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4月編
第6話 文月栞はおばあちゃんが大好きだった。
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おばあちゃんは本が好きだった。
彼女は自分専用の本棚を持っていて、その中に収納されている本を私に読ませてくれた。
その本たちのおかげで、喧嘩三昧だった私は少しだけおとなしくなった。
老眼鏡をかけ、コーヒーを飲みながら椅子に腰掛けて本を読むおばあちゃんの、その椅子にもたれかかって床に座り本を読むのが、私の大好きな時間だった。
ときどきおばあちゃんが「その本、面白いかい?」と私に問いかけ、「うん、面白い!」「そりゃ良かった」と会話を楽しむ穏やかな時間。
小さい頃の私は、この時間が永遠に続けばいいと思ったし、永遠に続くものだと思っていた。
高校生になった私は今、おばあちゃんが入院している病院にお見舞いに来ている。
おばあちゃんの病室の場所は、もう何度も来ているうちに記憶してしまった。
その病室の前で、立ち話をしている男と女がいる。
女のほうは私の母だ。そして男は――
「――曽根崎くん?」
「あ、栞ちゃん」
「ちょっとこっち来てもらっていいですか」
私は曽根崎の襟首を掴んで談話室へと移動する。何故か母もついてきていた。
「……なんでお前がここにいるんだよ」
「お義母さんがおばあさんのお見舞いに行くからって俺を誘ってくれたんだよ」
「『お義母さん』って呼び方やめてもらっていいですか?」
私はあえて棘のある言い方をする。
「っていうかお母さん、曽根崎のこと知ってたの?」
「当たり前じゃない、アンタと同じ小学校で一個上だったんだから。でも、久しぶりに会ったらイケてるメンズになっててビックリしたわ~」
あれ、コイツと同じ学校だったっけ?
あまりに影が薄かったのか、私の記憶の中に曽根崎の姿はない。
「聞いたわよ、アンタ曽根崎くんのこと助けて惚れられたんだって? アンタの喧嘩グセもたまには役に立つものね~」
「ほ、惚れられ……」
改めて事実を言われると、嫌でも意識してしまって恥ずかしい。
うーん、でも助けた覚えがないんだよな、私自身には。
「いいじゃない、付き合っちゃえば? アンタのこと好きになってくれるこんな極上のイケメンなかなかいないわよ?」
「いや、私は他にお付き合いしてる男がいるから」
「え~っ、なにそれお母さん聞いてないんだけど!? たまには親と話しなさいよね!」
「う、うるさいな……」
カーッと顔が熱くなる。病院の談話室でするような話題じゃない。
それを面白そうに見てる曽根崎の視線にも腹が立つ。
「そ、それより、私、おばあちゃんのお見舞いして帰るから。曽根崎、余計なこと喋るなよ」
私が曽根崎をひと睨みすると、
「いや、俺もついてくよ。帰りも一緒に帰ろ?」
爽やかに笑いながら言ってのけた。
「ついてくるな」
「あら、いいじゃないの。私、もうお見舞い済ませたし、あとのことは若い二人に任せようかしらね」
母はそう言って、反論の間もなくさっさと歩き去ってしまった。
「――あーくそ、人の話を聞かないやつばっかりか、アタシの周りは!」
額を手で押さえながら、私は呻くようにつぶやく。
「……曽根崎、その、アタシのおばあちゃんは……」
「うん、栞ちゃんのお母さんから聞いてる」
曽根崎は珍しく真剣な顔でうなずく。
私と曽根崎はおばあちゃんの病室のドアの前に立つ。
――この瞬間が、一番緊張する。
カラカラとスムーズな音を立てて、病室のドアを開ける。
「おばあちゃん、元気?」
私はベッドに入ったままのおばあちゃんに、笑顔を作る。
おばあちゃんのリクライニングベッドは四十五度に傾けられ、寝ているというより布団を膝に乗せたまま座っているような体勢だ。
「――あなた、だぁれ?」
おばあちゃんの言葉に、隣に立つ曽根崎が息を呑むのが聞こえる。
「はじめまして、あなたの孫の文月栞です」
私は動じないように、笑顔のまま挨拶する。
「孫? ……ふうん、そうなの」
おばあちゃんの瞳は、完全に見知らぬ他人を見る目だった。
もしかしたら、孫を騙る詐欺師に警戒しているのかもしれないと思うと、胸が痛む。
「今日はね、本を持ってきたよ。おばあちゃん、本が好きだったでしょ」
「本? いやよ、文字ばっかりで面白くないんだもの。私はお絵描きのほうが好き」
おばあちゃんのその言葉は、私の胸をさらに抉った。あんなに本が好きだったおばあちゃんが、別人のようだった。
「そう言うと思って、今日は絵本を持ってきたよ。これならおばあちゃんも読めるでしょ?」
私はトートバッグから何冊か絵本を取り出す。なるべく絵がきれいなものを選んだ、つもり。
「わぁ、きれい!」
おばあちゃんは絵本の挿絵を見て、目を輝かせる。私はホッと安堵のため息をついた。
「この絵、きれいね! 私のコレクションにするわ!」
ビリビリッ。
おばあちゃんは絵本のページを破り始める。「あっ」と声を上げた曽根崎を、私は手で制した。
「いいんです、曽根崎くん。破ってもいいように新しく買った絵本ですから」
「そっちの男の子は、曽根崎くんっていうの?」
おばあちゃんの興味は曽根崎に向けられた。
「はじめまして、栞ちゃんの婚約者の曽根崎と申します」
曽根崎は床にひざまずき、おばあちゃんの手を取って、まるで王子様のような挨拶をする。
「誰が婚約者だって?」
「いいじゃん、どうせ明日にはもう覚えてないんでしょ?」
睨みつける私に、曽根崎はまったくダメージを食らっていない様子でウィンクする。ホントむかつくな、コイツ。
「あらまあ、お二人は結婚するの?」
「そのつもりです」
「しないしない、しないからね!?」
ニッコリと笑う曽根崎に、必死に否定する私。
おばあちゃんはそんな私達を見比べてコロコロと笑う。
やがて、面会時間の終わりが近づいてきた。
「それじゃあね、おばあちゃん。また来るからね」
「ええ、またね」
――私と曽根崎は、病室を出て、しばらく無言で歩いた。
「おばあちゃんは、重度の認知症になりました。もう私の母のことも、私のことも思い出せません。寝て起きたら、今日の出来事も忘れてしまうでしょう」
病院の一階にある自動販売機でジュースを買って、曽根崎と並んでベンチに座りながら、私はそう説明した。
「うん、栞ちゃんのお母さんからも聞いてる。でも、いざ直面してみると、なんだか――悲しいね」
おばあちゃんは、もう何も思い出せない。精神年齢は小学生ほどまで下がっていると聞いた。
周りの人間は見知らぬ他人としか認識できない。彼女の心が安らぐ瞬間など、あるのだろうか。
「でも、栞ちゃんと俺が一緒に会話したときさ、おばあちゃん楽しそうな顔してたよ。たとえ寝て起きたら忘れちゃうとしてもさ……その瞬間だけは確かに安心できたんじゃないかな」
曽根崎にそう言われてしまうと、悔しいけれど救われた気持ちになってしまう。
「しかし、曽根崎くんが私の母と面識があったとは驚きました」
「いやぁ、偶然スーパーで買い物してるときに出くわしてね。去年の話なんだけど」
去年……!? 随分前から面識があったものだ。母のほうこそ、私にそういう大事な話はきちんとしてほしい。
「それで、栞ちゃんのお母さんから、『末吉高校を受験するのよ~。曽根崎くん、先輩としてよろしくね』って言ってたから、俺は留年することにしたんだ」
ん? ……んん???
