13 / 28
13(ヴェロニカ)
しおりを挟む
フェラレーゼ伯爵夫妻は揃って私の部屋を訪れ、妻のソレーヌが満面の笑みを輝かせ、私を抱きしめた。
「ありがとう、ヴェロニカ!」
「……」
「……」
ガイウスと無言で見つめ合う。
ガイウスは少し痩せた。顔色も悪かった。
ソレーヌがかつてそうであったように思い悩み、塞ぎ込んでいるように見えた。
それでも、ガイウスの姿を見た瞬間から勇気が湧いた。
ガイウスと目が合った瞬間、絆を思い出した。
ソレーヌは難しい女性だ。
私が身篭ったかどうかを測る期間、ガイウスと私の接触を嫌がったかもしれない。それは正しく、自然なことだ。
私はソレーヌの望みを叶えた。
でも私は、ソレーヌの望まない関係を結んだ。
あなたの愛する人を私も愛してしまった事を、あなたは知らないのね。
だから、ただ喜んで私を抱きしめるのね。
ごめんなさい……と、ソレーヌへの罪悪感が薄らいでしまったのは、お腹の中に新しい命を感じてしまった後だからだろうか。
産むのは、私だ。
興奮が冷めないソレーヌに抱きしめられたままどうすることもできず、ガイウスを見つめた。
助けてほしいとは思わなかった。彼がとる行動が、私たちの答えなのだ。
ガイウスがソレーヌの肩に手を掛けた。
「そのくらいで。大切な体だから」
「……?」
違和感を覚えた。
それを表に出さないだけの分別は残っている。
ソレーヌは笑顔で私を解放し、その笑顔をガイウスに向けた。
「心配しないで。女の体はよくできているのよ」
「ヴェロニカは初産だから」
「私も初産は死にかけた。でも、生きているわ」
「ヴェロニカはあなたより華奢だから」
「ああ、それはそうね」
過度な慎重さは否めないもののガイウスがソレーヌの説得に成功した。
単純に、冷めている。
あれほどソレーヌを愛していたはずだったのに、ガイウスは理性的であり紳士的で、余所余所しかった。
私が身篭ったから?
それだけが理由とは思えない。
二人の間に何かあったのだろうとは思うものの、私が干渉するものでもない。
「特殊な状況だから、私たちはヴェロニカの生活を守らないといけないよ」
「ええ。安心してその日を迎えて欲しいと思っているわ」
「どんな生活なら安心できるのか、本人にしかわからない。私がヴェロニカの要望を聞く間、あなたは席を外してもらえるかな」
「どうして?」
「ヴェロニカは緊張している。あなたとの関係は極めて複雑だ。私たちは、私たちが想像するよりずっと重い負担をかけていると考えた方がいい。軽く考えてはいけない」
「……」
ソレーヌの笑顔が徐々に消え去り、困惑するように私を凝視する。
「そう。そうかもしれないわ。ごめんなさい。恐がらないで。私、あなたに感謝しているのよ。ありがとう。あなたが安心して過ごせるように、あまり煩くしないように気を付けるわ」
「ありがとう」
ガイウスが私の代わりに礼を述べる。
私は努めて友好的な意思を示そうと笑みを浮かべたが、自分でも驚くほど頬が強張った。
「では、お願いね」
ソレーヌがガイウスに気遣うような目配せを残して部屋を出ていく。
扉が完全に閉まると、ガイウスが即座に動いた。
私の腕に触れて腰掛けるように促す。私はすぐ傍のベッドの端に座った。ガイウスも隣に座った。
肩が触れる。
腿が触れる。
久しぶりに感じたガイウスのぬくもりが私の中に甘い火を熾す。
「すまなかった。長く待たせすぎた」
「……」
ガイウスは先程より幾分、頬に血の気が戻り、口調も快活に近づいている。
私は少しだけ笑顔になって首を振った。
ガイウスの大きな手が私の手を包み込んだ。
「この方が安全だと思ったんだ。君を、守りたかった」
私は何も返さなかった。
たぶん、本当にガイウスは私を守りたかったのだろう。ソレーヌはガイウスを愛しているし、ガイウスの子どもを欲しがっている。私の中に宿った命を守りたいのはソレーヌも同じだ。
ただ、私はガイウスを愛してしまった。
ソレーヌが憎むなら私だけだから。
私は頷いて答えた。
事実、丁重に扱われていることに変わりはない。
ガイウスが痛みを堪えるように微かに目を細めて私を覗き込んだ。
