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27(アレクシウス)
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「本当に悪いことをしてしまったわ」
「はい」
「大好きだったのに」
「はい」
「ヴェロニカは許してくれるかしら」
「まあ、はい」
落ち葉を掃きながら、毎日、毎日、毎日、母は同じ懺悔を繰り返す。
母の思い出の中にあの男がいないのはいい気味だが、僕の弟にも関心を示さないのはさすがに失望を禁じ得ない気がする。
僕は弟と会ってみたい。
その想いを知っていてくれる人がいるから、待てる。
母もその人のことばかり話す。だから聞いていられるのだが、正直なところもうあの人の人生に関わらせない方がいいと僕は考えている。
「会いたい」
「よしなさい」
「そうよね……」
母は僕を見ようともしない。
顔が、父ではなく母に似ているからだろう。
落ち葉を掃き終えた母が、父の墓前ではなく傍らに跪く。それから冷たい墓石に凭れかかり、甘えるように頭を預ける。来るたびに見る光景だ。
「最近は、食事はとれていますか?」
「ええ」
「そうですか。では、また」
父と二人きりで過ごす母の痩せた体を観察し、あと何年もつだろうかと考える。
僕が母に抱く感情が肉親の愛であるとは到底思えなかった。
併し、軽蔑や嫌悪が時の流れの中で過去になりつつある。忌まわしい負の感情が蒸発して消えてしまえば、残るのは憐れと哀愁への気掛りだけだ。
母の人生が特別哀しいとは思わない。
だから同情はしない。
寧ろ、母の晩年が父の墓を守る暮らしなのだから、間違いなくこの女は幸せだろうと思えた。
帰宅するとあの人からの手紙が届けられていた。
ヴェロニカは、何をどう考えたのか僕を気にかけて度々手紙をくれた。元より悪い印象のなかったあの人から、健康や心情を程よい距離感で気にかけてもらえるのは、なかなか僕の心を和らげる効果があった。
いちばんよかったのは弟の成長を詳しく教えてもらえたことだ。
僕はヴェロニカに親しみを覚えた。
母よりだいぶ若いあの人が精神的に僕の母親代わりを務めようとしていると気づいたのは、修道騎士として一師団率いるようになった二十歳の秋の頃だった。
静かな文章ではあった。
併し心は、僕の死を恐れていた。
あの人に弟を任せたのは正解だったと、改めて確信した。
無論、僕はそう簡単に負けはしないので、あの人を悲しませる日は来ないだろう。まず大前提としてあの人が先に老いて死ぬ。
「……」
母が死ぬのはまあ時の流れとして当然だが、あの人が死ぬのは、少し悲しいな。
「あ、なるほど」
これが家族的感情か。
とすると、母が死んだら実際は悲しいかもしれないな。
「……いや」
どうでもいい。
それより、たった一人の家族である弟に死ぬ前に是非とも会っておきたい。僕はそう易々と死んではやらないが、弟は親の繊細な部分だけ受け継いだ弱い人間だから、此方が想像もし得ない驚くべき出来事ですっと死んでしまうかもしれない。
「……ヴェロニカさん。僕、どうしたらいいでしょうかね」
素直な気持ちをしたため、いつも通り迅速に手紙を返す。
そんな交流が延々と続いている。
あの人が双子を産み、弟にも弟ができて僕は少し安心した。
仮に僕が人の恨みを買い万が一この世から消えたとしても、一先ず、弟の肉親は確保された。あの人のことだから兄弟仲良く、余計な軋轢を生まないように育ててくれるだろう。
弟の弟たちに興味はないので、特に母には知らせずにおいた。
母が突然弱り始めたのは、墓守生活も十年の節目を迎えた冬頃だった。出産を含めた多くの負傷が肉体の寿命を縮めていたに違いない。
「此処に埋めて……」
父の墓の隣に自分用の穴を掘り、母は力を使い果たし倒れた。
あの人に会いたがっていた母はもう自力では動けない。会わせてやるとしたら、あの人に来てもらうしかない。
ヴェロニカは来るだろう。
そういう人だ。
だから私は呼ばなかった。
母は長くないと、その呼吸を聞けば理解できる。
いくらあの人に会いたかろうと、父と二人きりで旅発ちたいに決まっている。
「アレクシウス……」
数える程しか母は僕の名を呼ばなかったが、今わの際で最後に僕を呼んだ。
母は僕に手を伸ばしたが、僕は握り返さなかった。母は痩せ細った手を重そうに掲げ、僕の肩の辺りを硬く叩いた。
「元気でね」
それが最期の言葉になった。
微笑んでいた。
「……」
悲しくはなかった。
それでも体の一部を失ったかのような居心地の悪い喪失感を覚えた。
僕は訃報と併せて不可解な心情を吐露し、ヴェロニカの返答を待った。
ヴェロニカは、僕を労わり、励まし、そして母を看取った事実について控えめながら誠実な文面で褒めていた。
『もしお時間が許すなら会いに来てください』
それが僕との再会の為か、弟と邂逅させる為か、僕には判断が付き兼ねた。
でも……
「……」
僕は胸の中に心地よい風を感じ、微笑んでいた。
初めて会った日のことを思い出したのだ。
まだ十年そこそこしか経っていない。
だからあの人も、見分けがつかないほど老けてはいないはずだ。
「ははっ」
元気だろうか。
せっかく会いに行くのなら、道なりに土地の名産品でも買って土産にしよう。それで何か美味しい手料理を作ってくれるはずだ。
残念ながら、そんな時間はないのだが。
「……母さん」
できる限り健康で、幸福であってほしい。
いつか再び会える日が訪れたなら、悪戯に尋ねてみようか。そうしたらあの人は、野の母狸のように無垢ながら真剣な瞳を煌めかせ、生真面目に答えるだろう。
「……」
あの人と出会えてよかった。
僕も誰かと出会うとき、あの人の真似をしてみてもいいかもしれない。
優しさや愛は希少だが、まやかしでもなければ、無駄でもないのだから。
「はい」
「大好きだったのに」
「はい」
「ヴェロニカは許してくれるかしら」
「まあ、はい」
落ち葉を掃きながら、毎日、毎日、毎日、母は同じ懺悔を繰り返す。
母の思い出の中にあの男がいないのはいい気味だが、僕の弟にも関心を示さないのはさすがに失望を禁じ得ない気がする。
僕は弟と会ってみたい。
その想いを知っていてくれる人がいるから、待てる。
母もその人のことばかり話す。だから聞いていられるのだが、正直なところもうあの人の人生に関わらせない方がいいと僕は考えている。
「会いたい」
「よしなさい」
「そうよね……」
母は僕を見ようともしない。
顔が、父ではなく母に似ているからだろう。
落ち葉を掃き終えた母が、父の墓前ではなく傍らに跪く。それから冷たい墓石に凭れかかり、甘えるように頭を預ける。来るたびに見る光景だ。
「最近は、食事はとれていますか?」
「ええ」
「そうですか。では、また」
父と二人きりで過ごす母の痩せた体を観察し、あと何年もつだろうかと考える。
僕が母に抱く感情が肉親の愛であるとは到底思えなかった。
併し、軽蔑や嫌悪が時の流れの中で過去になりつつある。忌まわしい負の感情が蒸発して消えてしまえば、残るのは憐れと哀愁への気掛りだけだ。
母の人生が特別哀しいとは思わない。
だから同情はしない。
寧ろ、母の晩年が父の墓を守る暮らしなのだから、間違いなくこの女は幸せだろうと思えた。
帰宅するとあの人からの手紙が届けられていた。
ヴェロニカは、何をどう考えたのか僕を気にかけて度々手紙をくれた。元より悪い印象のなかったあの人から、健康や心情を程よい距離感で気にかけてもらえるのは、なかなか僕の心を和らげる効果があった。
いちばんよかったのは弟の成長を詳しく教えてもらえたことだ。
僕はヴェロニカに親しみを覚えた。
母よりだいぶ若いあの人が精神的に僕の母親代わりを務めようとしていると気づいたのは、修道騎士として一師団率いるようになった二十歳の秋の頃だった。
静かな文章ではあった。
併し心は、僕の死を恐れていた。
あの人に弟を任せたのは正解だったと、改めて確信した。
無論、僕はそう簡単に負けはしないので、あの人を悲しませる日は来ないだろう。まず大前提としてあの人が先に老いて死ぬ。
「……」
母が死ぬのはまあ時の流れとして当然だが、あの人が死ぬのは、少し悲しいな。
「あ、なるほど」
これが家族的感情か。
とすると、母が死んだら実際は悲しいかもしれないな。
「……いや」
どうでもいい。
それより、たった一人の家族である弟に死ぬ前に是非とも会っておきたい。僕はそう易々と死んではやらないが、弟は親の繊細な部分だけ受け継いだ弱い人間だから、此方が想像もし得ない驚くべき出来事ですっと死んでしまうかもしれない。
「……ヴェロニカさん。僕、どうしたらいいでしょうかね」
素直な気持ちをしたため、いつも通り迅速に手紙を返す。
そんな交流が延々と続いている。
あの人が双子を産み、弟にも弟ができて僕は少し安心した。
仮に僕が人の恨みを買い万が一この世から消えたとしても、一先ず、弟の肉親は確保された。あの人のことだから兄弟仲良く、余計な軋轢を生まないように育ててくれるだろう。
弟の弟たちに興味はないので、特に母には知らせずにおいた。
母が突然弱り始めたのは、墓守生活も十年の節目を迎えた冬頃だった。出産を含めた多くの負傷が肉体の寿命を縮めていたに違いない。
「此処に埋めて……」
父の墓の隣に自分用の穴を掘り、母は力を使い果たし倒れた。
あの人に会いたがっていた母はもう自力では動けない。会わせてやるとしたら、あの人に来てもらうしかない。
ヴェロニカは来るだろう。
そういう人だ。
だから私は呼ばなかった。
母は長くないと、その呼吸を聞けば理解できる。
いくらあの人に会いたかろうと、父と二人きりで旅発ちたいに決まっている。
「アレクシウス……」
数える程しか母は僕の名を呼ばなかったが、今わの際で最後に僕を呼んだ。
母は僕に手を伸ばしたが、僕は握り返さなかった。母は痩せ細った手を重そうに掲げ、僕の肩の辺りを硬く叩いた。
「元気でね」
それが最期の言葉になった。
微笑んでいた。
「……」
悲しくはなかった。
それでも体の一部を失ったかのような居心地の悪い喪失感を覚えた。
僕は訃報と併せて不可解な心情を吐露し、ヴェロニカの返答を待った。
ヴェロニカは、僕を労わり、励まし、そして母を看取った事実について控えめながら誠実な文面で褒めていた。
『もしお時間が許すなら会いに来てください』
それが僕との再会の為か、弟と邂逅させる為か、僕には判断が付き兼ねた。
でも……
「……」
僕は胸の中に心地よい風を感じ、微笑んでいた。
初めて会った日のことを思い出したのだ。
まだ十年そこそこしか経っていない。
だからあの人も、見分けがつかないほど老けてはいないはずだ。
「ははっ」
元気だろうか。
せっかく会いに行くのなら、道なりに土地の名産品でも買って土産にしよう。それで何か美味しい手料理を作ってくれるはずだ。
残念ながら、そんな時間はないのだが。
「……母さん」
できる限り健康で、幸福であってほしい。
いつか再び会える日が訪れたなら、悪戯に尋ねてみようか。そうしたらあの人は、野の母狸のように無垢ながら真剣な瞳を煌めかせ、生真面目に答えるだろう。
「……」
あの人と出会えてよかった。
僕も誰かと出会うとき、あの人の真似をしてみてもいいかもしれない。
優しさや愛は希少だが、まやかしでもなければ、無駄でもないのだから。
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