「な、なんで留年を……?」
「俺が一個上の先輩でもそれはそれで乙なものなんだけどさ、栞ちゃんと一緒に卒業したくて」
「お前、馬鹿じゃねえの?」
照れくさそうに人差し指で頬を掻く曽根崎に、私は冷たい言葉を浴びせる。
「そんなことのためだけに留年!? 学費を払ってる親御さんに申し訳ないとか思わねえの?」
「ひとまずこの一年分の学費は肩代わりしてもらって、俺はバイトして親にお金返してるよ。要は借金みたいなもんかな」
「あ、ああ……ちゃんと返してるのか……えらいな……」
困惑してそんな反応しか返せないが、実のところコイツの自業自得なので全くえらくはない。
それでも私の言葉に嬉しそうな笑顔を見せる曽根崎。ちょっと可愛い――いやいや、ほだされるとこだった、危ない。
要するに、コイツは私のことしか考えていないストーカー野郎、という事実が浮き彫りになっただけなのだ。
なんなんだ、コイツの私に対するこの異常な執着は。
一度いじめられてるのを救ったくらいで、この懐き具合は尋常ではない。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。送ってくよ」
「いいって。一人で帰る」
そう言い争いをしながら歩いているうちに、いつの間にか自宅に着いていたりするのだが、それはまた別の話である。
〈続く〉
彼女は自分専用の本棚を持っていて、その中に収納されている本を私に読ませてくれた。
その本たちのおかげで、喧嘩三昧だった私は少しだけおとなしくなった。
老眼鏡をかけ、コーヒーを飲みながら椅子に腰掛けて本を読むおばあちゃんの、その椅子にもたれかかって床に座り本を読むのが、私の大好きな時間だった。
ときどきおばあちゃんが「その本、面白いかい?」と私に問いかけ、「うん、面白い!」「そりゃ良かった」と会話を楽しむ穏やかな時間。
小さい頃の私は、この時間が永遠に続けばいいと思ったし、永遠に続くものだと思っていた。
高校生になった私は今、おばあちゃんが入院している病院にお見舞いに来ている。
おばあちゃんの病室の場所は、もう何度も来ているうちに記憶してしまった。
その病室の前で、立ち話をしている男と女がいる。
女のほうは私の母だ。そして男は――
「――曽根崎くん?」
「あ、栞ちゃん」
「ちょっとこっち来てもらっていいですか」
私は曽根崎の襟首を掴んで談話室へと移動する。何故か母もついてきていた。
「……なんでお前がここにいるんだよ」
「お義母さんがおばあさんのお見舞いに行くからって俺を誘ってくれたんだよ」
「『お義母さん』って呼び方やめてもらっていいですか?」
私はあえて棘のある言い方をする。
「っていうかお母さん、曽根崎のこと知ってたの?」
「当たり前じゃない、アンタと同じ小学校で一個上だったんだから。でも、久しぶりに会ったらイケてるメンズになっててビックリしたわ~」
あれ、コイツと同じ学校だったっけ?
あまりに影が薄かったのか、私の記憶の中に曽根崎の姿はない。
「聞いたわよ、アンタ曽根崎くんのこと助けて惚れられたんだって? アンタの喧嘩グセもたまには役に立つものね~」
「ほ、惚れられ……」
改めて事実を言われると、嫌でも意識してしまって恥ずかしい。
うーん、でも助けた覚えがないんだよな、私自身には。
「いいじゃない、付き合っちゃえば? アンタのこと好きになってくれるこんな極上のイケメンなかなかいないわよ?」
「いや、私は他にお付き合いしてる男がいるから」
「え~っ、なにそれお母さん聞いてないんだけど!? たまには親と話しなさいよね!」
「う、うるさいな……」
カーッと顔が熱くなる。病院の談話室でするような話題じゃない。
それを面白そうに見てる曽根崎の視線にも腹が立つ。
「そ、それより、私、おばあちゃんのお見舞いして帰るから。曽根崎、余計なこと喋るなよ」
私が曽根崎をひと睨みすると、
「いや、俺もついてくよ。帰りも一緒に帰ろ?」
爽やかに笑いながら言ってのけた。
「ついてくるな」
「あら、いいじゃないの。私、もうお見舞い済ませたし、あとのことは若い二人に任せようかしらね」
母はそう言って、反論の間もなくさっさと歩き去ってしまった。
「――あーくそ、人の話を聞かないやつばっかりか、アタシの周りは!」
額を手で押さえながら、私は呻くようにつぶやく。
「……曽根崎、その、アタシのおばあちゃんは……」
「うん、栞ちゃんのお母さんから聞いてる」
曽根崎は珍しく真剣な顔でうなずく。
私と曽根崎はおばあちゃんの病室のドアの前に立つ。
――この瞬間が、一番緊張する。
カラカラとスムーズな音を立てて、病室のドアを開ける。
「おばあちゃん、元気?」
私はベッドに入ったままのおばあちゃんに、笑顔を作る。
おばあちゃんのリクライニングベッドは四十五度に傾けられ、寝ているというより布団を膝に乗せたまま座っているような体勢だ。
「――あなた、だぁれ?」
おばあちゃんの言葉に、隣に立つ曽根崎が息を呑むのが聞こえる。
「はじめまして、あなたの孫の文月栞です」
私は動じないように、笑顔のまま挨拶する。
「孫? ……ふうん、そうなの」
おばあちゃんの瞳は、完全に見知らぬ他人を見る目だった。
もしかしたら、孫を騙る詐欺師に警戒しているのかもしれないと思うと、胸が痛む。
「今日はね、本を持ってきたよ。おばあちゃん、本が好きだったでしょ」
「本? いやよ、文字ばっかりで面白くないんだもの。私はお絵描きのほうが好き」
おばあちゃんのその言葉は、私の胸をさらに抉った。あんなに本が好きだったおばあちゃんが、別人のようだった。
「そう言うと思って、今日は絵本を持ってきたよ。これならおばあちゃんも読めるでしょ?」
私はトートバッグから何冊か絵本を取り出す。なるべく絵がきれいなものを選んだ、つもり。
「わぁ、きれい!」
おばあちゃんは絵本の挿絵を見て、目を輝かせる。私はホッと安堵のため息をついた。
「この絵、きれいね! 私のコレクションにするわ!」
ビリビリッ。
おばあちゃんは絵本のページを破り始める。「あっ」と声を上げた曽根崎を、私は手で制した。
「いいんです、曽根崎くん。破ってもいいように新しく買った絵本ですから」
「そっちの男の子は、曽根崎くんっていうの?」
おばあちゃんの興味は曽根崎に向けられた。
「はじめまして、栞ちゃんの婚約者の曽根崎と申します」
曽根崎は床にひざまずき、おばあちゃんの手を取って、まるで王子様のような挨拶をする。
「誰が婚約者だって?」
「いいじゃん、どうせ明日にはもう覚えてないんでしょ?」
睨みつける私に、曽根崎はまったくダメージを食らっていない様子でウィンクする。ホントむかつくな、コイツ。
「あらまあ、お二人は結婚するの?」
「そのつもりです」
「しないしない、しないからね!?」
ニッコリと笑う曽根崎に、必死に否定する私。
おばあちゃんはそんな私達を見比べてコロコロと笑う。
やがて、面会時間の終わりが近づいてきた。
「それじゃあね、おばあちゃん。また来るからね」
「ええ、またね」
――私と曽根崎は、病室を出て、しばらく無言で歩いた。
「おばあちゃんは、重度の認知症になりました。もう私の母のことも、私のことも思い出せません。寝て起きたら、今日の出来事も忘れてしまうでしょう」
病院の一階にある自動販売機でジュースを買って、曽根崎と並んでベンチに座りながら、私はそう説明した。
「うん、栞ちゃんのお母さんからも聞いてる。でも、いざ直面してみると、なんだか――悲しいね」
おばあちゃんは、もう何も思い出せない。精神年齢は小学生ほどまで下がっていると聞いた。
周りの人間は見知らぬ他人としか認識できない。彼女の心が安らぐ瞬間など、あるのだろうか。
「でも、栞ちゃんと俺が一緒に会話したときさ、おばあちゃん楽しそうな顔してたよ。たとえ寝て起きたら忘れちゃうとしてもさ……その瞬間だけは確かに安心できたんじゃないかな」
曽根崎にそう言われてしまうと、悔しいけれど救われた気持ちになってしまう。
「しかし、曽根崎くんが私の母と面識があったとは驚きました」
「いやぁ、偶然スーパーで買い物してるときに出くわしてね。去年の話なんだけど」
去年……!? 随分前から面識があったものだ。母のほうこそ、私にそういう大事な話はきちんとしてほしい。
「それで、栞ちゃんのお母さんから、『末吉高校を受験するのよ~。曽根崎くん、先輩としてよろしくね』って言ってたから、俺は留年することにしたんだ」
ん? ……んん???
「な、なんで留年を……?」
「俺が一個上の先輩でもそれはそれで乙なものなんだけどさ、栞ちゃんと一緒に卒業したくて」
「お前、馬鹿じゃねえの?」
照れくさそうに人差し指で頬を掻く曽根崎に、私は冷たい言葉を浴びせる。
「そんなことのためだけに留年!? 学費を払ってる親御さんに申し訳ないとか思わねえの?」
「ひとまずこの一年分の学費は肩代わりしてもらって、俺はバイトして親にお金返してるよ。要は借金みたいなもんかな」
「あ、ああ……ちゃんと返してるのか……えらいな……」
困惑してそんな反応しか返せないが、実のところコイツの自業自得なので全くえらくはない。
それでも私の言葉に嬉しそうな笑顔を見せる曽根崎。ちょっと可愛い――いやいや、ほだされるとこだった、危ない。
要するに、コイツは私のことしか考えていないストーカー野郎、という事実が浮き彫りになっただけなのだ。
なんなんだ、コイツの私に対するこの異常な執着は。
一度いじめられてるのを救ったくらいで、この懐き具合は尋常ではない。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。送ってくよ」
「いいって。一人で帰る」
そう言い争いをしながら歩いているうちに、いつの間にか自宅に着いていたりするのだが、それはまた別の話である。
〈続く〉
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