてきた。
「知ってるのよ。夜中、誰の車で帰ってきた?」
「……っぶ!」
(覗いてたの?)
車の運転手も当然知っているというニュアンスが感じられ、香夏子は耳まで赤くなった。ダメ押しに茜は続ける。
「お隣の浜名さん、今日で閉店なのよ」
「え!? 今日?」
思わず香夏子は茜の顔を凝視した。
「香夏子ちゃん、お水、出しっぱなし!」
「あっ!」
香夏子はわかりやすく動揺した。しばらく放心していたかと思うと、突然パンと手を合わせた。茜は少し首を傾げて香夏子の様子を探る。
「私、髪を切りに行ってこなくちゃ……」
「うん、いってらっしゃい」
茜に背中を押されて台所を出ると、香夏子はふらふらと自室へ戻った。
鞄を持って家から一歩出たところで、現金を持ち合わせていないことに気が付いて、香夏子は近所のスーパーへ急いだ。ATMコーナーで念のため残高照会する。
(うわぉ! ついに退職金が振り込まれた!)
香夏子は画面を見て、預金の桁が増えていることに感激した。一千万が確かに自分のものになったのだ。自然と頬が緩む。
一千万の使途については今後ゆっくり考えることにして、とりあえず髪を切ってもらわなくてはならない。適当な金額を引き出すと香夏子は聖夜の実家へ急いだ。
聖夜の実家である理美容室の前に立つと懐かしさがこみ上げてきて胸がいっぱいになった。香夏子は聖夜が鋏を持つまではずっと聖夜の両親に髪を切ってもらっていたのだ。
ドアに閉店を告知する張り紙を見つけて、香夏子は大きく息を吐いた。閉店は間違いなく今日の日付だった。
「こんにちは」
思い切ってドアを開くと、自分の父と同じくらいの男性がちょうど支払いを済ませたところだった。他に客はいない。
「あら、カナちゃん? ずいぶん久しぶりね」
聖夜の母親は男性客を店の外まで見送りに出て、戻ってくると香夏子を鏡の前に座らせた。普段は聖夜の両親と年配の女性が店に立っているはずだが、今は聖夜の母親しかいないようだ。
香夏子はおずおずと聖夜の母親に訊ねた。
「あの、今日って聖夜くんのコンテストですよね?」
「そうなの。お父さんが応援に行くって張り切って行っちゃったけど、今頃どうしてるかしらね」
いつもと何ら変わりなく落ち着いた様子の聖夜の母親は、ケープを香夏子にかぶせると後ろ髪を掬い上げて観察した。
「これ……カットしたの、聖夜でしょ?」
「は、はい。わかりますか?」
ドキドキしながら鏡の中の聖夜の母親を見るとニッコリと微笑み返された。
「いや、勘で」
(はぁ!?)
香夏子が口を半開きのまま呆然としていると、聖夜の母親はプッと吹き出した。
「カナちゃんって都会に出ても相変わらずで、おばさん、嬉しくなっちゃうわ」
「あの、私って……どういうふうに思われていたんでしょうか?」
おそるおそる問いかけると、聖夜の母親は鏡越しに柔らかく笑った。昔から目鼻立ちのくっきりとした綺麗な人だったが、今もそれは変わらない。目尻に深く刻まれる皺さえなければかなり若く見えるだろう。こうして見ると聖夜とは紛れもなく親子だなと思った。
「そうねぇ……。表も裏もない素直で明るくてかわいい子。でも悪い男に騙されそうで見ていられないって感じかしら」
身を捩りながら聖夜の母親は答えると香夏子の髪を梳き、いくつかのピンで束ねて留めた。彼女のカットの仕方は昔から変わらない。香夏子は少女の頃に戻ったかのような気分になった。
「こうしてカットしてると思い出すわ」
鋏を動かしながら、ふと聖夜の母親が言った。
「はい?」
「カナちゃんが髪を切りに来ると、聖夜があの辺でこっちを監視してるの」
そう言って聖夜の母親が店の奥を指差した。
「監視?」
「そうよ。カナちゃんはどういう髪型にしたいって聞いても『いつもと同じで』って言うんだけど、聖夜が向こうから無言でプレッシャーをかけてくるわけ」
「どんなプレッシャーですか?」
