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着任からそうしばらくもしないうちにグレース妃の体調は安定し、見違えるほど元気な妊婦になった。

クリストファー殿下がいれば夫婦で新婚熱々の時間を過ごし、二人の気分によっては私もお喋りや散歩やカードやチェスの和に加わる。

更に、クリストファー殿下が不在ならそれはそれで、グレース妃は侍女を引き連れお茶会に顔を出したり、出産後に着るドレスを仕立てに行ったり、オペラを観劇したり、流れる雲や星を眺めたりと、とにかく活発だ。

快活にお喋りするようになったグレース妃に引き摺られ、私の口調が砕けそうになってしまう事も増えた。
その度に私は踏みとどまったけれど、これはもう時間の問題かもしれないという一抹の不安はぬぐえない。

とはいえ、日に日にグレース妃の中で育まれていく命の尊さ、煌めきの前には、私の悩みなど吹き飛んでしまう。

「レイチェル」

折に触れ、グレース妃は私の手を取り、腹部に導く。
母親の記憶すら持たないグレース妃は、自分と同じくらいには気丈なはずだと予想した私に女親や姉妹の役割を求めている。

これは友情ではない。
王弟殿下の妃である人物は、私とはまるで違う、各段の価値ある存在だ。

こちらから友情と判断するのは、烏滸がましいだけである。

ただそれを望まれるのであれば無事に出産が済むまで、誠心誠意、お支えするだけである。

それに一人きりでは心もとなくとも、一方的にでもコレと頼る存在を見つけられれば人は強くなれる。

国王付首席近侍マクシームの存在は模範として私の支えになっていた。
彼は国王陛下の目と耳と口という絶大な権力を手中に収めながら、官職には堅実に励み、名誉叙爵は断り続けている。あくまで平民の身分を弁え続けており、彼に媚びる大貴族たちにも忠実なる僕としての態度は崩さない。
見倣いたい。

唯一の懸念は、国王付首席近侍マクシームの眼球が、グレース妃の外出時にだけ進められる建設途中の昇降椅子に何度か、そっと向けられたという事実。

見逃して……!

と、私は強く念じたものだ。

幸い私の男性の好みに関心がある為、私を見つけるとあれこれ世話を焼こうとしてくれる。
まあ、私の様子伺いにかこつけてグレース妃の体調を注意深く観察しているのだから、私から声を掛けて呼び止めるのは彼にとっても利益があることだった。

最悪の場合、昇降椅子は私の玩具と言い張ってもいい。

「レイチェル様、何か」
「少し伺いたいの」
「なんなりと」

私がマクシームを呼び止めて話し込んでも、きっと、周囲からは結婚相談としか思われない。

「私、実は弟がいるの。叔父様の養子になったのよ」
「存じております」

そうでしょうね。

「つまり、私の母は四回お産をしたの」
「それは素晴らしい。大変お疲れ様でした。神の御加護のもと、御母上は気高く尽力なさったのですね」
「どうもありがとう。それで、思ったのよ」
「と、いうと?」

私は一旦周囲を見渡し、辺りに人気がないことを確かめた。
その仕草で内密な話だと察したマクシームが僅かに身を屈め耳を寄せる。

「医師のせいということはない?」

グレース妃は気丈に振舞っているが、只でさえ命懸けの出産で自分はより一層死に近いと思い、その覚悟をしている。そして態度には出さないが恐がっている。自分の為に気丈に振舞っているのだ。
残された時間を愛しむ為に、体調がよければ夫や侍女と盛大に日常を楽しむ。

でも、もし……

「医師は頭がいいから野心を抱くと厄介でしょう?母は比較的安産だったらしいのに、弟を産むときの医者を嫌っていたみたいなの。年を取って息子の代に変わっていたからとだけ聞いたけれど」
「御心配は御尤もです」
「今思えば、妊婦に冷たかったのかもしれないと思って」
「可能性はあります」

グレース妃の耳には入れたくはない。
もしかすると、体質のせいではなくて母親も姉も医師によって命を縮められたかもしれないなんて。

勿論、本当に体質かもしれない。
これは私のお節介だ。

「レイチェル様。あなた様の目から見て、妃殿下の主治医は信用なりませんか?」

私はマクシームの目を見て首を振った。

「いいえ。優秀で丁寧よ。でも彼らはいざとなったら産まれてくる王位継承者を優先するでしょう。それが仕事だから」
「いざとなったら……」
「見ず知らずの私を抜擢するくらい、心細いのよ」
「私に何をお望みです?」

信頼できる。
彼は、平民だから。

「グレース様をもっと安心させたいの。どうにかして」
「……」

マクシームは思案するよう押し黙り視線を外した。

私が詳細に命じないことに意味がある。
私の要望より、国王付首席近侍の発案のほうが王家にとって大切からだ。

暫くしてマクシームは言った。

「あの絡繰り椅子は気休め以上の意味があると、国王陛下はお考えです」

まずは私を安心させることにしたらしい。
今度は私が押し黙る番だ。

「……」
「手練れの産婆に心当たりがあります」

よし。

「あなたが抜擢すれば、誰も文句は言わないでしょう」
「御心配には及びません。彼女はもう貴族に嫁ぎましたので」

しれっと重大な発言をしてからマクシームが僅かに目尻を下げた。
私に対し、優しい大人の男性の表情の片鱗をわざと見せた可能性はある。

「妃殿下は、あなた様と出会えて、お幸せなことでしょう」
「当たり前よ。あの方には幸せでいてもらわないと」
「仰る通りです」

一種の盟約のようなものが結ばれ、私の心も幾らか和んだ。

話しが終わったのでどちらともなく歩き出した。
私はふと思い立ちマクシームに尋ねた。

「あなた、兄弟は?」
「十一人です」
「……」

国王付首席近侍の私生活は、あまり周知されていない。
それは貴族の関心事ではないからだろう。

「弟が四人。妹が六人。全員、同じ両親です」
「じゃあもっと頑張って」

叱責ではなく鼓舞したつもりだった。
マクシームが承知したかどうかは、正直どうでもいい。彼は感情を表に出しはしないのだから。

目の前の通路の端にメイドが見えた。
私は尤もらしい話題に変え、わざと少しだけ声を張った。

「あなた結婚は?私の世話を焼いて虚しくない?」
「結婚はいたしません」
「どうして?」

意外にもすんなり返答を得られたので、流れで問いを重ねてしまう。
個人的なことを聞いてしまって申し訳ないけれど、堅実なメイドは篭を抱えて早足で歩いてくる。後には引けない。

「恋人の父親が私との結婚を良しとしないからです」
「そう……」

そういうパターンもあるのね。

「大変ね」
「そうでもありません」
「え?」
「魂で結ばれておりますので」

私はこの瞬間、マクシームという男を見直した。
欲のない真面目な国王付首席近侍だとばかり思っていたのに、ロマンチックじゃないの。感動したわ。
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