3 / 37
第一章
【1】 人は闇を恐れ 3
しおりを挟む
風の鳴る音がして、俺は慌てて頭を下げた。パドルが頭上を空振りして、ものすごい風圧が通りすぎる。
「なんだ」
ガツ、とアスファルトにパドルをたたきつけ、赤いフードをかぶった奴が言った。少女の声だった。
「お前、人間か」
少女は溜息をついた。
「奴らかと思った。危うく殺すところだった」
パドルを避けた拍子に、俺のフードが脱げていた。俺は慌ててフードをかぶり直す。
「どうかな。お前こそ、どっちだ」
――こいつは人間か?
フードを目深にかぶって、スカーフで顔を隠している。
太陽を避ける『奴ら』と同じように。『奴ら』の偽装をして、フードを被った俺と同じように。
どっちにしても、ここで俺を人間と呼ぶなんて、ただの馬鹿だ。
近くのビルの窓から、フードを被った頭がいくつかこちらを見下ろしている。女を殺したのを見られた。
一刻も早く逃げないとやばい。
俺は少女の方を向いたまま、後ずさる。
「あたしはお前を助けたことにならないか」
逃げの体勢に入っている俺に気づいて、少女は心外そうに言った。
「どうだか。獲物の横取りかもしれない」
善意も偽善も信じない。そんなもの、何の役にも立たない。
例えこいつが人間だとしても油断できない。まともな奴はこの街をうろつかない。ここは俺たち人間の縄張りじゃないからだ。
俺は、じりじりと後ずさった。駆けだす隙を窺いながら。
地響きのようなものが足をつたう。爆音が近付いてくる。煤臭い空気が流れてくる。
ああ、なんてこった。俺は舌打ちした。
馬鹿騒ぎの叫声が聞こえだした。銃声が響く。
こんなところで、得体の知れない奴とにらみ合ってる場合じゃない。
赤いフードの少女は、音を探して無防備に振り返った。
大通りの向こうを見遣る。
晴天の下、大通りの向こうから蒸気トラクターが数台やってくる。ガソリン自動車を改造した石炭自動車だ。遠目にも黒煙と水蒸気が見える。
いくら日中とは言え、この天神で、あの大騒ぎをするなんて、普通の神経じゃありえない。
「なんだあれは」
知らないのか。このあたりの人間なら、そんなことはあり得ない。吸血鬼どもだとしても、ありえない。
よそ者か。
だけど、どうでもいい。
少女が気を取られている隙に、俺は踵を返して、一目散に走り出した。
背中のリュックがガシャガシャと音を立てる。やっぱり詰め込みすぎたか。
胸と腹のホールドベルトを締めて、リュックが背中で踊るのを止める。
とりあえず元来た道を駆ける。
地下街へ続く階段の前を通り抜け、次のビルの前に差し掛かった時、何かに足をとられてすっ転んだ。
顔から地面につっこみそうになり、慌てて腕で顔と頭を庇った。
ビキリと肩と腕に痛みが走る。アスファルトに半身を打ちつけ、痛みに顔が歪む。
だけど呻いてる暇なんかない。
すぐさま手をついて身を起こす。振り返りながら立ち上がる。見ると、ビルの中から、ジーンズをはいたブーツの脚が伸びていた。
「人間め」
顔をストールか何かで覆い、フードを被った男が見下ろしている。
夏の名残りの空気の中、汗一つかかずに冷ややかな目で、俺を見ている。
やばい。思いながら足は前を向いて踏みだしている。やばい。逃げないと。太陽のあたる場所に。
ひときわ大きな音が響いて、その男の顔面が弾け飛んだ。
血しぶきと肉片が飛び散った。散弾銃だ。
力を無くした男の体が前のめりになり、ビルの陰から出た。日の光を浴びて傷口が焼けただれて行く。
俺はそれ以上を見ずに駆けだした。転んだ拍子にフードが脱げたが、もうどうでもいい。今度追ってくるのは、人間だ。
炭鉱ヤクザだった。
暑苦しい中、厚着をしていてよかった。
打ちつけた腕と肩が痛いが、多分折れても擦り剥いてもいない。何より頭を打たなくて良かった。
気絶してれば終わりだ。足に噛みつかれなくて良かった。
「待てオラァ!」
後ろでひときわ大きな声があがる。爆音がどんどん近づいてくる。
炭鉱の奴らは吸血鬼を殺すが、人間だって殺す。
日本刀やマシンガンを手に、自分たちのテリトリーを出て来ては、吸血鬼を殺して回り、よその土地を荒らしまわる。