「どう?不便はない?」
「はい」
私はやっと一言目を発した。
ガイウスの表情が和らいだ。
「君の為になんでもする。跡継ぎを産んでくれるからじゃない。私が、君を大切にしたいんだ」
「ありがとうございます」
「ヴェロニカ。君は使用人ではないんだよ」
重ねた手を私の腹部に導いて、ガイウスが深い声で囁いた。
「今、私たちは一つなんだ」
私の中に、ガイウスと私の子がいる。
その現実は悩みも苦しみも忘れさせる。
そして今、ガイウスが隣にいてくれる。
このささやかな幸せが、今、私に許されている最大の幸せだ。
私は目を閉じた。
ただ静かにこの時を過ごしたかった。
けれどガイウスは違ったようだ。
暫くは私の隣で沈黙していた。その沈黙を破ったのもまたガイウスだった。
「産まれてくる子は、男の子でも、女の子でも、私の子どもでもあるが、君の子どもだ。フェラレーゼ伯爵家の後継者として育てるが、母親は君だ。ヴェロニカ」
「──」
話が違う。
そう感じるのは私だけではないはずだ。
そして、彼女の方がその衝撃は激しく、歓迎できないものだろう。
「ガイウス……」
「親子の時間を奪うようなことにはならないと約束する」
「……」
そんなことができるのだろうか。
一瞬、婚外子なのだからと否定的な意見は思い浮かんだけれど、実際のところ私は母と二人で穏やかな暮らしを送り、振り返ればとても幸せだった。
ただ、今回、私たちにはソレーヌがいる。
彼女は丁重に、そして慎重に対応しなければならない相手だ。第一にソレーヌこそフェラレーゼ伯爵夫人であり、私は身代わりで出産する使用人として感謝されている。
この関係を崩すのは危険だ。
「ガイウス、でも」
「私の過ちに君が責任を感じる必要はない。君の権利は、奪われるべきではないから」
「過ちだったの?」
「君を愛したこと?」
どうしても見つめ合い、言葉を飲んでしまう。
私から目を逸らした。
ガイウスも足元に目を落し、穏やかに、けれどどこか爽やかに呟いた。
「君を愛するのに、相応しい順番を守らなかった。すまなかったと思っている」
悔やんでいる。
でもそれは私を愛したからではなくて、寧ろ、この愛が生まれたことは喜んでいるようだ。だから優しく微笑んでいるのだろう。
「……」
ガイウスの立場でこれほど私の状況を慮ってくれるのは、ある意味、幸運なことだ。いくら幼い頃の絆があるとはいえ身分が違う。私に跡継ぎを産ませて、捨ててもいいはずなのに。
「奥様には、どう説明するの?」
「親子の絆について理解を求めるよ。跡継ぎの件で心の重荷が下りた状態なら、冷静に受け止めてくれるだろう」
ガイウスの気持ちは嬉しいけれど、私は手放しで喜べない。
希望的観測でしかないというだけではなく、私たちは、この件でソレーヌを説得できないままに、彼女の心を裏切る形で希望を叶えてしまった。いつ彼女に裏切り者と謗られてもおかしくはない身なのだ。
少なくとも私は。
だから、お腹の子が無事に産まれるまではソレーヌを刺激したくはない。
誰に身勝手と言われても譲れない。
でも……
ソレーヌがわかってくれるのなら、この子と離れたくない。
傍で成長を見守り、言葉を交わし、触れ合い、日々を重ねていきたい。
「いちばん傷ついたのは奥様だから」
私から主張はできない。
「でも奥様はこの子を待ち望んで、愛して下さるから、それは、とても感謝すべきことですし、私にとっても、幸せなことであるはずです」
「ヴェロニカ……」
ガイウスが私を抱き寄せる。
大きな掌が頭を包む。
こつん、とガイウスと頭がぶつかる。
「……」
困ったな。
私に甘えていないで、しっかりしてほしいのに……
でも、そうやって、二人で同じ罪を受け止めて悩むことが少し嬉しく感じてしまうのは、彼と私の人生が始まったからなのだろうなと思わずにはいられない。
母には、いなかった。
でも私の人生にはガイウスがいる。
この人生を愛して生きていける。
たとえこの先、孤独や苦しみが待っているとしても。
ソレーヌの怒りが私を貫く日がくるとしても。
今はただ、誰からも望まれて産まれてくるこの子を待ち侘びて、じっとしていよう。
いつか終わると覚悟しておくべき穏やかな時間を大切に。ゆっくりと、覚悟を強くしていこう。
そんな決意をするのに、自己憐憫も驕りも必要なかった。
物心つく頃には、母を見て人生にはいろいろあるものだと納得するようになっていたから。
その後、ソレーヌの理解は比較的すぐ得られたように感じられた。
私を気遣い、負担をかけないように気を遣ってくれたという実感はある。
たまにふらりと部屋に来ることはあったものの、ノックをしてから扉の下の隙間に入室の許可を求めるカードを差し込み、私の意志を尊重して此方の気分が乗らない日は諦めてくれた。
「ああ、私たちの赤ちゃん……」
膨らんでいくお腹を、ソレーヌが愛しそうに撫でる。
「ヴェロニカ。勿論、あなたが名前を決めていいのよ?ガイウスとあなたで、どうぞ、素晴らしい名前をつけてあげて」
ソレーヌは本心からそう言っているようでもあった。
ソレーヌには言えなかったけれど、私の母は安産だったらしい。
だから私もそうだろうと思っていた。でも、だから元気な跡継ぎを産みますよとは、口が裂けても言えなかった。
覚悟したよりずっと穏やかな日々が流れていった。
ガイウスも頻繁に部屋に来て、私を気遣ってくれたり、励ましてくれたり、たまに散歩にも付き合ってくれたりと、ソレーヌの寛大さを感じずにはいられない出来事も多かった。
臨月が近づくと、ソレーヌは私より必死な様子で子どもが無事に産まれてくるよう祈っていた。断食までしていたらしい。
ソレーヌの真剣さが少し恐かった。
けれど、ある種の安心感を私は覚えた。
万が一、私がお産で命を落としても、ソレーヌがいればこの子は守ってもらえる。愛してもらえる。寂しくない。
そして当日。
初めての出産で取り乱したガイウスより、ある意味ソレーヌの方が頼りになるとまで感じた。
主治医の介助のもと、私は待望の男の子を産んだ。安産だった。
ガイウスと私は幾つかの候補を挙げていたけれど、その子の顔を見て、改めて話し合った。
フェラレーゼ伯爵家の跡継ぎはオリヴァーと名付けられた。
私たちは驚くほど幸せな家族になった。
子煩悩の父親と、愛して止まない二人の母親。
その幸せは、ある夜、思わぬ形で打ち砕かれることになる。
けれど思えば当然の成り行きだったのかもしれない。
生後十ヶ月を迎えたオリヴァーがすやすやと眠る、月の綺麗な夜のことだった。
「ありがとう、ヴェロニカ!」
「……」
「……」
ガイウスと無言で見つめ合う。
ガイウスは少し痩せた。顔色も悪かった。
ソレーヌがかつてそうであったように思い悩み、塞ぎ込んでいるように見えた。
それでも、ガイウスの姿を見た瞬間から勇気が湧いた。
ガイウスと目が合った瞬間、絆を思い出した。
ソレーヌは難しい女性だ。
私が身篭ったかどうかを測る期間、ガイウスと私の接触を嫌がったかもしれない。それは正しく、自然なことだ。
私はソレーヌの望みを叶えた。
でも私は、ソレーヌの望まない関係を結んだ。
あなたの愛する人を私も愛してしまった事を、あなたは知らないのね。
だから、ただ喜んで私を抱きしめるのね。
ごめんなさい……と、ソレーヌへの罪悪感が薄らいでしまったのは、お腹の中に新しい命を感じてしまった後だからだろうか。
産むのは、私だ。
興奮が冷めないソレーヌに抱きしめられたままどうすることもできず、ガイウスを見つめた。
助けてほしいとは思わなかった。彼がとる行動が、私たちの答えなのだ。
ガイウスがソレーヌの肩に手を掛けた。
「そのくらいで。大切な体だから」
「……?」
違和感を覚えた。
それを表に出さないだけの分別は残っている。
ソレーヌは笑顔で私を解放し、その笑顔をガイウスに向けた。
「心配しないで。女の体はよくできているのよ」
「ヴェロニカは初産だから」
「私も初産は死にかけた。でも、生きているわ」
「ヴェロニカはあなたより華奢だから」
「ああ、それはそうね」
過度な慎重さは否めないもののガイウスがソレーヌの説得に成功した。
単純に、冷めている。
あれほどソレーヌを愛していたはずだったのに、ガイウスは理性的であり紳士的で、余所余所しかった。
私が身篭ったから?
