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光蓮寺和己編
九尾の炎
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✿
「——待って、待って!!!!光蓮寺くんっ!」
四月中旬。桜の花も散り、新芽が顔を出す。
私立条院学園の入学式を終えた唯は、新しい学園生活を謳歌していた。
制服に袖を通す事にも慣れ始め、廊下を駆ける音も耳に馴染んだ。
そんな彼女が何故、廊下で和己を追い掛け回しているのかと聞かれば、『光蓮寺和己が授業に参加しない』からである。
「追いかけてくんな、ブス!しつけぇんだよ!」
小学生並の悪口を吐き捨てながら、和己は背後から迫ってくる唯をぎろりと睨みつける。
「だっ、だって光蓮寺くんが……!授業に出ないから……!!!」
「うっせえ!てめぇは俺の親かよ!!他人に指図される筋合いはねぇ!!」
廊下中に、そんな暴言が響き渡る。
唯の視界の端には、くすくすと笑う生徒の影が見えた。
人の目を気にしたいのは山々だが、そんな事をしていたらあっという間に和己に逃げられてしまう。
こんな思いをしてまで和己を捕まえたい理由は、唯が和己の世話係だからだ。同じクラス、同じ寮の同居人という事で、担任から直々に和己の世話係を任される事になった唯。
だからこうして、授業に出席しない和己を汗だくで追いかけているのだ。
私立条院学園は、市内でも有数の進学校。
授業をサボるなんて事をすれば、すぐに他の生徒達に置いてかれる。
その先に待っているのは、劣等生の烙印と留年の文字。
(光蓮寺くんが留年なんて、絶対嫌……!!!!)
そんな思いから、休み時間になる度に和己を追いかけているのである。
「まっ……てぇ……!」
和己と唯の体力差は歴然で、唯はいつもその背中を捕まえる事は出来ない。泣く泣く諦めるのがオチだ。
「もう二度と来んなよ、ブス!!」
「こっ……れんじ、くん……!」
廊下の角を曲がった和己は、そのまま姿を晦ます。
和己のいなくなった廊下にぺたりと腰を下ろした唯は、はあとため息を漏らした。
(なんで授業受けてくれないのかな……。)
まだ四月だと言うのに、これでは先が思いやられる。
出席日数は勿論、授業に参加しなければ自ずと成績は落ちる一方だ。
折角同い年で、同じクラスで。仲良くなりたいと思っていた矢先、彼が居なくなるのは唯にとっても嫌な事だった。
——どうすれば、光蓮寺くんに近付けるのかな。
その一日、伸ばしたその手の中に、彼の温もりが触れることは無かった。
✿
その日の夜。
「ご馳走様でした!」
治、ミツル、唯の三人での夜ご飯を終え、唯は後片付けをしていた。
水道からぽたりと雫が落ち、シンクを滑っていく。
キュッと、真っ白な器をタオルで拭きながら、唯はどこか上の空だった。
片付けを進めながら、唯は一人重いため息を漏らす。
「はぁ……。」
(光蓮寺くん、どうしたら授業に出でくれるのかなぁ。私の事が嫌いなのは分かるけど、でも勉強しなくちゃ……。)
その言葉の続きは、ため息と共に宙に溶けていく。
何度も和己が授業に出る方法を考えたけれど、打開策と呼ぶに相応しい案は出てこなかった。
それどころか、最近はそれが悩みの種になって唯の口からはため息が漏れる回数も増えてしまう。
かたん、と拭き終わった食器を纏めていると台所の扉が開く。
こんな暗い顔を見せる訳にはいかないと、唯は気持ちを切り替えた。
くるりと振り返った先にいるのは、様子を見に来た治かミツルだと思っていた唯は明るい声で笑いかける。
「こっちの片付けは終わりまし——」
が、そんな唯の予想は外れていた。
目に入るのは、大きな九つの尻尾とふさふさの耳。
真っ白な和服の裾がひらりと舞う。
「こ、光蓮寺くん……?」
思わず彼の名前を呼ぶと、和己は唯と目を合わせる。
唯の声に反応を示しているあたり、どうやら幻覚という訳では無いようだ。
あまり自室を出ない和己が突然現れた事に、唯は驚きを隠せない。
唯とは裏腹に、和己は彼女を見た瞬間顔を顰めた。
嫌そうに目を細めて、ちっと舌打ちをする。
「お前だけかよ。」
相変わらずの仏頂面で、和己はキョロキョロと台所を見渡した。
