apocalypsis

さくら

文字の大きさ
上 下
107 / 236
suggestio veri, suggestio falsi

viginti tres

しおりを挟む
 もう、痛みどころか縫合をしたという痕すらない。
「それなら良かった」
 安心したように、胡桃沢が言った。
「それでは、失礼します」
 そう言い、斎は胡桃沢へ背を向けドアへと向かう。
「気をつけてのぉ」
 部屋を出て、ドアが閉まる瞬間、斎の耳に胡桃沢の声が届いた。

 天弥の家の横に停車した車の中で、斎は時間を確認した。約束した時間にはまだ少し早く、どうするか考え込む。車外に出て、教えられた天弥の部屋の窓を見上げた。そして、早くても良いかと考え携帯を手にする。
 天弥の番号を表示し、通話ボタンを押そうとした瞬間、聞きなれた声が耳に入ってきた。その声に不安を覚え、曲がり角の先にある玄関へと向かう。
 角を曲がったところで、天弥とサイラスが玄関先で向かい合っている姿が視界に入った。二人は斎に気がつくこともなく、何かを話し込んでいる。
 ふと、天弥の手がサイラスに触れ、背伸びをしたかと思うと、その耳に何かを囁いた。サイラスの表情が、驚愕と戸惑いの交じり合ったものに変わる。
 斎の足はその場に凍りついたかのように動かず、声も出せずに二人を見つめた。
 最初から気がついていたのか、偶然なのか、ゆっくりと天弥の顔が斎へと向けられた。その妖艶な笑みが鮮やかに斎の目に映り、その心を捉える。
 ずっと待ち望んでいた存在が今、目の前にある。だが、なぜ自分の前ではないのかと、締め付けられる胸を押さえた。押さえ込んでいた不安が溢れ出し、二人から目を逸らそうとするが無理な事だった。目の前の天弥は、斎の総てを魅了し捉えて離さない。
 成す術も無く天弥を見つめていると、いきなり斎を捉えていたものが消えた。天弥の雰囲気が変わり、一瞬、不思議そうに斎を見つめたと思うと、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「先生」
 全身で喜びを表しながら、天弥は斎に向かって駆け出した。
「天弥!」
 すぐにサイラスが天弥の名前を呼び、その腕を掴む。天弥は足を止めさせられ、何事かと振り返るとサイラスの顔を見る。いつもとは違う、何かを思い詰めたような切ない表情に、天弥は思わず見入ってしまう。
 互いに視線を向け合う二人に、斎は重い足を無理やり動かし背を向けた。自分でもどうやって身体が動いているのか分からず、懸命に車へと向かう。
 車へと乗り込むと、自分を馬鹿だと思う。最初から、これは取引だったはずだ。それを忘れて、勝手に本気になって天弥にのめり込んだのだ。自分にその価値がなくなれば、見限られるのも当然だ。
 クラッチを踏むと、震える手でキーを回した。一刻も早くこの場から離れたくて、エンジンがかかるとすぐに、車を発進させた。
 車のエンジン音が響き、天弥はハッとして斎が居た場所へと視線を向けた。そこに斎の姿は無く、天弥は慌ててサイラスの手を振り払うと駆け出した。
「先生!」
 角を曲がると、天弥は斎の姿を捜す。道路の先に斎の車が遠く走り去って行くのが見え、それを追うかのように、天弥は止まった足を再び動かして駆け出した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

最終死発電車

真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。 直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。 外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。 生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。 「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!

月のない夜 終わらないダンスを

薊野ざわり
ホラー
イタリアはサングエ、治安は下の下。そんな街で17歳の少女・イノリは知人宅に身を寄せ、夜、レストランで働いている。 彼女には、事情があった。カーニバルのとき両親を何者かに殺され、以降、おぞましい姿の怪物に、付けねらわれているのだ。  勤務三日目のイノリの元に、店のなじみ客だというユリアンという男が現れる。見た目はよくても、硝煙のにおいのする、関わり合いたくないタイプ――。逃げるイノリ、追いかけるユリアン。そして、イノリは、自分を付けねらう怪物たちの正体を知ることになる。 ソフトな流血描写含みます。改稿前のものを別タイトルで小説家になろうにも投稿済み。

甘いマスクは、イチゴジャムがお好き

猫宮乾
ホラー
 人間の顔面にはり付いて、その者に成り代わる〝マスク〟という存在を、見つけて排除するのが仕事の特殊捜査局の、梓藤冬親の日常です。※サクサク人が死にます。【完結済】

【一話完結】3分で読める背筋の凍る怖い話

冬一こもる
ホラー
本当に怖いのはありそうな恐怖。日常に潜むあり得る恐怖。 読者の日常に不安の種を植え付けます。 きっといつか不安の花は開く。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

孤独な戦い(1)

Phlogiston
BL
おしっこを我慢する遊びに耽る少年のお話。

処理中です...