炭鉱はエネルギーを手に入れるために必要だが、光がささない場所は、吸血鬼にとっても格好の住処だろう。
いつ奪われて立場が逆転するかも分からない、危うい均衡にある。闇と向き合って生きている炭鉱の奴らは、もうとっくにどこかぶっ壊れているのかもしれない。
この大通りは見晴らしが良すぎる。
日陰のない場所は吸血鬼を避けるにはいいが、人間相手には不都合だ。無防備すぎる。
それにバリケードをよじ登る間に殺される。俺は歩道を駆け抜けて、さっきのホテルの前を曲がった。
車の爆音が俺を追いかけて、曲がってくる。
次の瞬間、背中を大きな音と衝撃が襲う。後ろで歓声が上がった。
勢いでつんのめった。踏みだした足裏が地面をとらえられず、片膝を地面に打ち付けた。激痛が走る。
転びそうになったが、なんとか片手をついてこらえる。膝は痛みを訴えるが、動く。
今度こそ足裏で地面を踏みしめて、立ち上がる。何とか足を前へ前へと出して走り続けた。
さっきのはなんだ。銃じゃない。背中のリュックに何か当たった。
思った途端、何かが肩をかすめて飛んで行った。近くの車に突き刺さる。
ボウガンの矢だ。冷や汗がつたう。人間相手には銃はもったいないってことか。助かったが、やばい。
片側三車線の大通りを、放棄された車に隠れながら突っ切り、俺は親富孝通りと看板のある道路へ入った。
ここにもバリケードがあるが、隙間だらけだ。
すり抜けて、カフェの角を曲がり、路地へ駆けこむ。テラス席の椅子もテーブルもひっくり返っていた。
暗い路地は危ないが、車が入りにくい場所でないと。
後ろを追ってこられないようにあちこちを曲がりながら、俺はひたすら逃げた。
「なんだ」
ガツ、とアスファルトにパドルをたたきつけ、赤いフードをかぶった奴が言った。少女の声だった。
「お前、人間か」
少女は溜息をついた。
「奴らかと思った。危うく殺すところだった」
パドルを避けた拍子に、俺のフードが脱げていた。俺は慌ててフードをかぶり直す。
「どうかな。お前こそ、どっちだ」
――こいつは人間か?
フードを目深にかぶって、スカーフで顔を隠している。
太陽を避ける『奴ら』と同じように。『奴ら』の偽装をして、フードを被った俺と同じように。
どっちにしても、ここで俺を人間と呼ぶなんて、ただの馬鹿だ。
近くのビルの窓から、フードを被った頭がいくつかこちらを見下ろしている。女を殺したのを見られた。
一刻も早く逃げないとやばい。
俺は少女の方を向いたまま、後ずさる。
「あたしはお前を助けたことにならないか」
逃げの体勢に入っている俺に気づいて、少女は心外そうに言った。
「どうだか。獲物の横取りかもしれない」
善意も偽善も信じない。そんなもの、何の役にも立たない。
例えこいつが人間だとしても油断できない。まともな奴はこの街をうろつかない。ここは俺たち人間の縄張りじゃないからだ。
俺は、じりじりと後ずさった。駆けだす隙を窺いながら。
地響きのようなものが足をつたう。爆音が近付いてくる。煤臭い空気が流れてくる。
ああ、なんてこった。俺は舌打ちした。
馬鹿騒ぎの叫声が聞こえだした。銃声が響く。
こんなところで、得体の知れない奴とにらみ合ってる場合じゃない。
赤いフードの少女は、音を探して無防備に振り返った。
大通りの向こうを見遣る。
晴天の下、大通りの向こうから蒸気トラクターが数台やってくる。ガソリン自動車を改造した石炭自動車だ。遠目にも黒煙と水蒸気が見える。
いくら日中とは言え、この天神で、あの大騒ぎをするなんて、普通の神経じゃありえない。
「なんだあれは」
知らないのか。このあたりの人間なら、そんなことはあり得ない。吸血鬼どもだとしても、ありえない。
よそ者か。
だけど、どうでもいい。
少女が気を取られている隙に、俺は踵を返して、一目散に走り出した。
背中のリュックがガシャガシャと音を立てる。やっぱり詰め込みすぎたか。
胸と腹のホールドベルトを締めて、リュックが背中で踊るのを止める。
とりあえず元来た道を駆ける。
