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1 始まりの雨
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「はぁ…」
本日の空模様は清々しいほどの晴れだった昨日と打って変わってあいにくの雨だ。
梅雨だということもあってか、此の所雨ばかりだ。
鈴岡 義孝(すずおか よしたか)は会社である廊下を、憂鬱な気分で歩いていた。目的の場所が、とても行きたくない場所なのだ。その義孝の手に、大量の紙があって重いと言う理由もあってか、どうしても歩くスピードがのろのろしい。
空の様子というのは、人の心に影響があるのかもしれない。
どこか心が落ち込んでしまって気が滅入る。
義孝の黒髪は癖毛なので、雨の湿気で髪がぼさぼさになってしまうのだ。今日もみっともなく寝癖を晒していることだろう。ため息をついて、義孝は眼鏡のフレームを押す。
義孝の目の視力は年々落ちて、ついには眼鏡をかけなければいけないほど悪くなってしまっている。
子供のころの2.0がとても恋しい。
少し義孝は雨男だ。
それほど雨男というわけでもないが、本当に少しだけ雨男なのだ。義孝が電車を降りてホームに出ると霧雨程度だった雨が強くなったりもする。
少しばかし、義孝は不運の持ち主だった。今日も実は休日だというのに、義孝は会社に間違って来てしまい仕事を行っていた。別に帰っても問題はないが義孝は帰れなかった。厳密には、帰らせてもらえないというのが正しいのかもしれない。
その理由は上司が義孝を雑用係と称して働かせたいためだ。上司には世話にもなっているし、なにより上司は自分より上の立場なので義孝は断れない。―――義孝には帰りますと断れる勇気もないわけだが。
メモ帳を作れと義孝は上司に命令され、とぼとぼと裁断機がある場所へ作業着を着たまま向かっていた。
普通は印刷部屋や用具室に裁断機は置かれているはずのものだ。だが義孝が勤めている印刷系の会社は何故か玄関前に置かれている。
印刷系の会社といっても、大会社ではなく下請けの中小会社だ。印刷だけではなくインク等やっていたりする会社で義孝は働いているのだ。インクを調合したり研究したりしているので青の作業着はいつも汚れてしまっている。
外から玄関はガラス窓になっているので丸見えだ。
その汚れた作業服を、通行人に見られるのは義孝にとって恥ずかしいことだった。青色という目立つ色の作業服なので、義孝は通行人にじろじろ見られてしまうことが多い。
だからこの裁断機はかなり同僚から嫌われている。出来るだけ誰もが使わないようにしているが、使う機会はたくさんある。殆どは上司に頼まれるとしぶしぶといった感じで裁断機を使うのである。嬉々としてこの裁断機を使うものはいないのだ。
それにこの裁断機は型が古い。この裁断機で怪我をしてしまう人も多いのだ。
だから怪我しないように、いつも裁断機を使う時義孝は神経を注いでいる。怪我をしたら痛いので嫌だ。今後の仕事にも支障をきたしてしまう。義孝もこの裁断機は嫌いだ。
これで指を切ってしまったらと思うだけで震えが体から湧き上がる。紙を少しカットするというだけで、こんな集中しなくてもいいのではないかといつも思ってしまうのである。
今日は雨なので会社の外を通る人が少ないのが幸いなことだ。帽子を深く被り直し義孝はまたため息を吐く。
裁断機の前に立って、義孝は持っていた紙を揃えて板の上に置く。きちんと揃えないとずれてしまうのがまたやっかいなのだ。
紙を揃えて刃をレバーのように引こうとした時、義孝に声が掛けられる。その声につられて、義孝はゆっくりと顔をあげる。
「鈴岡先輩、これ追加でお願いします」
少し少年的な声を出したのは、同じ部署で働いている原 司(はら つかさ)だった。茶髪をワックスで固めてツンツンした尖がっている髪型にしている彼は、同じ部署で働いている数少ない女子に好かれていた。
この会社は若い社員があまりいないし、司は明るい性格で皆を盛り上げていて、顔も悪くないのでそれでモテているのだろう。義孝が勤めている部署では、24歳である司が一番若いのだ。今年29歳になった義孝が3番目に若いのだから司の若さは他のここで働いている年配者にとっては、ひとしおではないのだろう。
司も休日出勤で疲れているとは思うが、若さがあるのかまだまだ元気があるみたいだ。声がいきいきとしている。彼はどこか外回りをするようでスーツを着ていた。どさどさと裁断機の上に司は持っていた紙を置いていく。その扱いは適当だった。帽子を少し触りながら、義孝は司に返事をする。
「ん、分かった」
「はーい」
その瞬間指先に鋭い痛みが広がって、義孝は目を閉じる。
「…っう」
刹那、司が悲痛な叫び声を出す。
「ひ…! せ、せん、先輩…! 先輩、そ、そ、それ…!」
義孝は司が急に叫んで驚いた。何故司がそんなこの世の終わりみたいな表情をしているのか不思議になって、義孝は司を見つめていた。司の表情はどんどんと青白いものになっていき、時間がたつにつれてがくがくと口も震えていた。
義孝が首をかしげて見せると、司はもっと酷く怯えたものになっていく。
口元は何か言わなければと動かしているが、司は声も出ずにただ義孝を信じられない顔で見ているだけだ。何か義孝は司に悪いことをしたのだろうか。
指の痛みよりもそれが気になって、義孝は困惑した表情をしている彼をただただ見ていた。やがて時は経ち、しばらくするとやっとのことで出てきた掠れ声で司は言葉を紡いだ。
「ゆ、ゆ…ゆび…!」
「ゆび…?」
もしやと思いつつ義孝は痛みがある左手を見ると、その手は血まれでとめどなく指から血が流れている。薄汚れた緑色の裁断機が義孝の血痕で赤色に染め上がっている。その血のむせかえるようなキツイ匂いと、大量に流れている血がやけに生々しい。
「う、う、あああぁ………ッ!」
自分の起こっていた状況に驚きのあまり腰が抜けてしまってその場で転んだ。お尻から転んだのでかなり腰とお尻の痛みが酷い。じんじんと広がるような指先の鈍い痛みが、否応なしに義孝が裁断機で指を怪我をしてしまったことを物語っている。
転んでしまった拍子に、義孝の血が床に飛び散る。
その血潮が白いコンクリートの床にはどうにも不釣り合いで、義孝の目に鮮明に映している。自覚してみると、かなりの激痛だ。指先からの痛みが、ずきずきと義孝の脳内を刺激してやまない。
突然のことでびっくりしているのか、司はその場をうろうろと彷徨っている。動揺しているようで、司も手と足が小鹿みたいに震えている。義孝もショッキングな出来事に身体中から震えが収まらない。
「だ、誰か来て下さいっ、せ、せん、先輩のゆび、ゆびが…っ」
司がヒステリックに叫んだ。きっと義孝は司に声を掛けられたときに無意識のうちに、裁断機の刃を押してしまったのだろう。義孝には押した記憶がないが、現に今怪我をしてしまっているのだからそれしか怪我をしてしまったことの説明が出来ない。
これは義孝の完全な不注意だ。司の声を聞き、注意がそちらに向いたのが原因だろう。義孝の集中力が切れて、指を切ってしまったことは明らかだ。義孝がまいた種で起こった不慮の事故なのに、司は自分を責めるようにワックスで綺麗に固めた髪を掻きまわす。
「ごめんなさい、先輩…ご、ごめんなさい…っ俺、俺が、声を掛けたから…」
司は義孝に謝罪の言葉を繰り返し言っていた。義孝が少し怪我をしてそこまで、司は動揺するだろうか。
そのことに疑問に思い、怪我をしてしまった左手を義孝は恐る恐る見ようとする。血を見るのは、義孝にとって何よりも苦手なことなのだ。それも今見るのは、自身から出ている血だ。病院で献血にいったときは、義孝は失神になったぐらい苦手だった。
「へ……?」
覚悟を決め、血が流れている左手を義孝は見た。そこには信じられないことに、本来あるはずである左手の中指の爪先から無くなっていた。そこの部分から血が大量に流れて、一向に止まらない。突っ伏した状態で、義孝は瞬きした。
見間違いだと考えて、何度も確認しても爪の部分がない。目が悪くなったといい方向に話を持っていき確認するために義孝が眼鏡を掠っても、その悲惨な状態は変わらなかった。右手で思わず、義孝は口を覆う。
「う、う、うえっ…!」
義孝は、動悸が激しくなり息が荒くなる。震えは収まるはずもなく、義孝は痙攣するように体をビクビクと動かした。どうしても信じたくない。どうして、何故、義孝は今自分の指の一部がないのか理解したくなかった。
痛みがだんだんと増していき、気絶したほうがましだという激痛が義孝に襲っている。
指先は血管が多く通っているとは聞いたことがあったが、大量の血が血だまりを作るぐらいだとは知らなかった。一生知らなくてもいい情報だ。これ以上血が出てしまったら、きっと自分は死んでしまうのかもしれない。そんな不安が襲ってきて、義孝はついに泣きだす。
大の大人が泣くのはかなりみっともないことだが、義孝はこの時ばかりはそんなことを考えていられなかった。
不安と恐怖が義孝を支配していき、だんだんと血の気が引いていく。
「鈴岡先輩の指の爪が取れちゃった―――っ!」
その言い方はないんじゃないかと義孝は司の言葉に突っ込みを入れたが、口を開くことができず義孝の気は抜けていった。
◇◇◇
「鈴岡先輩、先輩…っ」
誰かが義孝のことを必死になって、呼んでいる。
その声があまりにも必死なので、なんだか義孝は口角をあげてしまう。人にこんな風に呼ばれるのは、久しぶりのことだった。だが鬱陶しくもあったので、義孝は少し手を振り回して邪魔だという仕草を声の人物にしてみせる。
「い、いって!」
手がどこかにあたって、激痛を催した。思わぬ痛手に、義孝は手を押さえて痛みを軽減しようとした。
「あ、起きましたね」
「あぁ、先輩…! 起こしても全然起きないから、死んじゃったと思いました。起きてよかったです」
「勝手に殺しちゃだめでしょう。原さん」
「ああ、そうですよね!…すみませんでした。せ、先輩大丈夫ですか?」
二種類の声が、義孝の頭上から降ってくる。その声に反応して、義孝は目を開けた。ここは、どこかの車内らしかった。車内の構造を見る限り、どうやらタクシーらしい。
一種類目の少し甲高い声の持ち主は、前方のところから声が出ていた。タクシーの運転席の隣の助手席に彼は座っているみたいだ。少し横になっていた自身の身体を、義孝はゆっくりとあげる。
その甲高い声の人間を、義孝は知っている。後輩の司の声だ。
でももう一種類の声の主は、義孝には分からなかった。声の低さから男性ということは分かる。だけど、聞いたことのない穏やかな声音で、優しく司をなだめる彼は義孝の知らない人物だ。知人でもない。
手首を擦りながら、義孝は眼鏡ごしに隣に座っているその人物の顔を確認した。
義孝は、その人物に目を疑ってしまった。
男性は、義孝よりも年上か、同じ年に見える容姿をしている。
薄い唇に、眠そうではあるが切れ長の垂れ目、金色に輝く髪、高い鼻、それに似合う男らしい体系…こんなに顔が整っている人を義孝は初めて見る。
眠そうな顔立ちをしているのに、どこか上品な品格を持っている男性だ。
それの理由は、彼が付けている甘い大人な香水の香りのせいか、もともとのオーラなのかは義孝では判断できそうにない。
「ああ、僕の名前を教えていませんでしたね。初めまして、鈴岡さん。僕はM総合病院で、形成外科医をやっている伊勢 透というものです。貴方の切断された爪を責任もって付けますから安心してください」
伊勢 透(いせ とおる)と名乗った彼は、穏やかそうな目元を細めて上品に優美に義孝に顔を向けて微笑んだ。
本日の空模様は清々しいほどの晴れだった昨日と打って変わってあいにくの雨だ。
梅雨だということもあってか、此の所雨ばかりだ。
鈴岡 義孝(すずおか よしたか)は会社である廊下を、憂鬱な気分で歩いていた。目的の場所が、とても行きたくない場所なのだ。その義孝の手に、大量の紙があって重いと言う理由もあってか、どうしても歩くスピードがのろのろしい。
空の様子というのは、人の心に影響があるのかもしれない。
どこか心が落ち込んでしまって気が滅入る。
義孝の黒髪は癖毛なので、雨の湿気で髪がぼさぼさになってしまうのだ。今日もみっともなく寝癖を晒していることだろう。ため息をついて、義孝は眼鏡のフレームを押す。
義孝の目の視力は年々落ちて、ついには眼鏡をかけなければいけないほど悪くなってしまっている。
子供のころの2.0がとても恋しい。
少し義孝は雨男だ。
それほど雨男というわけでもないが、本当に少しだけ雨男なのだ。義孝が電車を降りてホームに出ると霧雨程度だった雨が強くなったりもする。
少しばかし、義孝は不運の持ち主だった。今日も実は休日だというのに、義孝は会社に間違って来てしまい仕事を行っていた。別に帰っても問題はないが義孝は帰れなかった。厳密には、帰らせてもらえないというのが正しいのかもしれない。
その理由は上司が義孝を雑用係と称して働かせたいためだ。上司には世話にもなっているし、なにより上司は自分より上の立場なので義孝は断れない。―――義孝には帰りますと断れる勇気もないわけだが。
メモ帳を作れと義孝は上司に命令され、とぼとぼと裁断機がある場所へ作業着を着たまま向かっていた。
普通は印刷部屋や用具室に裁断機は置かれているはずのものだ。だが義孝が勤めている印刷系の会社は何故か玄関前に置かれている。
印刷系の会社といっても、大会社ではなく下請けの中小会社だ。印刷だけではなくインク等やっていたりする会社で義孝は働いているのだ。インクを調合したり研究したりしているので青の作業着はいつも汚れてしまっている。
外から玄関はガラス窓になっているので丸見えだ。
その汚れた作業服を、通行人に見られるのは義孝にとって恥ずかしいことだった。青色という目立つ色の作業服なので、義孝は通行人にじろじろ見られてしまうことが多い。
だからこの裁断機はかなり同僚から嫌われている。出来るだけ誰もが使わないようにしているが、使う機会はたくさんある。殆どは上司に頼まれるとしぶしぶといった感じで裁断機を使うのである。嬉々としてこの裁断機を使うものはいないのだ。
それにこの裁断機は型が古い。この裁断機で怪我をしてしまう人も多いのだ。
だから怪我しないように、いつも裁断機を使う時義孝は神経を注いでいる。怪我をしたら痛いので嫌だ。今後の仕事にも支障をきたしてしまう。義孝もこの裁断機は嫌いだ。
これで指を切ってしまったらと思うだけで震えが体から湧き上がる。紙を少しカットするというだけで、こんな集中しなくてもいいのではないかといつも思ってしまうのである。
今日は雨なので会社の外を通る人が少ないのが幸いなことだ。帽子を深く被り直し義孝はまたため息を吐く。
裁断機の前に立って、義孝は持っていた紙を揃えて板の上に置く。きちんと揃えないとずれてしまうのがまたやっかいなのだ。
紙を揃えて刃をレバーのように引こうとした時、義孝に声が掛けられる。その声につられて、義孝はゆっくりと顔をあげる。
「鈴岡先輩、これ追加でお願いします」
少し少年的な声を出したのは、同じ部署で働いている原 司(はら つかさ)だった。茶髪をワックスで固めてツンツンした尖がっている髪型にしている彼は、同じ部署で働いている数少ない女子に好かれていた。
この会社は若い社員があまりいないし、司は明るい性格で皆を盛り上げていて、顔も悪くないのでそれでモテているのだろう。義孝が勤めている部署では、24歳である司が一番若いのだ。今年29歳になった義孝が3番目に若いのだから司の若さは他のここで働いている年配者にとっては、ひとしおではないのだろう。
司も休日出勤で疲れているとは思うが、若さがあるのかまだまだ元気があるみたいだ。声がいきいきとしている。彼はどこか外回りをするようでスーツを着ていた。どさどさと裁断機の上に司は持っていた紙を置いていく。その扱いは適当だった。帽子を少し触りながら、義孝は司に返事をする。
「ん、分かった」
「はーい」
その瞬間指先に鋭い痛みが広がって、義孝は目を閉じる。
「…っう」
刹那、司が悲痛な叫び声を出す。
「ひ…! せ、せん、先輩…! 先輩、そ、そ、それ…!」
義孝は司が急に叫んで驚いた。何故司がそんなこの世の終わりみたいな表情をしているのか不思議になって、義孝は司を見つめていた。司の表情はどんどんと青白いものになっていき、時間がたつにつれてがくがくと口も震えていた。
義孝が首をかしげて見せると、司はもっと酷く怯えたものになっていく。
口元は何か言わなければと動かしているが、司は声も出ずにただ義孝を信じられない顔で見ているだけだ。何か義孝は司に悪いことをしたのだろうか。
指の痛みよりもそれが気になって、義孝は困惑した表情をしている彼をただただ見ていた。やがて時は経ち、しばらくするとやっとのことで出てきた掠れ声で司は言葉を紡いだ。
「ゆ、ゆ…ゆび…!」
「ゆび…?」
もしやと思いつつ義孝は痛みがある左手を見ると、その手は血まれでとめどなく指から血が流れている。薄汚れた緑色の裁断機が義孝の血痕で赤色に染め上がっている。その血のむせかえるようなキツイ匂いと、大量に流れている血がやけに生々しい。
「う、う、あああぁ………ッ!」
自分の起こっていた状況に驚きのあまり腰が抜けてしまってその場で転んだ。お尻から転んだのでかなり腰とお尻の痛みが酷い。じんじんと広がるような指先の鈍い痛みが、否応なしに義孝が裁断機で指を怪我をしてしまったことを物語っている。
転んでしまった拍子に、義孝の血が床に飛び散る。
その血潮が白いコンクリートの床にはどうにも不釣り合いで、義孝の目に鮮明に映している。自覚してみると、かなりの激痛だ。指先からの痛みが、ずきずきと義孝の脳内を刺激してやまない。
突然のことでびっくりしているのか、司はその場をうろうろと彷徨っている。動揺しているようで、司も手と足が小鹿みたいに震えている。義孝もショッキングな出来事に身体中から震えが収まらない。
「だ、誰か来て下さいっ、せ、せん、先輩のゆび、ゆびが…っ」
司がヒステリックに叫んだ。きっと義孝は司に声を掛けられたときに無意識のうちに、裁断機の刃を押してしまったのだろう。義孝には押した記憶がないが、現に今怪我をしてしまっているのだからそれしか怪我をしてしまったことの説明が出来ない。
これは義孝の完全な不注意だ。司の声を聞き、注意がそちらに向いたのが原因だろう。義孝の集中力が切れて、指を切ってしまったことは明らかだ。義孝がまいた種で起こった不慮の事故なのに、司は自分を責めるようにワックスで綺麗に固めた髪を掻きまわす。
「ごめんなさい、先輩…ご、ごめんなさい…っ俺、俺が、声を掛けたから…」
司は義孝に謝罪の言葉を繰り返し言っていた。義孝が少し怪我をしてそこまで、司は動揺するだろうか。
そのことに疑問に思い、怪我をしてしまった左手を義孝は恐る恐る見ようとする。血を見るのは、義孝にとって何よりも苦手なことなのだ。それも今見るのは、自身から出ている血だ。病院で献血にいったときは、義孝は失神になったぐらい苦手だった。
「へ……?」
覚悟を決め、血が流れている左手を義孝は見た。そこには信じられないことに、本来あるはずである左手の中指の爪先から無くなっていた。そこの部分から血が大量に流れて、一向に止まらない。突っ伏した状態で、義孝は瞬きした。
見間違いだと考えて、何度も確認しても爪の部分がない。目が悪くなったといい方向に話を持っていき確認するために義孝が眼鏡を掠っても、その悲惨な状態は変わらなかった。右手で思わず、義孝は口を覆う。
「う、う、うえっ…!」
義孝は、動悸が激しくなり息が荒くなる。震えは収まるはずもなく、義孝は痙攣するように体をビクビクと動かした。どうしても信じたくない。どうして、何故、義孝は今自分の指の一部がないのか理解したくなかった。
痛みがだんだんと増していき、気絶したほうがましだという激痛が義孝に襲っている。
指先は血管が多く通っているとは聞いたことがあったが、大量の血が血だまりを作るぐらいだとは知らなかった。一生知らなくてもいい情報だ。これ以上血が出てしまったら、きっと自分は死んでしまうのかもしれない。そんな不安が襲ってきて、義孝はついに泣きだす。
大の大人が泣くのはかなりみっともないことだが、義孝はこの時ばかりはそんなことを考えていられなかった。
不安と恐怖が義孝を支配していき、だんだんと血の気が引いていく。
「鈴岡先輩の指の爪が取れちゃった―――っ!」
その言い方はないんじゃないかと義孝は司の言葉に突っ込みを入れたが、口を開くことができず義孝の気は抜けていった。
◇◇◇
「鈴岡先輩、先輩…っ」
誰かが義孝のことを必死になって、呼んでいる。
その声があまりにも必死なので、なんだか義孝は口角をあげてしまう。人にこんな風に呼ばれるのは、久しぶりのことだった。だが鬱陶しくもあったので、義孝は少し手を振り回して邪魔だという仕草を声の人物にしてみせる。
「い、いって!」
手がどこかにあたって、激痛を催した。思わぬ痛手に、義孝は手を押さえて痛みを軽減しようとした。
「あ、起きましたね」
「あぁ、先輩…! 起こしても全然起きないから、死んじゃったと思いました。起きてよかったです」
「勝手に殺しちゃだめでしょう。原さん」
「ああ、そうですよね!…すみませんでした。せ、先輩大丈夫ですか?」
二種類の声が、義孝の頭上から降ってくる。その声に反応して、義孝は目を開けた。ここは、どこかの車内らしかった。車内の構造を見る限り、どうやらタクシーらしい。
一種類目の少し甲高い声の持ち主は、前方のところから声が出ていた。タクシーの運転席の隣の助手席に彼は座っているみたいだ。少し横になっていた自身の身体を、義孝はゆっくりとあげる。
その甲高い声の人間を、義孝は知っている。後輩の司の声だ。
でももう一種類の声の主は、義孝には分からなかった。声の低さから男性ということは分かる。だけど、聞いたことのない穏やかな声音で、優しく司をなだめる彼は義孝の知らない人物だ。知人でもない。
手首を擦りながら、義孝は眼鏡ごしに隣に座っているその人物の顔を確認した。
義孝は、その人物に目を疑ってしまった。
男性は、義孝よりも年上か、同じ年に見える容姿をしている。
薄い唇に、眠そうではあるが切れ長の垂れ目、金色に輝く髪、高い鼻、それに似合う男らしい体系…こんなに顔が整っている人を義孝は初めて見る。
眠そうな顔立ちをしているのに、どこか上品な品格を持っている男性だ。
それの理由は、彼が付けている甘い大人な香水の香りのせいか、もともとのオーラなのかは義孝では判断できそうにない。
「ああ、僕の名前を教えていませんでしたね。初めまして、鈴岡さん。僕はM総合病院で、形成外科医をやっている伊勢 透というものです。貴方の切断された爪を責任もって付けますから安心してください」
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