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8話
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朝日だ!
イルネギィアは目を覚ます。
日差しを感じて慌ててその身を起こした。
ああ、お嬢様の朝のお支度を手伝わなくては、と床から出ようとしたが、ポワンとベッドのスプリングに驚いて座り込む。
「こ、ここ…、どこ…?」
イルネギィアは全く見知らぬ部屋にいた。紅色の壁紙、同系色の可愛らしい柄の入った天蓋付のベッド。オークのサイドテーブルに渋い桃色のソファ。ベッドの両端のライトは今流行の硝子工房のヘッドがついている。とても、素敵。テーブルに楚々とした小さな花が添えられているのでその可憐さに女性のための部屋だと知れた。
だが、男爵家が王都ヴァレルに用意したお屋敷は客室だとてこんな高価なライトは用意していない。飾られている額の絵だって見たことはない。
「お目覚めですか?」
いきなり声をかけられた。気がつかなかったが続き間があり、そこから五十手前くらいの女性が立っていた。
女性はこげ茶の髪を きり、と結い上げてきちんとした印象を受ける。この人の家なのだろうかとイルネギィアは はい、と頷く。
そろ、とベッドの脇に置かれた踵の高い華奢な靴に目を留めて、自分の着ているドレスから夕べの出来事を思い出した。
そうだ、夕べは男爵様のお伴で公爵様のお屋敷の夜会に来たんだ。そして、男爵様のお邪魔にならないよう庭に降りて…。
降りて…。
……どうしたんだっけ…?
そこまで考えてイルネギィアは固まった。
その後が全然記憶にない…!!
「そのドレスでは動きづらいでしょう。着替えを用意しますよ。良かったらお湯を使いなさい」
女性は笑顔を見せてイルネギィアに着替えを促す。
言われるままにイルネギィアは浴室に向かう。
猫足のバスタブにたっぷりのお湯を張り、女性は彼女がドレスを脱ぐのを手伝ってくれた。いい、と遠慮したが背中にお湯もかけてくれる。女性はイルネギィアの胸元や首すじを見ている気もするが、きっと心配してくれているんだろうと思った。
手首をこちらに、と言われるままに差し出すと女性はホッとしたような顔をする。
「よかった、なにもされていないようですね…」
なにを? と思ったがともかく礼をと新しい服を着ながらイルネギィアは思った。女性が用意してくれた服は今まで着たことのないような柔らかなブラウスとスカート。ブラウスのリボンは女性が形良くしめてくれた。靴も歩きやすいものを用意してくれたので、きっとこちらのお屋敷のお仕着せなのだろうと納得する。
「ありがとうございます。こちらは公爵様のお屋敷ですか? あの、あたし夕べ公爵様のお屋敷に伺って…庭に降りたところまでしか記憶がないんです。もしかして、倒れたかなにかしたんでしようか?」
女性は痛ましいものを見るかのように彼女を見る。
「ここは公爵邸ですが離れの東屋です。さあ、話は食事を済ませてから…。ここに持ってきましょうね。珈琲にミルクはいる?」
くう、となったお腹を恥ずかしそうに隠してイルネギィアはこくりと頷いた。
そして、いったんその部屋を辞した女性は扉の向こうのイルネギィアの無垢な様子に、いかにも哀れみを込めた ため息をこぼした。
「彼女は目を覚ました?」
書斎で書類に目を通しながらキースは先にイルネギィアの着替えを手伝った、ハウスキーパーのジョゼフィンに尋ねた。
「はい。どこにも痛みはないようですわ」
「そう――って、なに考えていたのジョゼ」
「キース坊ちゃまがあの娘を抱えてきたときには もうどんなお遊びをなさったかと気が気じゃありませんでした」
あり得ない、とキースはジョゼと呼んだ女性を見る。
「お前の僕に対する評価はどんなのなの…」
「坊ちゃまは女性に積極的でいらっしゃいますから」
「拾い物をしただけだよ。野良魔法使いを」
そう言って自分の言った言葉に笑った。
さて、あの娘をどう使おうか。
ふふん、とキースはとても楽しそうに書類をめくった。それからしばらくしてジョゼフィンがイルネギィアを書斎に案内してきた。
イルネギィアは書斎に入って部屋の真ん中にある椅子に座る青年に瞠目する。それから、顔を赤らめて俯いた。
キースにとってはよくある反応だったので気にしない。そして、どうぞ、と彼女をソファに促した。
テーブルに珈琲を置くとジョゼフィンと茶の用意をした女中は部屋から出て行った。
イルネギィアはこの状況に混乱している。だって、そうだろう。
夕べ公爵邸でどうやら自分は庭で気を失ってしまったようだ。
そして、このお館の旦那様が自分をここに運び込んで、こうして手厚く介抱してくださった。まずはお礼を言うべき、と気がついたがこの旦那様はあまりに美形で正直ドキドキが止まらない。
――こ、こんな方がいるんだ…。教会の絵画みたい。
「残念ながら俗物だよ」
――え、そ、そうかぁ…。お顔が綺麗でもそうよね、やっぱり殿方は殿方…。
「俗物、と言えばその方向なの? きみの思考は?」
――はっ、そうよね! あ、あたしったら 失礼すぎる! ま、まずは!!
ガタっとイルネギィアは立ち上がる。
「あのっ、助けて頂いてありがとうございましたっ」
そして、ふわんとその栗色の巻き毛を後ろに戻して ほにゃっと笑った。
それを見ていた眼前の眼鏡の奥の灰色の瞳がたまらない、というように瞑られた。
それから、彼は爆笑した。
手元の珈琲はすっかり冷めている。それをかき混ぜ一口すすった。
なのに、目の前にいる旦那様はいまだに顔に手をついてくつくつ笑っているのだ。
なんたる、笑い上戸! 軽く腹を立ててイルネギィアはそれをねめつけた。
本人、どうしてここまで笑われるのかまったくわからない。
もう、自分がどうしたらいいのか、すっかり途方に暮れる。
そして、またハっと気がつく。
「あの、マーネメルト男爵家へ連絡をさせてくださりませんか? きっと心配なさっておられると思うのです」
「ああ、きみの雇用先?」
なぜ 知っているのだろう? 気を失う前に話したのだろうか?
「その必要はないよ」
は? とイルネギィアは小首をかしげる。
「きみはもう、この世にいない人間だから。僕がきみの足跡を全て消した。これからは〝魔力庫〟として僕の、〝魔法使い〟の付属品になってもらうよ」
その綺麗な面に毒の針。キースは視線を投げて、イルネギィアに退路はないのだ、と告げた。
イルネギィアは目を覚ます。
日差しを感じて慌ててその身を起こした。
ああ、お嬢様の朝のお支度を手伝わなくては、と床から出ようとしたが、ポワンとベッドのスプリングに驚いて座り込む。
「こ、ここ…、どこ…?」
イルネギィアは全く見知らぬ部屋にいた。紅色の壁紙、同系色の可愛らしい柄の入った天蓋付のベッド。オークのサイドテーブルに渋い桃色のソファ。ベッドの両端のライトは今流行の硝子工房のヘッドがついている。とても、素敵。テーブルに楚々とした小さな花が添えられているのでその可憐さに女性のための部屋だと知れた。
だが、男爵家が王都ヴァレルに用意したお屋敷は客室だとてこんな高価なライトは用意していない。飾られている額の絵だって見たことはない。
「お目覚めですか?」
いきなり声をかけられた。気がつかなかったが続き間があり、そこから五十手前くらいの女性が立っていた。
女性はこげ茶の髪を きり、と結い上げてきちんとした印象を受ける。この人の家なのだろうかとイルネギィアは はい、と頷く。
そろ、とベッドの脇に置かれた踵の高い華奢な靴に目を留めて、自分の着ているドレスから夕べの出来事を思い出した。
そうだ、夕べは男爵様のお伴で公爵様のお屋敷の夜会に来たんだ。そして、男爵様のお邪魔にならないよう庭に降りて…。
降りて…。
……どうしたんだっけ…?
そこまで考えてイルネギィアは固まった。
その後が全然記憶にない…!!
「そのドレスでは動きづらいでしょう。着替えを用意しますよ。良かったらお湯を使いなさい」
女性は笑顔を見せてイルネギィアに着替えを促す。
言われるままにイルネギィアは浴室に向かう。
猫足のバスタブにたっぷりのお湯を張り、女性は彼女がドレスを脱ぐのを手伝ってくれた。いい、と遠慮したが背中にお湯もかけてくれる。女性はイルネギィアの胸元や首すじを見ている気もするが、きっと心配してくれているんだろうと思った。
手首をこちらに、と言われるままに差し出すと女性はホッとしたような顔をする。
「よかった、なにもされていないようですね…」
なにを? と思ったがともかく礼をと新しい服を着ながらイルネギィアは思った。女性が用意してくれた服は今まで着たことのないような柔らかなブラウスとスカート。ブラウスのリボンは女性が形良くしめてくれた。靴も歩きやすいものを用意してくれたので、きっとこちらのお屋敷のお仕着せなのだろうと納得する。
「ありがとうございます。こちらは公爵様のお屋敷ですか? あの、あたし夕べ公爵様のお屋敷に伺って…庭に降りたところまでしか記憶がないんです。もしかして、倒れたかなにかしたんでしようか?」
女性は痛ましいものを見るかのように彼女を見る。
「ここは公爵邸ですが離れの東屋です。さあ、話は食事を済ませてから…。ここに持ってきましょうね。珈琲にミルクはいる?」
くう、となったお腹を恥ずかしそうに隠してイルネギィアはこくりと頷いた。
そして、いったんその部屋を辞した女性は扉の向こうのイルネギィアの無垢な様子に、いかにも哀れみを込めた ため息をこぼした。
「彼女は目を覚ました?」
書斎で書類に目を通しながらキースは先にイルネギィアの着替えを手伝った、ハウスキーパーのジョゼフィンに尋ねた。
「はい。どこにも痛みはないようですわ」
「そう――って、なに考えていたのジョゼ」
「キース坊ちゃまがあの娘を抱えてきたときには もうどんなお遊びをなさったかと気が気じゃありませんでした」
あり得ない、とキースはジョゼと呼んだ女性を見る。
「お前の僕に対する評価はどんなのなの…」
「坊ちゃまは女性に積極的でいらっしゃいますから」
「拾い物をしただけだよ。野良魔法使いを」
そう言って自分の言った言葉に笑った。
さて、あの娘をどう使おうか。
ふふん、とキースはとても楽しそうに書類をめくった。それからしばらくしてジョゼフィンがイルネギィアを書斎に案内してきた。
イルネギィアは書斎に入って部屋の真ん中にある椅子に座る青年に瞠目する。それから、顔を赤らめて俯いた。
キースにとってはよくある反応だったので気にしない。そして、どうぞ、と彼女をソファに促した。
テーブルに珈琲を置くとジョゼフィンと茶の用意をした女中は部屋から出て行った。
イルネギィアはこの状況に混乱している。だって、そうだろう。
夕べ公爵邸でどうやら自分は庭で気を失ってしまったようだ。
そして、このお館の旦那様が自分をここに運び込んで、こうして手厚く介抱してくださった。まずはお礼を言うべき、と気がついたがこの旦那様はあまりに美形で正直ドキドキが止まらない。
――こ、こんな方がいるんだ…。教会の絵画みたい。
「残念ながら俗物だよ」
――え、そ、そうかぁ…。お顔が綺麗でもそうよね、やっぱり殿方は殿方…。
「俗物、と言えばその方向なの? きみの思考は?」
――はっ、そうよね! あ、あたしったら 失礼すぎる! ま、まずは!!
ガタっとイルネギィアは立ち上がる。
「あのっ、助けて頂いてありがとうございましたっ」
そして、ふわんとその栗色の巻き毛を後ろに戻して ほにゃっと笑った。
それを見ていた眼前の眼鏡の奥の灰色の瞳がたまらない、というように瞑られた。
それから、彼は爆笑した。
手元の珈琲はすっかり冷めている。それをかき混ぜ一口すすった。
なのに、目の前にいる旦那様はいまだに顔に手をついてくつくつ笑っているのだ。
なんたる、笑い上戸! 軽く腹を立ててイルネギィアはそれをねめつけた。
本人、どうしてここまで笑われるのかまったくわからない。
もう、自分がどうしたらいいのか、すっかり途方に暮れる。
そして、またハっと気がつく。
「あの、マーネメルト男爵家へ連絡をさせてくださりませんか? きっと心配なさっておられると思うのです」
「ああ、きみの雇用先?」
なぜ 知っているのだろう? 気を失う前に話したのだろうか?
「その必要はないよ」
は? とイルネギィアは小首をかしげる。
「きみはもう、この世にいない人間だから。僕がきみの足跡を全て消した。これからは〝魔力庫〟として僕の、〝魔法使い〟の付属品になってもらうよ」
その綺麗な面に毒の針。キースは視線を投げて、イルネギィアに退路はないのだ、と告げた。
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