地下街へ続く階段の前を通り抜け、次のビルの前に差し掛かった時、何かに足をとられてすっ転んだ。
顔から地面につっこみそうになり、慌てて腕で顔と頭を庇った。
ビキリと肩と腕に痛みが走る。アスファルトに半身を打ちつけ、痛みに顔が歪む。
だけど呻いてる暇なんかない。
すぐさま手をついて身を起こす。振り返りながら立ち上がる。見ると、ビルの中から、ジーンズをはいたブーツの脚が伸びていた。
「人間め」
顔をストールか何かで覆い、フードを被った男が見下ろしている。
夏の名残りの空気の中、汗一つかかずに冷ややかな目で、俺を見ている。
やばい。思いながら足は前を向いて踏みだしている。やばい。逃げないと。太陽のあたる場所に。
ひときわ大きな音が響いて、その男の顔面が弾け飛んだ。
血しぶきと肉片が飛び散った。散弾銃だ。
力を無くした男の体が前のめりになり、ビルの陰から出た。日の光を浴びて傷口が焼けただれて行く。
俺はそれ以上を見ずに駆けだした。転んだ拍子にフードが脱げたが、もうどうでもいい。今度追ってくるのは、人間だ。
炭鉱ヤクザだった。
暑苦しい中、厚着をしていてよかった。
打ちつけた腕と肩が痛いが、多分折れても擦り剥いてもいない。何より頭を打たなくて良かった。
気絶してれば終わりだ。足に噛みつかれなくて良かった。
「待てオラァ!」
後ろでひときわ大きな声があがる。爆音がどんどん近づいてくる。
炭鉱の奴らは吸血鬼を殺すが、人間だって殺す。
日本刀やマシンガンを手に、自分たちのテリトリーを出て来ては、吸血鬼を殺して回り、よその土地を荒らしまわる。
炭鉱はエネルギーを手に入れるために必要だが、光がささない場所は、吸血鬼にとっても格好の住処だろう。
いつ奪われて立場が逆転するかも分からない、危うい均衡にある。闇と向き合って生きている炭鉱の奴らは、もうとっくにどこかぶっ壊れているのかもしれない。
この大通りは見晴らしが良すぎる。
日陰のない場所は吸血鬼を避けるにはいいが、人間相手には不都合だ。無防備すぎる。
それにバリケードをよじ登る間に殺される。俺は歩道を駆け抜けて、さっきのホテルの前を曲がった。
車の爆音が俺を追いかけて、曲がってくる。
次の瞬間、背中を大きな音と衝撃が襲う。後ろで歓声が上がった。
勢いでつんのめった。踏みだした足裏が地面をとらえられず、片膝を地面に打ち付けた。激痛が走る。
転びそうになったが、なんとか片手をついてこらえる。膝は痛みを訴えるが、動く。
今度こそ足裏で地面を踏みしめて、立ち上がる。何とか足を前へ前へと出して走り続けた。
さっきのはなんだ。銃じゃない。背中のリュックに何か当たった。
思った途端、何かが肩をかすめて飛んで行った。近くの車に突き刺さる。
ボウガンの矢だ。冷や汗がつたう。人間相手には銃はもったいないってことか。助かったが、やばい。
片側三車線の大通りを、放棄された車に隠れながら突っ切り、俺は親富孝通りと看板のある道路へ入った。
ここにもバリケードがあるが、隙間だらけだ。
すり抜けて、カフェの角を曲がり、路地へ駆けこむ。テラス席の椅子もテーブルもひっくり返っていた。
暗い路地は危ないが、車が入りにくい場所でないと。
後ろを追ってこられないようにあちこちを曲がりながら、俺はひたすら逃げた。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
喜劇・魔切の渡し
多谷昇太
大衆娯楽
これは演劇の舞台用に書いたシナリオです。時は現代で場所はあの「矢切の渡し」で有名な葛飾・柴又となります。ヒロインは和子。チャキチャキの江戸っ子娘で、某商事会社のOLです。一方で和子はお米という名の年配の女性が起こした某新興宗教にかぶれていてその教団の熱心な信者でもあります。50年配の父・良夫と母・為子がおり和子はその一人娘です。教団の教え通りにまっすぐ生きようと常日頃から努力しているのですが、何しろ江戸っ子なものですから自分を云うのに「あちし」とか云い、どうかすると「べらんめえ」調子までもが出てしまいます。ところで、いきなりの設定で恐縮ですがこの正しいことに生一本な和子を何とか鬱屈させよう、悪の道に誘い込もうとする〝悪魔〟がなぜか登場致します。和子のような純な魂は悪魔にとっては非常に垂涎を誘われるようで、色々な仕掛けをしては何とか悪の道に誘おうと躍起になる分けです。ところが…です。この悪魔を常日頃から監視し、もし和子のような善なる、光指向の人間を悪魔がたぶらかそうとするならば、その事あるごとに〝天使〟が現れてこれを邪魔(邪天?)致します。天使、悪魔とも年齢は4、50ぐらいですがなぜか悪魔が都会風で、天使はかっぺ丸出しの田舎者という設定となります。あ、そうだ。申し遅れましたがこれは「喜劇」です。随所に笑いを誘うような趣向を凝らしており、お楽しみいただけると思いますが、しかし作者の指向としましては単なる喜劇に留まらず、現代社会における諸々の問題点とシビアなる諸相をそこに込めて、これを弾劾し、正してみようと、大それたことを考えてもいるのです。さあ、それでは「喜劇・魔切の渡し」をお楽しみください。
【完結】20-1(ナインティーン)
木村竜史
ライト文芸
そう遠くない未来。
巨大な隕石が地球に落ちることが確定した世界に二十歳を迎えることなく地球と運命を共にすることになった少年少女達の最後の日々。
諦観と願望と憤怒と愛情を抱えた彼らは、最後の瞬間に何を成し、何を思うのか。
「俺は」「私は」「僕は」「あたし」は、大人になれずに死んでいく。
『20-1』それは、決して大人になることのない、子供達の叫び声。
学園のアイドルに、俺の部屋のギャル地縛霊がちょっかいを出すから話がややこしくなる。
たかなしポン太
青春
【第1回ノベルピアWEB小説コンテスト中間選考通過作品】
『み、見えるの?』
「見えるかと言われると……ギリ見えない……」
『ふぇっ? ちょっ、ちょっと! どこ見てんのよ!』
◆◆◆
仏教系学園の高校に通う霊能者、尚也。
劣悪な環境での寮生活を1年間終えたあと、2年生から念願のアパート暮らしを始めることになった。
ところが入居予定のアパートの部屋に行ってみると……そこにはセーラー服を着たギャル地縛霊、りんが住み着いていた。
後悔の念が強すぎて、この世に魂が残ってしまったりん。
尚也はそんなりんを無事に成仏させるため、りんと共同生活をすることを決意する。
また新学期の学校では、尚也は学園のアイドルこと花宮琴葉と同じクラスで席も近くなった。
尚也は1年生の時、たまたま琴葉が困っていた時に助けてあげたことがあるのだが……
霊能者の尚也、ギャル地縛霊のりん、学園のアイドル琴葉。
3人とその仲間たちが繰り広げる、ちょっと不思議な日常。
愉快で甘くて、ちょっと切ない、ライトファンタジーなラブコメディー!
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
如月さんは なびかない。~クラスで一番の美少女に、何故か告白された件~
八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」
ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。
蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。
これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。
一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。
悠久の機甲歩兵
竹氏
ファンタジー
文明が崩壊してから800年。文化や技術がリセットされた世界に、その理由を知っている人間は居なくなっていた。 彼はその世界で目覚めた。綻びだらけの太古の文明の記憶と機甲歩兵マキナを操る技術を持って。 文明が崩壊し変わり果てた世界で彼は生きる。今は放浪者として。
※現在毎日更新中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる