apocalypsis

さくら

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emitte lucem et veritatem

octo

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 ベンチへ腰掛けると、身体の緊張を解いた。とたん、腕に痛みが走る。防御といえば聞こえはいいが、ダメージを受けている事に変わりはない。積み重なれば、それなりの痛手となる。
 自分よりも強い相手がいるということは、嫌というほど理解している。試合でも勝ってばかりだったわけではない、負ける時もあった。だがその時とは違う悔しさや歯がゆさがある。試合なら、悔しいが負けても次があるが、今は偶然次があっただけで、本来ならなかったはずだ。
 初めてサイラスと会ったあの夜から、意識のどこかで今日の事態を予測していたはずなのに、何の対策もしていなかった。それなりに強い相手だとは思ったが、ここまでだとは思いもしなかったのだ。
 真面目に鍛錬でもするかと脳裏に一瞬浮かぶが、そのためには禁煙に迫られる事になり、すぐに本気でどうするか悩みだす。
 空手を習い始めたのは、少しでも強くなれば、姉の神楽に虐げられなくなると考えたからだった。だが、神楽は暴力を使うわけではないため、結局は無駄な事だったのだが、初等部に入学したばかりの頃は、他に何も思いつかなかったのだ。それでも、十四年も続けていたのは好きだったし、楽しかったからだ。だが、今現在は喫煙と秤にかけてしまうようになってしまった。この時点で、サイラスに勝つのは無理だと気がつく。
 ため息を吐くと思考を切り替え、先ほどのサイラスの言葉を思い出す。仕事だとは言っていたが、何が、そしてどこまでが仕事なのかと考える。あの時、サイラスは通話相手に自分と交渉中だと言っていた。おそらく、天弥の事なのだろう。それは、サイラスが天弥を必要としているわけではなく、他に必要としている人物なり組織があるということだと推測できる。
 だがなぜ、自分と交渉するのかが分からない。確かに天弥恋人だが、なぜ本人ではなく自分なのか考えてみる。しかし、疲れや先ほどまでの緊張感からか、思考が上手く働かない。
 思考を停止し、放心状態で視界に映る公園内の景色を眺める。散漫とした意識の中、一人の小さな女の子の姿が思い浮かんだ。そして、姪のひなとそう変わらない年頃の女の子と、何度かここで会っていた事を、ふと思い出す。やけに綺麗な顔をした女の子だった事は覚えているが、具体的にその女の子と何をして遊んでいたかまでは思い出せなかった。
 おそらく中等部の頃だったはずだ。学校では友人が鬱陶しくて、家に帰れば姉に虐げられ、特に何をする訳でもないが、下校途中に気分転換を兼ねて何度かここに来た事がある。その時もここに座っていた。そして、すぐ横に女の子が座っていた。その様子を思い出すと、不思議と心の中に安らぎが広がっていった。
 
 夜が明け、少しずつ空が白む頃、サイラスはベッドへと倒れこんだ。そのままうつ伏せで身動きもせず目を閉じかける。
「I'm sleepy……」
 斎との対戦中、今すぐに来いと言われ、急ぎ向かった。内容から急ぎであることは理解していたが、その割にはくどくどと話が続き、開放されたのは先程だ。肝心の仕事はどうなるのかと思ったが、今は精神的にも肉体的にも疲れ果て動く気力がない。閉じかける目で時計を見る。学校へ行くまで二時間は寝られる、そう思ったとたんサイラスの目が閉じる。
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