「う、うん……。治さんと小鳥遊さんなら大広間にいると……。光蓮寺くんはどうしたの?」
唯の質問に、和己は口を噤む。
一度答えを告げるのに躊躇した後、和己は口を開いた。
「別に。水取りに来ただけ——ん、何だこの匂い。」
要件をさっさと済ませようとしていた和己は、肩をぴくりと動かした。
何やら和己の鼻は気になる匂いをキャッチしたらしい。その出処を探すようにくんくんと台所の匂いを嗅ぐ和己は、狐と言うよりも犬みたいだ。
鼻を動かす度に狐の耳もピクピクと反則する。
あの和己がこんなに興味を示す事も中々に珍しいと、唯も思い当たる食べ物を考えてみる。
今日の夕食の中で匂いの強いものといえば……。
あっと顔を上げた唯は、台所の机に置かれていた皿を持ち上げた。
「もしかして......これかな?治さんの手伝いで私が作ったんだけど……。」
唯が両手で包み込むように持っていたのは深い皿に入ったカツ煮だった。
つゆの染み込んだカツが電気の明かりでキラキラと光っている。
唯は元々料理を作る事が得意な方だったので、今日は治に頼んで手伝わせて貰ったのだ。
簡単な雑務と、そしてこのカツしか作れなかったけれど。
和己はゆっくりと唯に近付き、カツの匂いを再び嗅ぐ。
「......これをお前が?」
いつものようにぎらりと唯を睨み付けてはいるが、その瞳には今までの様な強い警戒心はない。
思わぬ和己からの問い掛けに唯は内心驚きながら、それを悟られぬようにと平常心を装う。
「うん。あ、治さんと小鳥遊さんにも、褒めて貰えたんだ!」
「……。」
唯の自慢げな話を右から左に流している和己は、ずっと一点を見詰め続けていた。
和己はどうやら、唯の作ったカツ煮に興味津々らしい。
まさか、と思いながらも唯はそっと尋ねてみることにした。
「……た、食べてみる?」
唯の一言に、和己は一度耳をぴくりとさせてから無言で頷いた。
その様子に唯は、驚きながらもカツ煮をレンジで温める。
ちん、とレンジから取り出したカツ煮は食欲を掻き立てる湯気をあげていた。
「はい、どうぞ。」
カツ煮の皿と、箸を渡すと和己は無言で受け取って口を開けた。
重量感のあるカツを持ち上げる和己に、唯は少しドキドキする。
(お口に合うかな……。)
そんな心配を横目に、和己はカツを口の中に頬張る。
もぐもぐと、何度か咀嚼してから飲み込んだ和己を、唯は見詰め続けた。
二人の間に会話は無い。カツを咀嚼する音だけが空間に響いていた。
一口食べ終わった和己は、無言でカツ煮を見つめた後、再び口の中に運び始める。
(た、食べたー!)
一口目は、カツ煮を味わうようにゆっくりと食べていたが、二口目からはガツガツと勢いよく食べている。
男の子らしい食べっぷりだ。
今までずっと逃げられていたのに、まさかカツ煮一つで手の届く距離まで近付くなんて......。
その時の唯が抱いていた感情を例えるなら、警戒心の強い野良犬に餌付けしているようなものだった。
(そう思うとあの狐の尻尾が、子犬の尻尾に見えてくる......。)
なんて言葉にしたら和己は激怒するだろうから、唯の心の中に閉まっておく事にした。
無言のまま食べ続ける和己に、唯は思わず口を開く。
「お、美味しい……?」
口元まで運んでいた手がピタリと止まり、和己は唯の方を向く。
そこには気恥しそうに、和己を見上げる唯の姿があった。
和己は少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
唯から視線を逸らし、ただ一言、
「……悪くない。」
と呟いた。
唯はその言葉に、パッと顔を明るくさせる。
「本当!?良かった~!」
安堵したような笑顔で、凄く嬉しそうに唯はガッツポーズをする。
ふと、和己の耳を見てみるとほのかに赤く染っていた。
普段人を褒めない和己にとっては、その小さな褒め言葉ですら恥ずかしい。
唯は、そんな恥じらいを隠すように目を逸らす和己を見て、満面の笑みで笑う。
「カツ煮好きなの?」
「......揚げ物さえ食っとけば死なねえ。」
「あはは、光蓮寺くんらしいっていえばらしいかも。」
「んだよ、それ......。意味分かんねぇ。」
好きとか嫌いとかはっきりとした言葉を口にしない辺りが、和己らしいと唯は心の中で思いを零す。
(そっか......!光蓮寺くんは、揚げ物が好きなんだ!)
心の中で和己の好きな物の欄を埋めながら、唯は話を続ける。
和己の手にはつゆまで綺麗に飲み干され、真っ白になった器が残されていた。
それを見ただけで、唯の頬は自然と緩まる。
「でもびっくりしたよ、私。光蓮寺くん、てっきり私の作ったものなんて食えるかーっ!て、言うと思ってた。」
掌をおもむろに上げた唯は、ちゃぶ台返しのポーズを身振り手振りで混じえる。
「お前は俺を何だと思ってるんだ。」
「えへへ、ごめん……。あ、じゃあお詫びと言ったら何だけど……。」
ん、と首を傾げる和己に、唯はにこやかに微笑んだ。
華やぐ笑顔に、和己は一瞬たじろぐ。
それはまるで、目の前で一輪の花が咲き誇るような。
「——これからも、光蓮寺くんの為に料理作ってもいいかな?」
和己は少し、唯を見る目を細めた。
こんな風に裏表のない笑顔を向ける人間なんて、あまりいない。
彼女は汚れなく、真っ直ぐに生きてきたのだとそう思い知らされるような笑み。
その笑顔は、今の和己にとっては眩しすぎるものだった。
彼女の笑顔を見ていると妙に心が締め付けられる。
自分は妖だと言うのに、何故この人間はこんなにも気軽に接してくるのだろう。
自分はもうずっと前に、真っ直ぐ生きる事を諦めたと言うのに。
絶望を知らない唯の純粋無垢な笑顔は、和己の心に刃を立てる。
(……やめろ、俺は——。)
心の中で、唯を拒絶したい自分が居る。
彼女を突き放したい自分が居る。
グズグズになるまで傷付けて、もう二度と立ち直れなくなるくらいに奈落の底に突き落としたい自分が、確かに居る。
けれど……。
「……好きにしろ。」
それが和己の選択だった。
(これ以上、こいつに踏み込ませなきゃいい話だ。)
そんな甘い考えで、和己は唯を受け入れた。
和己の考えている事なんて知らず、唯はへらりと微笑む。
淡い桜が咲くような、優しい笑顔に和己は少しだけ心を許してしまった。
「じゃあ、明日から毎日光蓮寺くんの部屋に持ってくね!」
「毎日はやめろ。」
「だって、光蓮寺くんにいっぱい食べてもらいたいんだもん!」
その日を境に、唯と和己の距離は少しだけ縮まった。
すぐ数日後に、和己の闇に触れることを唯はまだ知らない。
「——待って、待って!!!!光蓮寺くんっ!」
四月中旬。桜の花も散り、新芽が顔を出す。
私立条院学園の入学式を終えた唯は、新しい学園生活を謳歌していた。
制服に袖を通す事にも慣れ始め、廊下を駆ける音も耳に馴染んだ。
そんな彼女が何故、廊下で和己を追い掛け回しているのかと聞かれば、『光蓮寺和己が授業に参加しない』からである。
「追いかけてくんな、ブス!しつけぇんだよ!」
小学生並の悪口を吐き捨てながら、和己は背後から迫ってくる唯をぎろりと睨みつける。
「だっ、だって光蓮寺くんが……!授業に出ないから……!!!」
「うっせえ!てめぇは俺の親かよ!!他人に指図される筋合いはねぇ!!」
廊下中に、そんな暴言が響き渡る。
唯の視界の端には、くすくすと笑う生徒の影が見えた。
人の目を気にしたいのは山々だが、そんな事をしていたらあっという間に和己に逃げられてしまう。
こんな思いをしてまで和己を捕まえたい理由は、唯が和己の世話係だからだ。同じクラス、同じ寮の同居人という事で、担任から直々に和己の世話係を任される事になった唯。
だからこうして、授業に出席しない和己を汗だくで追いかけているのだ。
私立条院学園は、市内でも有数の進学校。
授業をサボるなんて事をすれば、すぐに他の生徒達に置いてかれる。
その先に待っているのは、劣等生の烙印と留年の文字。
(光蓮寺くんが留年なんて、絶対嫌……!!!!)
そんな思いから、休み時間になる度に和己を追いかけているのである。
「まっ……てぇ……!」
和己と唯の体力差は歴然で、唯はいつもその背中を捕まえる事は出来ない。泣く泣く諦めるのがオチだ。
「もう二度と来んなよ、ブス!!」
「こっ……れんじ、くん……!」
廊下の角を曲がった和己は、そのまま姿を晦ます。
和己のいなくなった廊下にぺたりと腰を下ろした唯は、はあとため息を漏らした。
(なんで授業受けてくれないのかな……。)
まだ四月だと言うのに、これでは先が思いやられる。
出席日数は勿論、授業に参加しなければ自ずと成績は落ちる一方だ。
折角同い年で、同じクラスで。仲良くなりたいと思っていた矢先、彼が居なくなるのは唯にとっても嫌な事だった。
——どうすれば、光蓮寺くんに近付けるのかな。
その一日、伸ばしたその手の中に、彼の温もりが触れることは無かった。
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その日の夜。
「ご馳走様でした!」
治、ミツル、唯の三人での夜ご飯を終え、唯は後片付けをしていた。
水道からぽたりと雫が落ち、シンクを滑っていく。
キュッと、真っ白な器をタオルで拭きながら、唯はどこか上の空だった。
片付けを進めながら、唯は一人重いため息を漏らす。
「はぁ……。」
(光蓮寺くん、どうしたら授業に出でくれるのかなぁ。私の事が嫌いなのは分かるけど、でも勉強しなくちゃ……。)
その言葉の続きは、ため息と共に宙に溶けていく。
何度も和己が授業に出る方法を考えたけれど、打開策と呼ぶに相応しい案は出てこなかった。
それどころか、最近はそれが悩みの種になって唯の口からはため息が漏れる回数も増えてしまう。
かたん、と拭き終わった食器を纏めていると台所の扉が開く。
こんな暗い顔を見せる訳にはいかないと、唯は気持ちを切り替えた。
くるりと振り返った先にいるのは、様子を見に来た治かミツルだと思っていた唯は明るい声で笑いかける。
「こっちの片付けは終わりまし——」
が、そんな唯の予想は外れていた。
目に入るのは、大きな九つの尻尾とふさふさの耳。
真っ白な和服の裾がひらりと舞う。
「こ、光蓮寺くん……?」
思わず彼の名前を呼ぶと、和己は唯と目を合わせる。
唯の声に反応を示しているあたり、どうやら幻覚という訳では無いようだ。
あまり自室を出ない和己が突然現れた事に、唯は驚きを隠せない。
唯とは裏腹に、和己は彼女を見た瞬間顔を顰めた。
嫌そうに目を細めて、ちっと舌打ちをする。
「お前だけかよ。」
相変わらずの仏頂面で、和己はキョロキョロと台所を見渡した。
「う、うん……。治さんと小鳥遊さんなら大広間にいると……。光蓮寺くんはどうしたの?」
唯の質問に、和己は口を噤む。
一度答えを告げるのに躊躇した後、和己は口を開いた。
「別に。水取りに来ただけ——ん、何だこの匂い。」
要件をさっさと済ませようとしていた和己は、肩をぴくりと動かした。
何やら和己の鼻は気になる匂いをキャッチしたらしい。その出処を探すようにくんくんと台所の匂いを嗅ぐ和己は、狐と言うよりも犬みたいだ。
鼻を動かす度に狐の耳もピクピクと反則する。
あの和己がこんなに興味を示す事も中々に珍しいと、唯も思い当たる食べ物を考えてみる。
今日の夕食の中で匂いの強いものといえば……。
あっと顔を上げた唯は、台所の机に置かれていた皿を持ち上げた。
「もしかして......これかな?治さんの手伝いで私が作ったんだけど……。」
唯が両手で包み込むように持っていたのは深い皿に入ったカツ煮だった。
つゆの染み込んだカツが電気の明かりでキラキラと光っている。
唯は元々料理を作る事が得意な方だったので、今日は治に頼んで手伝わせて貰ったのだ。
簡単な雑務と、そしてこのカツしか作れなかったけれど。
和己はゆっくりと唯に近付き、カツの匂いを再び嗅ぐ。
「......これをお前が?」
いつものようにぎらりと唯を睨み付けてはいるが、その瞳には今までの様な強い警戒心はない。
思わぬ和己からの問い掛けに唯は内心驚きながら、それを悟られぬようにと平常心を装う。
「うん。あ、治さんと小鳥遊さんにも、褒めて貰えたんだ!」
「……。」
唯の自慢げな話を右から左に流している和己は、ずっと一点を見詰め続けていた。
和己はどうやら、唯の作ったカツ煮に興味津々らしい。
まさか、と思いながらも唯はそっと尋ねてみることにした。
「……た、食べてみる?」
唯の一言に、和己は一度耳をぴくりとさせてから無言で頷いた。
その様子に唯は、驚きながらもカツ煮をレンジで温める。
ちん、とレンジから取り出したカツ煮は食欲を掻き立てる湯気をあげていた。
「はい、どうぞ。」
カツ煮の皿と、箸を渡すと和己は無言で受け取って口を開けた。
重量感のあるカツを持ち上げる和己に、唯は少しドキドキする。
(お口に合うかな……。)
そんな心配を横目に、和己はカツを口の中に頬張る。
もぐもぐと、何度か咀嚼してから飲み込んだ和己を、唯は見詰め続けた。
二人の間に会話は無い。カツを咀嚼する音だけが空間に響いていた。
一口食べ終わった和己は、無言でカツ煮を見つめた後、再び口の中に運び始める。
(た、食べたー!)
一口目は、カツ煮を味わうようにゆっくりと食べていたが、二口目からはガツガツと勢いよく食べている。
男の子らしい食べっぷりだ。
今までずっと逃げられていたのに、まさかカツ煮一つで手の届く距離まで近付くなんて......。
その時の唯が抱いていた感情を例えるなら、警戒心の強い野良犬に餌付けしているようなものだった。
(そう思うとあの狐の尻尾が、子犬の尻尾に見えてくる......。)
なんて言葉にしたら和己は激怒するだろうから、唯の心の中に閉まっておく事にした。
無言のまま食べ続ける和己に、唯は思わず口を開く。
「お、美味しい……?」
口元まで運んでいた手がピタリと止まり、和己は唯の方を向く。
そこには気恥しそうに、和己を見上げる唯の姿があった。
和己は少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
唯から視線を逸らし、ただ一言、
「……悪くない。」
と呟いた。
唯はその言葉に、パッと顔を明るくさせる。
「本当!?良かった~!」
安堵したような笑顔で、凄く嬉しそうに唯はガッツポーズをする。
ふと、和己の耳を見てみるとほのかに赤く染っていた。
普段人を褒めない和己にとっては、その小さな褒め言葉ですら恥ずかしい。
唯は、そんな恥じらいを隠すように目を逸らす和己を見て、満面の笑みで笑う。
「カツ煮好きなの?」
「......揚げ物さえ食っとけば死なねえ。」
「あはは、光蓮寺くんらしいっていえばらしいかも。」
「んだよ、それ......。意味分かんねぇ。」
好きとか嫌いとかはっきりとした言葉を口にしない辺りが、和己らしいと唯は心の中で思いを零す。
(そっか......!光蓮寺くんは、揚げ物が好きなんだ!)
心の中で和己の好きな物の欄を埋めながら、唯は話を続ける。
和己の手にはつゆまで綺麗に飲み干され、真っ白になった器が残されていた。
それを見ただけで、唯の頬は自然と緩まる。
「でもびっくりしたよ、私。光蓮寺くん、てっきり私の作ったものなんて食えるかーっ!て、言うと思ってた。」
掌をおもむろに上げた唯は、ちゃぶ台返しのポーズを身振り手振りで混じえる。
「お前は俺を何だと思ってるんだ。」
「えへへ、ごめん……。あ、じゃあお詫びと言ったら何だけど……。」
ん、と首を傾げる和己に、唯はにこやかに微笑んだ。
華やぐ笑顔に、和己は一瞬たじろぐ。
それはまるで、目の前で一輪の花が咲き誇るような。
「——これからも、光蓮寺くんの為に料理作ってもいいかな?」
和己は少し、唯を見る目を細めた。
こんな風に裏表のない笑顔を向ける人間なんて、あまりいない。
彼女は汚れなく、真っ直ぐに生きてきたのだとそう思い知らされるような笑み。
その笑顔は、今の和己にとっては眩しすぎるものだった。
彼女の笑顔を見ていると妙に心が締め付けられる。
自分は妖だと言うのに、何故この人間はこんなにも気軽に接してくるのだろう。
自分はもうずっと前に、真っ直ぐ生きる事を諦めたと言うのに。
絶望を知らない唯の純粋無垢な笑顔は、和己の心に刃を立てる。
(……やめろ、俺は——。)
心の中で、唯を拒絶したい自分が居る。
彼女を突き放したい自分が居る。
グズグズになるまで傷付けて、もう二度と立ち直れなくなるくらいに奈落の底に突き落としたい自分が、確かに居る。
けれど……。
「……好きにしろ。」
それが和己の選択だった。
(これ以上、こいつに踏み込ませなきゃいい話だ。)
そんな甘い考えで、和己は唯を受け入れた。
和己の考えている事なんて知らず、唯はへらりと微笑む。
淡い桜が咲くような、優しい笑顔に和己は少しだけ心を許してしまった。
「じゃあ、明日から毎日光蓮寺くんの部屋に持ってくね!」
「毎日はやめろ。」
「だって、光蓮寺くんにいっぱい食べてもらいたいんだもん!」
その日を境に、唯と和己の距離は少しだけ縮まった。
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