また聖夜の母親はプッと吹き出した。
「『カナをかわいくするな』って」
「ちょっ……ひどい!」
香夏子は思わず動きそうになって、聖夜の母親が鋏を髪の毛から遠ざけた。
「あ、ごめんなさい」
「いいのよ。悪いのは聖夜だもの。でもみんながカナちゃんがかわいいことに気が付いたら困るから、わざとかわいくしないでって言ってたな。言葉にしてそう言っていたのは小さい頃だけど、高校生になってもカナちゃんが店に来ると必ず一度は見張りに来ていたわよ」
鏡の中の自分の顔を見つめながら、どういう顔をしたらいいかわからず香夏子は困惑した。そんな香夏子を見て聖夜の母親は更に続けた。
「今日のコンテストもね、カナちゃんにカットモデル頼めばいいのにって言ったら、アイツ何て言ったと思う?」
「…………?」
ほんの少しだけ首を傾げて、わからないという意思表示をする。すると鏡の中で聖夜の母親は口角をきゅっと笑みの形に上げて見せた。
「『カナは人前に出ることに慣れてないからダメ』だって。よくそんなこと言うわ」
呆れたように言うと、髪を束ねて留めていたピンを取って櫛で梳かした。
「でもそれは聖夜くんの言うとおりです。私、モデルとか向いてないと思うし」
香夏子は少し遅れて反論する。鏡の中の聖夜の母親はこちらを見ずに微笑んだだけで、しばらく無言で鋏を動かした。
「あの、おじさんとおばさんが引っ越しちゃったら、ここはどうするんですか?」
沈黙に耐え切れず、香夏子から話題をふってみた。聖夜の母親は、うんと頷いてから顔を上げて答える。
「一応テナント募集してみようと思うけど、建物が古いしどうかしらね。あまり期待はしていないわ。でも今のところ売るつもりはないの」
「そうですか」
内心深く安堵して香夏子は答えた。だがほんの一瞬、背後の聖夜の母親の顔が曇ったように感じた。気になって問うような視線を送る。
観念したように嘆息を漏らしてから、聖夜の母親は訊ねてきた。
「カナちゃんのところはお兄ちゃんがお店を継ぐのよね」
「はい」
「ウチも……お父さんはどうだかわからないんだけど……誰か継いでくれないかなって、ほんの少しだけ期待してたのよ、私は」
もう一度、大きなため息が聞こえてくる。
「誰かって……」
それを期待できるのは聖夜しかいない。聖夜には七つ年上の姉がいるが、彼女は美容師ではなかった。それに彼女の旦那さんは転勤族だと香夏子の母から聞いたことがある。
「ま、お察しの通りよ。でも聖夜はダメね。しかも今更修行しに行くとか寝ぼけたこと言ってるし。寝言は寝て言えって、いつも言ってるんだけど」
(……おばさん、相変わらず毒舌入ってるな……)
香夏子は鏡越しに苦笑いで答えた。
「もうすぐ新居も出来るから、カナちゃんも是非遊びに来て!」
「はい、是非お邪魔させてください」
そのとき、店の電話が鳴った。
チラリと壁の時計に目を遣った聖夜の母親は、香夏子に笑顔を見せて電話の前に立った。
「たぶんお父さんからだわ」
(え? ……ってことは)
受話器を取った聖夜の母親が相手を確認して声のトーンを落とした。予想通り聖夜の父親からのようだ。頷いて話を聞いていた彼女の顔にパーッと明るい色が差す。
「そう。『おめでとう。アンタは一生修行してな!』……とカナちゃんが言ってた、って伝えておいて」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
思わず腰を浮かせたが、慌てた様子の香夏子のことなど微塵も気にせず、聖夜の母親は楽しそうに電話を終えた。
「というわけで、聖夜はしばらく海外で豪遊するみたい。いい身分だわねぇ。こっちも新居の借金がなかったら海外旅行したいところなのに、親孝行しようって気は全然ないんだから」
「豪遊……ですか。羨ましい」
平静を装って香夏子は言った。耳の奥に残る聖夜の「バイバイ」の声が胸に鋭く刺さりこんでくるが、顔には出さない。
「どうせすぐ帰ってくるわよ」
「え?」
聖夜の母親はさらりと言った。鏡の中の香夏子に肩をすくめて見せる。
「だってそんなにお金あるわけないでしょ? それに借りているマンションだってそのままだし。だけど勤めていたお店辞めちゃって、どうするつもりなのかしらねぇ」
「そう……なんですか!?」
思ったより大きな声が出た。店を辞めたというのは初耳だった。
「そうよ。ほんっと、計画性がないのは小さい頃から変わらないわね」
香夏子はその言葉に思わず吹き出した。
「それは私も同じです。少し前に会社辞めたんです。先のことなんか何も考えないで……」
「ああ、知ってるわよ。サユリさんが教えてくれたもの」
鏡に映る自分がげんなりとするのを見て、すぐに表情を改める。聖夜の母親が香夏子の前に回ってきて前髪を切り始めた。
「秀司くん、すごいわね。……で、彼とは上手くいってるの?」
直に目を見つめられて香夏子は固まった。
「あたたっ!」
切り落とされた前髪が目に入った。慌てて目をこする。聖夜の母親がタオルで拭ってくれて何とか落ち着いた。
「その慌てぶりは図星なのかしら?」
「違います! 秀司くんとは何もないんです」
「あら、そう。サユリさんったら『もう二人は明日にでも結婚する勢いだ』なんて言うから、気になっていたのよね」
(そんなデタラメを……)
香夏子は小さくため息をついた。聖夜の母親は「へぇ、何もないんだ」と香夏子の言葉を復唱してクスリと笑った。
最後にタオルで顔についた髪の毛を払われ、鏡で後ろ髪を確認する。
「はい、お疲れさま」
「ありがとうございました」
当然のようにレジの前に立つと、カウンタの向こうで聖夜の母親はニッコリと微笑んだ。だが、そのまま何も言わない。
「あの、おいくらですか?」
「いらないわよ。これ、いただきましたので」
(……その一万円って!?)
聖夜の母親が手にしているのは、あのくしゃくしゃになった一万円札だ。
「え、だって、それ……」
おかしい。そんなことはありえない。
香夏子は鞄に手を掛けたままその紙幣を穴が開くほど見つめた。
「ねぇねぇ、見てちょうだい! どう、この組み合わせ。派手すぎるかしら?」
秀司の母親は手に提げていた紙袋を公園のベンチにドンと載せて、その一つからごそごそと包みを取り出した。包みは少し乱暴にこじ開けられ、中から引っ張り出されたのは男性用のシャツとネクタイだった。
(これって……おばさんのコーディネイトだったんだ)
香夏子は広げられたシャツとネクタイを見ながら愛想笑いを作った。
「とってもセンスいいと思います。テレビに出ているとき、いつもお洒落ですよね、秀司くん。さすがです」
「香夏子ちゃんったら、お世辞が上手なんだから! でも少し派手なくらいのほうがテレビ映りがいいみたいで、でもあんまり派手だと軽い男だと思われても嫌だし、ほんっと難しいわぁ」
秀司の母親はすっかりはしゃいでいて、香夏子は公園中に響き渡る彼女の甲高い声に内心ひやひやしていた。事実、若い親子連れの数組はこちらをチラチラと見てなにごとかと注目している。
だが、秀司の母親はそんなことはまったく気にならないらしい。
「でもねぇ、そろそろ秀ちゃんもこういうのを選んでくれるお相手を連れて来てくれればいいのにって思うの。だってねぇ、もう三十代になっちゃったでしょ? ようやくお仕事も決まったし、あとはお嫁さんが決まれば私も肩の荷が下りると思うのよね」
「はぁ……」
気の抜けた返事をする香夏子に、秀司の母親は恐ろしいほどの笑顔で迫ってきた。
「ねぇ、香夏子ちゃん。秀ちゃんはどうかしら? 私、香夏子ちゃんがお嫁に来てくれたらいいなーとずっと思ってたの」
「はぁ……」
(そんなこと言われてもなぁ)
思わず視線を地面に落としてため息をつく。秀司の母親がハッとして香夏子の腕を掴んだ。
「あ、ごめんなさいね! 私、自分勝手なこと言っちゃって、迷惑よね。香夏子ちゃんの気持ちもあるのにね」
「いえ、あの……そう、ですね」
秀司の母親の顔が曇った。香夏子の曖昧な返答に何かを感じたようだ。
「やだわ。私の希望を押し付けちゃダメよね。本当にごめんなさいね。さっき言ったことは忘れてちょうだいね」
香夏子は困った顔のまま小さく頷いた。
突然、秀司の母親はがっくりと首を項垂れた。
「やっぱり……聖夜くんには敵わないのかしら」
「え……!?」
驚いて声を上げてしまう。慌てて口を押さえたがもう遅い。
そんな香夏子の様子を見て、秀司の母親は複雑な表情で微笑んだ。
「秀ちゃんが飛行機の模型作りにはまった理由、知ってる?」
「いいえ」
話の流れが見えず、戸惑いながら香夏子は首を横に振った。
「あなたたちが小さい頃、よくこの公園で遊んだわね。秀ちゃんはいつも香夏子ちゃんにちょっかいをかけては独占したがって、他の子とは全然遊ばないの。聖夜くんはおとなしく少し離れたところで遊んでいて、香夏子ちゃんは秀ちゃんに絡まれて仕方なく一緒に遊んでくれていたわ」
秀司の母親は実際に公園内を走り回る子どもたちに目を遣りながら、当時の三人の姿を懐かしんでいるようだった。
「でもしばらくすると秀ちゃんが意地悪して香夏子ちゃんを泣かせちゃうのよね。その後はもう香夏子ちゃんは聖夜くんのほうに行っちゃって、秀ちゃんはひとりふてくされているの。毎回その繰り返しで可笑しかったわ」
香夏子もマサルの姿を目で追いながら、頭の中で昔のおぼろげな記憶の断片を呼び覚まして苦笑した。
「そうだったかもしれませんね」
相槌を打つと秀司の母親はフフッと笑う。
「小学生になった頃だったかな。ある日、秀ちゃんがとてもしょんぼりして帰ってきたの。どうしたの、と聞いても何も言わずにいきなり飛行機の模型を作り始めたのよね。何かあったな、と思って香夏子ちゃんママと聖夜くんママに訊いたらね……」
そこで秀司の母親は小さくため息をついた。香夏子は続きを促すように隣を見る。
「聖夜くんママが『秀司くん、ウチに来たんだけど、カナちゃんと聖夜が一緒に眠っちゃったのを見て黙って帰った』って。それから何かあるたびに一人で黙々と模型作りするようになったってわけ。おかしな子でしょ。一緒に遊ぼうって、そのひとことが言えなくて本当にバカな子よね。それに今思うと私があれもこれもと習い事をやらせたせいで、だんだんと二人の間に入りづらくなったのかもしれないのよね」
肩をすくめて見せる秀司の母親に、香夏子はただ遣り切れない視線を送ることしかできなかった。
「カナー! お腹空いたから帰ろう!」
マサルが香夏子の元へ駆け寄ってきた。秀司の母親を見て少し警戒するような顔をし、香夏子の後ろに隠れようとする。
「えっと……なんだったっけ? シワさんのおばさん?」
「ちょっ、マサル、違う……」
香夏子は慌ててマサルの口を塞ごうとした。すると横から秀司の母親が身を乗り出してマサルの顔を覗きこむ。
「しわ、じゃなくて、にわよ、ニワ。お庭のニワ」
秀司の母親は満面に笑みを浮かべていたが目つきが鋭い。マサルは更に香夏子の背後にぴったりとくっついてきた。
「あ、そっか。ニワトリのニワだ」
「そうよー。シワトリじゃないから、間違わないでね」
ウフフと笑ってから秀司の母親はベンチの上に広げてあった新品のシャツとネクタイを畳んで包み直し紙袋に戻した。
ふと気になって香夏子は口を開いた。
「秀司くんはもう戻ったんですか?」
「あら、今朝早くに戻っちゃったわ。香夏子ちゃん、秘書なのに知らなかった?」
「プライベートの予定までは知りません」
「そうなの」
そして荷物をすべて抱えると香夏子のほうへ向き直り、今度は愛想のよい上品な笑顔を浮かべた。
「香夏子ちゃん。秀司のこと、どうか宜しくお願いしますね」
優雅な動作で一礼すると颯爽と身を翻し、きびきびとした歩調で秀司の母親は去った。その後姿を見送りながら香夏子は深い嘆息を漏らす。
「カナー! 早く帰ろうよ」
マサルに腕を引っ張られて振り返る。無邪気な甥の顔を見てようやく香夏子は気持ちを切り替えた。
「よーし、それじゃあ帰ろうか」
紅葉の葉っぱのように小さく柔らかいマサルの手をしっかりと握って、香夏子は実家へと戻った。
実家では義姉の茜(あかね)が昼食を用意して待っていた。三人目を妊娠中の義姉は、かなり目立つお腹の膨らみに手を添え気遣いながら、マサルとその妹のユイを食卓につかせる。
香夏子はそれを手伝いながら、自分が何とも言えない惨めな気分になっていくのを感じた。
「カナ、どうしたの?」
たどたどしい口調でユイが香夏子に問いかけてきた。香夏子はその幼児特有の丸っこい頬を撫でながら「なんでもないよ。マサルとユイのパパとママは幸せだなって思ってたの」と、言った。
言っているうちに自分の意志とは反して目頭が熱くなり、涙がこぼれんばかりに溢れてきた。
「かなしいの? イタイイタイしたの? ないちゃダメだよ。ね、ママ?」
「大丈夫、泣いてないよ。これはね、これは……」
香夏子は心配そうに様子を窺っている茜の視線に気が付いて、指で涙を拭うと照れ隠しに笑って見せた。
「目から鼻水が出ちゃって!」
「えー!?」
マサルとユイが見事にハモった。それから二人は「きちゃない!」を連発し、茜が大声を上げるまで騒ぎ立てた。
(ふう。危ない、危ない……)
食べ終わった子どもたちが席を立つと、入れ替わりに湯呑み茶碗とお菓子の包みを持った母親が台所へやって来た。知人が店に持ってきてくれたものらしい。
「香夏子、後片付けくらいしなさいよ」
「勿論! お茶飲んだらするから、茜さんは座っててね」
「私なら大丈夫よ。今、調子いいし少し動かないと太っちゃうから」
言い終わるか終わらないうちに茜は「よいしょ」と立ち上がる。香夏子もお茶碗を置いて慌てて立ち上がり、シンクの前に駆け寄った。母はその様子を無言で眺め、また店番へと戻る。
「ごめんね、香夏子ちゃん。だんだん蛇口が遠くなってて、手伝ってくれるとホントに助かるわ」
隣の茜を見るとお腹が前に迫り出してきている分、蛇口に手が届きにくくなっているようだ。香夏子は学年では一つ上の義姉を畏敬の念を持って見上げた。茜は背が高く、香夏子より頭一つ飛び抜けている。
「女性の身体って神秘だよね」
しみじみと言った香夏子の言葉がよほどおかしかったのか、茜はクスクスと笑い始めて止まらなくなったようだ。
「いやね、香夏子ちゃんだって妊娠したら体験できるわよ」
「に、妊娠!? その前に相手が……」
やけに簡単に妊娠などと言う茜に、香夏子は驚いて洗っていた皿を落としそうになる。
「相手の一人や二人くらいいるでしょ」
首を小刻みに横に振ってそんな相手はいないことをアピールしたが、茜は今度はニヤニヤと笑って香夏子の腕を小突いてきた。
「知ってるのよ。夜中、誰の車で帰ってきた?」
「……っぶ!」
(覗いてたの?)
車の運転手も当然知っているというニュアンスが感じられ、香夏子は耳まで赤くなった。ダメ押しに茜は続ける。
「お隣の浜名さん、今日で閉店なのよ」
「え!? 今日?」
思わず香夏子は茜の顔を凝視した。
「香夏子ちゃん、お水、出しっぱなし!」
「あっ!」
香夏子はわかりやすく動揺した。しばらく放心していたかと思うと、突然パンと手を合わせた。茜は少し首を傾げて香夏子の様子を探る。
「私、髪を切りに行ってこなくちゃ……」
「うん、いってらっしゃい」
茜に背中を押されて台所を出ると、香夏子はふらふらと自室へ戻った。
鞄を持って家から一歩出たところで、現金を持ち合わせていないことに気が付いて、香夏子は近所のスーパーへ急いだ。ATMコーナーで念のため残高照会する。
(うわぉ! ついに退職金が振り込まれた!)
香夏子は画面を見て、預金の桁が増えていることに感激した。一千万が確かに自分のものになったのだ。自然と頬が緩む。
一千万の使途については今後ゆっくり考えることにして、とりあえず髪を切ってもらわなくてはならない。適当な金額を引き出すと香夏子は聖夜の実家へ急いだ。
聖夜の実家である理美容室の前に立つと懐かしさがこみ上げてきて胸がいっぱいになった。香夏子は聖夜が鋏を持つまではずっと聖夜の両親に髪を切ってもらっていたのだ。
ドアに閉店を告知する張り紙を見つけて、香夏子は大きく息を吐いた。閉店は間違いなく今日の日付だった。
「こんにちは」
思い切ってドアを開くと、自分の父と同じくらいの男性がちょうど支払いを済ませたところだった。他に客はいない。
「あら、カナちゃん? ずいぶん久しぶりね」
聖夜の母親は男性客を店の外まで見送りに出て、戻ってくると香夏子を鏡の前に座らせた。普段は聖夜の両親と年配の女性が店に立っているはずだが、今は聖夜の母親しかいないようだ。
香夏子はおずおずと聖夜の母親に訊ねた。
「あの、今日って聖夜くんのコンテストですよね?」
「そうなの。お父さんが応援に行くって張り切って行っちゃったけど、今頃どうしてるかしらね」
いつもと何ら変わりなく落ち着いた様子の聖夜の母親は、ケープを香夏子にかぶせると後ろ髪を掬い上げて観察した。
「これ……カットしたの、聖夜でしょ?」
「は、はい。わかりますか?」
ドキドキしながら鏡の中の聖夜の母親を見るとニッコリと微笑み返された。
「いや、勘で」
(はぁ!?)
香夏子が口を半開きのまま呆然としていると、聖夜の母親はプッと吹き出した。
「カナちゃんって都会に出ても相変わらずで、おばさん、嬉しくなっちゃうわ」
「あの、私って……どういうふうに思われていたんでしょうか?」
おそるおそる問いかけると、聖夜の母親は鏡越しに柔らかく笑った。昔から目鼻立ちのくっきりとした綺麗な人だったが、今もそれは変わらない。目尻に深く刻まれる皺さえなければかなり若く見えるだろう。こうして見ると聖夜とは紛れもなく親子だなと思った。
「そうねぇ……。表も裏もない素直で明るくてかわいい子。でも悪い男に騙されそうで見ていられないって感じかしら」
身を捩りながら聖夜の母親は答えると香夏子の髪を梳き、いくつかのピンで束ねて留めた。彼女のカットの仕方は昔から変わらない。香夏子は少女の頃に戻ったかのような気分になった。
「こうしてカットしてると思い出すわ」
鋏を動かしながら、ふと聖夜の母親が言った。
「はい?」
「カナちゃんが髪を切りに来ると、聖夜があの辺でこっちを監視してるの」
そう言って聖夜の母親が店の奥を指差した。
「監視?」
「そうよ。カナちゃんはどういう髪型にしたいって聞いても『いつもと同じで』って言うんだけど、聖夜が向こうから無言でプレッシャーをかけてくるわけ」
「どんなプレッシャーですか?」
また聖夜の母親はプッと吹き出した。
「『カナをかわいくするな』って」
「ちょっ……ひどい!」
香夏子は思わず動きそうになって、聖夜の母親が鋏を髪の毛から遠ざけた。
「あ、ごめんなさい」
「いいのよ。悪いのは聖夜だもの。でもみんながカナちゃんがかわいいことに気が付いたら困るから、わざとかわいくしないでって言ってたな。言葉にしてそう言っていたのは小さい頃だけど、高校生になってもカナちゃんが店に来ると必ず一度は見張りに来ていたわよ」
鏡の中の自分の顔を見つめながら、どういう顔をしたらいいかわからず香夏子は困惑した。そんな香夏子を見て聖夜の母親は更に続けた。
「今日のコンテストもね、カナちゃんにカットモデル頼めばいいのにって言ったら、アイツ何て言ったと思う?」
「…………?」
ほんの少しだけ首を傾げて、わからないという意思表示をする。すると鏡の中で聖夜の母親は口角をきゅっと笑みの形に上げて見せた。
「『カナは人前に出ることに慣れてないからダメ』だって。よくそんなこと言うわ」
呆れたように言うと、髪を束ねて留めていたピンを取って櫛で梳かした。
「でもそれは聖夜くんの言うとおりです。私、モデルとか向いてないと思うし」
香夏子は少し遅れて反論する。鏡の中の聖夜の母親はこちらを見ずに微笑んだだけで、しばらく無言で鋏を動かした。
「あの、おじさんとおばさんが引っ越しちゃったら、ここはどうするんですか?」
沈黙に耐え切れず、香夏子から話題をふってみた。聖夜の母親は、うんと頷いてから顔を上げて答える。
「一応テナント募集してみようと思うけど、建物が古いしどうかしらね。あまり期待はしていないわ。でも今のところ売るつもりはないの」
「そうですか」
内心深く安堵して香夏子は答えた。だがほんの一瞬、背後の聖夜の母親の顔が曇ったように感じた。気になって問うような視線を送る。
観念したように嘆息を漏らしてから、聖夜の母親は訊ねてきた。
「カナちゃんのところはお兄ちゃんがお店を継ぐのよね」
「はい」
「ウチも……お父さんはどうだかわからないんだけど……誰か継いでくれないかなって、ほんの少しだけ期待してたのよ、私は」
もう一度、大きなため息が聞こえてくる。
「誰かって……」
それを期待できるのは聖夜しかいない。聖夜には七つ年上の姉がいるが、彼女は美容師ではなかった。それに彼女の旦那さんは転勤族だと香夏子の母から聞いたことがある。
「ま、お察しの通りよ。でも聖夜はダメね。しかも今更修行しに行くとか寝ぼけたこと言ってるし。寝言は寝て言えって、いつも言ってるんだけど」
(……おばさん、相変わらず毒舌入ってるな……)
香夏子は鏡越しに苦笑いで答えた。
「もうすぐ新居も出来るから、カナちゃんも是非遊びに来て!」
「はい、是非お邪魔させてください」
そのとき、店の電話が鳴った。
チラリと壁の時計に目を遣った聖夜の母親は、香夏子に笑顔を見せて電話の前に立った。
「たぶんお父さんからだわ」
(え? ……ってことは)
受話器を取った聖夜の母親が相手を確認して声のトーンを落とした。予想通り聖夜の父親からのようだ。頷いて話を聞いていた彼女の顔にパーッと明るい色が差す。
「そう。『おめでとう。アンタは一生修行してな!』……とカナちゃんが言ってた、って伝えておいて」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
思わず腰を浮かせたが、慌てた様子の香夏子のことなど微塵も気にせず、聖夜の母親は楽しそうに電話を終えた。
「というわけで、聖夜はしばらく海外で豪遊するみたい。いい身分だわねぇ。こっちも新居の借金がなかったら海外旅行したいところなのに、親孝行しようって気は全然ないんだから」
「豪遊……ですか。羨ましい」
平静を装って香夏子は言った。耳の奥に残る聖夜の「バイバイ」の声が胸に鋭く刺さりこんでくるが、顔には出さない。
「どうせすぐ帰ってくるわよ」
「え?」
聖夜の母親はさらりと言った。鏡の中の香夏子に肩をすくめて見せる。
「だってそんなにお金あるわけないでしょ? それに借りているマンションだってそのままだし。だけど勤めていたお店辞めちゃって、どうするつもりなのかしらねぇ」
「そう……なんですか!?」
思ったより大きな声が出た。店を辞めたというのは初耳だった。
「そうよ。ほんっと、計画性がないのは小さい頃から変わらないわね」
香夏子はその言葉に思わず吹き出した。
「それは私も同じです。少し前に会社辞めたんです。先のことなんか何も考えないで……」
「ああ、知ってるわよ。サユリさんが教えてくれたもの」
鏡に映る自分がげんなりとするのを見て、すぐに表情を改める。聖夜の母親が香夏子の前に回ってきて前髪を切り始めた。
「秀司くん、すごいわね。……で、彼とは上手くいってるの?」
直に目を見つめられて香夏子は固まった。
「あたたっ!」
切り落とされた前髪が目に入った。慌てて目をこする。聖夜の母親がタオルで拭ってくれて何とか落ち着いた。
「その慌てぶりは図星なのかしら?」
「違います! 秀司くんとは何もないんです」
「あら、そう。サユリさんったら『もう二人は明日にでも結婚する勢いだ』なんて言うから、気になっていたのよね」
(そんなデタラメを……)
香夏子は小さくため息をついた。聖夜の母親は「へぇ、何もないんだ」と香夏子の言葉を復唱してクスリと笑った。
最後にタオルで顔についた髪の毛を払われ、鏡で後ろ髪を確認する。
「はい、お疲れさま」
「ありがとうございました」
当然のようにレジの前に立つと、カウンタの向こうで聖夜の母親はニッコリと微笑んだ。だが、そのまま何も言わない。
「あの、おいくらですか?」
「いらないわよ。これ、いただきましたので」
(……その一万円って!?)
聖夜の母親が手にしているのは、あのくしゃくしゃになった一万円札だ。
「え、だって、それ……」
おかしい。そんなことはありえない。
香夏子は鞄に手を掛けたままその紙幣を穴が開くほど見つめた。
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