それだけが理由とは思えない。
二人の間に何かあったのだろうとは思うものの、私が干渉するものでもない。
「特殊な状況だから、私たちはヴェロニカの生活を守らないといけないよ」
「ええ。安心してその日を迎えて欲しいと思っているわ」
「どんな生活なら安心できるのか、本人にしかわからない。私がヴェロニカの要望を聞く間、あなたは席を外してもらえるかな」
「どうして?」
「ヴェロニカは緊張している。あなたとの関係は極めて複雑だ。私たちは、私たちが想像するよりずっと重い負担をかけていると考えた方がいい。軽く考えてはいけない」
「……」
ソレーヌの笑顔が徐々に消え去り、困惑するように私を凝視する。
「そう。そうかもしれないわ。ごめんなさい。恐がらないで。私、あなたに感謝しているのよ。ありがとう。あなたが安心して過ごせるように、あまり煩くしないように気を付けるわ」
「ありがとう」
ガイウスが私の代わりに礼を述べる。
私は努めて友好的な意思を示そうと笑みを浮かべたが、自分でも驚くほど頬が強張った。
「では、お願いね」
ソレーヌがガイウスに気遣うような目配せを残して部屋を出ていく。
扉が完全に閉まると、ガイウスが即座に動いた。
私の腕に触れて腰掛けるように促す。私はすぐ傍のベッドの端に座った。ガイウスも隣に座った。
肩が触れる。
腿が触れる。
久しぶりに感じたガイウスのぬくもりが私の中に甘い火を熾す。
「すまなかった。長く待たせすぎた」
「……」
ガイウスは先程より幾分、頬に血の気が戻り、口調も快活に近づいている。
私は少しだけ笑顔になって首を振った。
ガイウスの大きな手が私の手を包み込んだ。
「この方が安全だと思ったんだ。君を、守りたかった」
私は何も返さなかった。
たぶん、本当にガイウスは私を守りたかったのだろう。ソレーヌはガイウスを愛しているし、ガイウスの子どもを欲しがっている。私の中に宿った命を守りたいのはソレーヌも同じだ。
ただ、私はガイウスを愛してしまった。
ソレーヌが憎むなら私だけだから。
私は頷いて答えた。
事実、丁重に扱われていることに変わりはない。
ガイウスが痛みを堪えるように微かに目を細めて私を覗き込んだ。
「どう?不便はない?」
「はい」
私はやっと一言目を発した。
ガイウスの表情が和らいだ。
「君の為になんでもする。跡継ぎを産んでくれるからじゃない。私が、君を大切にしたいんだ」
「ありがとうございます」
「ヴェロニカ。君は使用人ではないんだよ」
重ねた手を私の腹部に導いて、ガイウスが深い声で囁いた。
「今、私たちは一つなんだ」
私の中に、ガイウスと私の子がいる。
その現実は悩みも苦しみも忘れさせる。
そして今、ガイウスが隣にいてくれる。
このささやかな幸せが、今、私に許されている最大の幸せだ。
私は目を閉じた。
ただ静かにこの時を過ごしたかった。
けれどガイウスは違ったようだ。
暫くは私の隣で沈黙していた。その沈黙を破ったのもまたガイウスだった。
「産まれてくる子は、男の子でも、女の子でも、私の子どもでもあるが、君の子どもだ。フェラレーゼ伯爵家の後継者として育てるが、母親は君だ。ヴェロニカ」
「──」
話が違う。
そう感じるのは私だけではないはずだ。
そして、彼女の方がその衝撃は激しく、歓迎できないものだろう。
「ガイウス……」
「親子の時間を奪うようなことにはならないと約束する」
「……」
そんなことができるのだろうか。
一瞬、婚外子なのだからと否定的な意見は思い浮かんだけれど、実際のところ私は母と二人で穏やかな暮らしを送り、振り返ればとても幸せだった。
ただ、今回、私たちにはソレーヌがいる。
彼女は丁重に、そして慎重に対応しなければならない相手だ。第一にソレーヌこそフェラレーゼ伯爵夫人であり、私は身代わりで出産する使用人として感謝されている。
この関係を崩すのは危険だ。
「ガイウス、でも」
「私の過ちに君が責任を感じる必要はない。君の権利は、奪われるべきではないから」
「過ちだったの?」
「君を愛したこと?」
どうしても見つめ合い、言葉を飲んでしまう。
私から目を逸らした。
ガイウスも足元に目を落し、穏やかに、けれどどこか爽やかに呟いた。
「君を愛するのに、相応しい順番を守らなかった。すまなかったと思っている」
悔やんでいる。
でもそれは私を愛したからではなくて、寧ろ、この愛が生まれたことは喜んでいるようだ。だから優しく微笑んでいるのだろう。
「……」
ガイウスの立場でこれほど私の状況を慮ってくれるのは、ある意味、幸運なことだ。いくら幼い頃の絆があるとはいえ身分が違う。私に跡継ぎを産ませて、捨ててもいいはずなのに。
「奥様には、どう説明するの?」
「親子の絆について理解を求めるよ。跡継ぎの件で心の重荷が下りた状態なら、冷静に受け止めてくれるだろう」
ガイウスの気持ちは嬉しいけれど、私は手放しで喜べない。
希望的観測でしかないというだけではなく、私たちは、この件でソレーヌを説得できないままに、彼女の心を裏切る形で希望を叶えてしまった。いつ彼女に裏切り者と謗られてもおかしくはない身なのだ。
少なくとも私は。
だから、お腹の子が無事に産まれるまではソレーヌを刺激したくはない。
誰に身勝手と言われても譲れない。
でも……
ソレーヌがわかってくれるのなら、この子と離れたくない。
傍で成長を見守り、言葉を交わし、触れ合い、日々を重ねていきたい。
「いちばん傷ついたのは奥様だから」
私から主張はできない。
「でも奥様はこの子を待ち望んで、愛して下さるから、それは、とても感謝すべきことですし、私にとっても、幸せなことであるはずです」
「ヴェロニカ……」
ガイウスが私を抱き寄せる。
大きな掌が頭を包む。
こつん、とガイウスと頭がぶつかる。
「……」
困ったな。
私に甘えていないで、しっかりしてほしいのに……
でも、そうやって、二人で同じ罪を受け止めて悩むことが少し嬉しく感じてしまうのは、彼と私の人生が始まったからなのだろうなと思わずにはいられない。
母には、いなかった。
でも私の人生にはガイウスがいる。
この人生を愛して生きていける。
たとえこの先、孤独や苦しみが待っているとしても。
ソレーヌの怒りが私を貫く日がくるとしても。
今はただ、誰からも望まれて産まれてくるこの子を待ち侘びて、じっとしていよう。
いつか終わると覚悟しておくべき穏やかな時間を大切に。ゆっくりと、覚悟を強くしていこう。
そんな決意をするのに、自己憐憫も驕りも必要なかった。
物心つく頃には、母を見て人生にはいろいろあるものだと納得するようになっていたから。
その後、ソレーヌの理解は比較的すぐ得られたように感じられた。
私を気遣い、負担をかけないように気を遣ってくれたという実感はある。
たまにふらりと部屋に来ることはあったものの、ノックをしてから扉の下の隙間に入室の許可を求めるカードを差し込み、私の意志を尊重して此方の気分が乗らない日は諦めてくれた。
「ああ、私たちの赤ちゃん……」
膨らんでいくお腹を、ソレーヌが愛しそうに撫でる。
「ヴェロニカ。勿論、あなたが名前を決めていいのよ?ガイウスとあなたで、どうぞ、素晴らしい名前をつけてあげて」
ソレーヌは本心からそう言っているようでもあった。
ソレーヌには言えなかったけれど、私の母は安産だったらしい。
だから私もそうだろうと思っていた。でも、だから元気な跡継ぎを産みますよとは、口が裂けても言えなかった。
覚悟したよりずっと穏やかな日々が流れていった。
ガイウスも頻繁に部屋に来て、私を気遣ってくれたり、励ましてくれたり、たまに散歩にも付き合ってくれたりと、ソレーヌの寛大さを感じずにはいられない出来事も多かった。
臨月が近づくと、ソレーヌは私より必死な様子で子どもが無事に産まれてくるよう祈っていた。断食までしていたらしい。
ソレーヌの真剣さが少し恐かった。
けれど、ある種の安心感を私は覚えた。
万が一、私がお産で命を落としても、ソレーヌがいればこの子は守ってもらえる。愛してもらえる。寂しくない。
そして当日。
初めての出産で取り乱したガイウスより、ある意味ソレーヌの方が頼りになるとまで感じた。
主治医の介助のもと、私は待望の男の子を産んだ。安産だった。
ガイウスと私は幾つかの候補を挙げていたけれど、その子の顔を見て、改めて話し合った。
フェラレーゼ伯爵家の跡継ぎはオリヴァーと名付けられた。
私たちは驚くほど幸せな家族になった。
子煩悩の父親と、愛して止まない二人の母親。
その幸せは、ある夜、思わぬ形で打ち砕かれることになる。
けれど思えば当然の成り行きだったのかもしれない。
生後十ヶ月を迎えたオリヴァーがすやすやと眠る、月の綺麗な夜のことだった。
336
お気に入りに追加
859
あなたにおすすめの小説
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、マリアは片田舎で遠いため、会ったことはなかった。でもある時、マリアは、妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは、結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
自業自得って言葉、知ってますか? 私をいじめていたのはあなたですよね?
長岡更紗
恋愛
庶民聖女の私をいじめてくる、貴族聖女のニコレット。
王子の婚約者を決める舞踏会に出ると、
「卑しい庶民聖女ね。王子妃になりたいがためにそのドレスも盗んできたそうじゃないの」
あることないこと言われて、我慢の限界!
絶対にあなたなんかに王子様は渡さない!
これは一生懸命生きる人が報われ、悪さをする人は報いを受ける、勧善懲悪のシンデレラストーリー!
*旧タイトルは『灰かぶり聖女は冷徹王子のお気に入り 〜自業自得って言葉、知ってますか? 私をいじめていたのは公爵令嬢、あなたですよ〜』です。
*小説家になろうでも掲載しています。
戦いから帰ってきた騎士なら、愛人を持ってもいいとでも?
新野乃花(大舟)
恋愛
健気に、一途に、戦いに向かった騎士であるトリガーの事を待ち続けていたフローラル。彼女はトリガーの婚約者として、この上ないほどの思いを抱きながらその帰りを願っていた。そしてそんなある日の事、戦いを終えたトリガーはフローラルのもとに帰還する。その時、その隣に親密そうな関係の一人の女性を伴って…。
一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。
木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」
結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。
彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。
身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。
こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。
マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。
「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」
一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。
それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。
それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。
夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。
捨てた私をもう一度拾うおつもりですか?
ミィタソ
恋愛
「みんな聞いてくれ! 今日をもって、エルザ・ローグアシュタルとの婚約を破棄する! そして、その妹——アイリス・ローグアシュタルと正式に婚約することを決めた! 今日という祝いの日に、みんなに伝えることができ、嬉しく思う……」
ローグアシュタル公爵家の長女――エルザは、マクーン・ザルカンド王子の誕生日記念パーティーで婚約破棄を言い渡される。
それどころか、王子の横には舌を出して笑うエルザの妹――アイリスの姿が。
傷心を癒すため、父親の勧めで隣国へ行くのだが……
家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。
【完結】「政略結婚ですのでお構いなく!」
仙桜可律
恋愛
文官の妹が王子に見初められたことで、派閥間の勢力図が変わった。
「で、政略結婚って言われましてもお父様……」
優秀な兄と妹に挟まれて、何事もほどほどにこなしてきたミランダ。代々優秀な文官を輩出してきたシューゼル伯爵家は良縁に恵まれるそうだ。
適齢期になったら適当に釣り合う方と適当にお付き合いをして適当な時期に結婚したいと思っていた。
それなのに代々武官の家柄で有名なリッキー家と結婚だなんて。
のんびりに見えて豪胆な令嬢と
体力系にしか自信がないワンコ令息
24.4.87 本編完結
以降不定期で番外編予定
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる