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5月編

第10話 文月栞と春の遠足。

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五月、爽やかな風が吹き渡る陽気。
私たち一年A組は春の遠足に出かけることになった。
遠足とはいってもほとんどバス移動だ。街の名所をぐるぐる回って、お昼ごろに公園でお弁当を食べて、またバスに乗って美術館や博物館を見て回り、そのあと学校に戻って各自帰宅。
おみくじ町なんて小さな町の名所などたかが知れているが、勉強しなくて済むぞヤッホイ! と生徒たちははしゃいでいる。……まあ、そのあとレポートを書かなきゃいけないんだけど。
「しかし、A組だけだから猫春くんいなくて残念だなあ……」
「たまには中島のことなんか忘れて俺と楽しも?」
ため息をつく私――文月栞に、機嫌が良さそうにニコニコ笑っている曽根崎逢瀬。
機嫌がいいのも納得で、今日の遠足はあくまでも一年A組のみの参加。猫春はおろか、銀城先輩や神楽坂、桐生などの邪魔も入らない。
――いや、私もあいつらがいないのは心が休まるからいいんだけど。
あとは曽根崎さえなんとかすれば、私は一時的にでも束縛から解き放たれるわけだ。
「ね~ぇ、逢瀬くーん。バス隣に座りましょ?」
「あっ、ズルーい! 私も座りたーい!」
女子たちが次々と曽根崎に媚を売ってくる。
「えっ、いや、俺は栞ちゃんと――」
「正々堂々じゃんけんでケリをつけましょう」
「はーい、逢瀬くんの隣に座りたい子、集まって~!」
「あああ……」
よし、女子たちが曽根崎を預かってくれるらしい。完全に呪縛から解き放たれた。
私はさっさとバスの後部座席に乗り込むことにした。

「文月さん……バスの中で本読んでて酔わないの?」
「酔いには強いんですよ、お気遣いなく」
隣の席の男子が信じられないものを見る目で私を見る。
バス移動中の暇つぶしに、かなり分厚い小説を一冊持ってきたが、なかなかいい。しばらくはこれで楽しめそうだ。もう一冊リュックに入れてくるべきか迷ったものだが、この一冊で必要十分だろう。あまり荷物が多くてもリュックが重くなるだけだ。
「ホントに本、好きなんだね」
「はい」
隣の席の男子が話しかけてくるのも上の空で、私は夢中になって本にのめり込む。こうなるともう周りが見えなくなるのが悪い癖だ。
「あ、あのさ、よかったらお昼、一緒にお弁当食べない?」
「はい」
「! あ、ありがとう。いや~、お昼楽しみだな~」
「はい」
ここまで私は、男子の話を聞かずに生返事していた。
「おいおい、大丈夫か? たしか文月って曽根崎と付き合ってるんだろ?」
「え? そうなの?」
「俺はこないだ隣のクラスのメガネとデートしてるの見たけど……」
「え、二股ってこと? 文月さん、あんな見た目でやることやってんね……」
男子たちのひそひそとした噂話も、当然私の耳には入ってこなかったのである。

おみくじ町の名所といえば、無名の文豪(とはいってもマニアには人気がある、らしい)の生家だとか、何の神様を祀ってるのかも分からない神社だとか、とある武士が戦死した記念碑だとか、そんなものである。それらを何十分かかけて回ったあと、私たちは大きな公園に来た。
なんといってもただただ広い。野球ができるグラウンドから、木々を挟んで少し距離を置いて鯉の泳ぐ池がある。池には橋が東西南北に四箇所かかっており、池の真ん中には屋根付きの休憩所がある。その池を通り過ぎると今度は滑り台やブランコなどの遊具がある緑地へ出る。芝生を植え込んだ丘があり、その裏にはさらに緑地が広がっていて、何のために置いてあるのかわからない大きな岩や、花壇がある。六月になれば綺麗な花を咲かせるであろう紫陽花も植えられていた。
これだけの面積を持つ公園のほうがむしろおみくじ町の名所と言えるのではないだろうか、と思いながら、私はひとりで弁当を食べるつもりで平らな場所を探す。
もとより、五月になっても友達を作らなかった私を受け入れてくれる女子グループがあるなどと期待してはいなかった。曽根崎のせいで一部の女子とは軋轢あつれきすら生まれている気がする。
曽根崎だって、バスの中ですらあの状態だったのだから、一緒に弁当を食べたい女子なんて引く手あまただろう。そんな女子たちの邪魔をするつもりはないし、私は目立たないところで独りで弁当をむさぼろうと思っていたのだ。
「あ、あの……文月さん」
「?」
先ほどまでバスの隣の席に座っていた男子がもじもじしている。
「ど……どこで食べよっか」
「え、……一緒に食べてくれるんですか?」
「え、バスの中でさっき約束したよね?」
約束? したっけ?
私は内心首を傾げたが、まあ無害そうな男だし、いいか。
「とりあえず平らなとこ探しましょ――」
「――おっと、栞ちゃんはこっち」
突然手首を掴まれた感触があった。驚いて目を向けると、曽根崎が私の手首を掴んでいる。
声も出せない間に、曽根崎は私を引っ張ってずんずん歩いていく。
「ちょ、ちょっと――」
私は文句でも言ってやりたいが、曽根崎は口は弧を描いた笑顔のまま、目が笑っていない。……な、なんか怒ってる? 私が何をしたっていうんだ。
「やっぱり文月さん、曽根崎とデキてたんだな……」
さっきの無害そうな男子はがっくりと肩を落としていた。あらぬ勘違いをされている。しかし今の状態では弁解の余地がない。
私は引きずられるように曽根崎にどこかへと連れ去られていくのであった。

「ねえ、逢瀬くん知らない?」
「いつの間にかどっか行っちゃったよね」
「ちょっと、文月もいないんだけど!?」
「またあいつ一人で抜け駆け!?」
「いや、あいつの場合誰もいないとこで一人寂しく弁当食ってんじゃね?」
女子たちの声が丘の向こうから聞こえる。
私と曽根崎はどこにいるかというと、丘の裏にある大きな岩の陰である。人が二人隠れても丘の上からでは見つからないほどの大きさだ。丘からは距離もあるし、しばらくは見つからないだろう。
「……いいんですか? あの子達ほったらかしにして」
「栞ちゃんは俺と弁当食べたくない?」
「女子の嫉妬を買ってまで食べたくはないですね」
「手厳しいなあ……」
トホホ、と曽根崎は苦笑する。
しかしその顔も一瞬のことで、曽根崎は感情のない表情で私を見る。普段笑っている男のその無表情はなぜか背すじがゾクッとする迫力があった。
「栞ちゃんさあ……なんで他の男と弁当食べる約束したわけ?」
「なんで曽根崎くんが知ってるんですか」
曽根崎がバスの中で座っていたのは最前列、私は一番うしろだ。二十人しか乗ってないバスとしても生徒がギャーギャー騒いでたし、普通の声量で喋っていれば聞こえるわけがない。いつの間にか盗聴器でも仕掛けられていたのか? 家帰ったら自分の荷物調べよう。
「あんまりホイホイ他の男に釣られないでよ……俺が嫉妬深いの知ってるでしょ?」
なぜこの男は彼氏面してるんだろうか。頭が痛くなってきた。
「……るっせーな、テメェには関係ねえだろうが」
「あるよ! 俺が好きなのは栞ちゃんだけなんだから!」
「だから、アタシには猫春が――」
「他の男の名前を口にしないで」
肩を乱暴に掴まれて岩に押さえつけられ、そのまま唇を塞がれる。
「――ッ!? ――!」
角度を変えながら、噛み付くようなキスを繰り返される。
「て、ッめぇ、っ……そねざ、き……!」
ガリッ、と曽根崎の舌を噛んだ。
「ッ、」
曽根崎はそのひと噛みで我に返ったように唇を離す。
「はっ……っふふ、いい顔だね」
「黙れ」
多分、今の私は頬が上気し、目が潤んでいる。
――セカンドキスまでコイツに奪われるとは、なんたる屈辱。
しかも女慣れしてるからか、キスが上手いのが余計に腹が立つ。
「栞ちゃんが悪いんだよ? 俺以外の男と親しげに話すから、俺の嫉妬心を煽っちゃって……」
「……なあ、なんでさっきからお前、彼氏面してんだ?」
自分の心が冷えていく感覚がある。
「お前は、私の、彼氏では、ない」
「いずれはなるよ」
「……話にならねえ」
私は弁当箱を持って立ち上がる。
「どこ行くの?」
「誰もいなくて落ち着けそうなとこ」
「俺も行く」
「お前は女子の面倒を見てやれよ。……お前と一緒にいると、女子から妬まれるから嫌なんだよ」
そう言い捨てて、私は岩の裏から歩き去っていった。
曽根崎は、追ってこなかった。

遠足が終わった次の日。
夜ふかししてレポートを書いていたので、寝不足の私はあくびをしながら教室に入る。
「おはよう、栞ちゃん」
「おはようございま……どちら様ですか?」
見知らぬ男子に声をかけられ、思わず二度見する。
絹のようにサラサラとした黒髪のナチュラルマッシュは、思わず触りたくなるほどの艶髪である。いわゆる天使の輪のような光沢を放っている。
「栞ちゃんの好みに合うようにイメチェンしたんだけど……どう?」
照れくさそうにそう言われて、初めてこの美少年が曽根崎だということに気づく。
あのポニーテールにしてた長い金髪が、なんということでしょう、品行方正な黒い短髪に。これには今ちゃん先生も太鼓判である。
ピアスをつけていた耳も、穴はまだ残っているものの、ピアスはすべて取り払われている。
もちろん、この突然のイメチェンに、周りのクラスメイトがざわつかないわけがなく。
「ど、どうしちゃったの、逢瀬くん!?」
「ん? 栞ちゃんが本気で欲しくなっちゃったから、ちょっと本気出そうかなって」
女子の疑問に対する曽根崎の答えは、教室にさらなる衝撃を与える。
「やっぱり逢瀬くんと文月さんって……」
「逢瀬くんが全然別人に……」
「でも前のギャル男っぽいのも良かったけど、この耽美たんびな美少年感も……」
「うん、全然アリ……」
教室内が口々にざわめく。
「栞ちゃん、こういうの好きでしょ? 俺にはなんでもわかるんだよ」
曽根崎がそう言って、私の顎をくいっと持ち上げる。
金髪があまりに目立ってちゃんと顔を見ていなかったが、こうして見ると絶世の美少年である。なるほど学園一のイケメンは伊達ではなかった。
「ねえ、猫春は捨てて俺にしなよ」
曽根崎の目が弧を描くように細められて――私は思わずゴクリとつばを飲む。
まずい。魅了されそうになる。髪型変えるだけでこんなんなる!?
「はーい、ホームルーム始めるわよ~。あら、曽根崎くん、やっと髪を黒くしてくれたのね。そっちのほうが素敵よ」
担任の今ちゃん先生が教室に入ってきて、ひとまずその場は流れた。心底安堵した。ありがとう今ちゃん先生。
席に戻り際に、曽根崎が耳元で「絶対逃さないからね」と囁いて、ゾクッとした。
ひとまず目下の問題は、図書委員でこの美少年と二人きりになることである。
本気を出したイケメン、怖いなあ。

〈続く〉
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