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22(サヘル)
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「よよちくおニェあいちまチュ」
「……!」
シンシアが真顔で頭を下げる。
ああ、なんて可愛いんだ!
併し何故、戻った?
どういう心境の変化があったのだろうか。シンシアは素晴らしく堂々と包み隠さず拙い発音で俺に話しかけてくる。
未だかつてこれほどまでに俺が夜を明かす控室が虹色か何かそれに近い色で光り輝いたことがあっただろうか否ない。
「さへゆしゃま」
「……っ」
たまらなぁーいッ!!
「さへゆしゃま。おてしゅーおかけちて、もうちわけあいまちぇん」
「い、いいんだ……!」
「どぶちて」
「え?」
「どぶちて」
「……え?」
あ、どうして?
「おお、なんでも聞いてくれ」
「どぶちてうまくちゃべえニャいんでちょぅ。ニャにがもんぢゃいニャんじぇちょぅ」
「……」
俺は自らを過信していた。
覚悟を決めたシンシアは破壊力を増していた。
俺はシンシアの可愛さに悶絶してしまい助言どころの騒ぎではない。心のままに悶え散らかし陶酔に浸りたい。
いっそこのまま……
「!」
いかん。
邪念に負けるところだった。
俺は気を取り直し、シンシアと文字通り正面から真剣に向き合った。
「くちぉあけやす」
シンシアが真顔で、顎の限界値に挑戦する。
美しい白い歯と可愛らしい赤い舌──おお、これが問題の舌か──そして奥の細い喉まで見渡せる。
俺は何をしている?
「うむ。美しい歯並びだが、前方に向けてやや狭いかもしれんな」
俺は何を言っている?
本気でそう思っているのか?
「前歯を大事にしよう」
シンシアの余りの可愛さに俺は適当なことを言ってしまった自らを恥じた。
シンシアが口を閉じる。
「シンシア」
「ひゃい」
「改めて言っておくが、そなたの文法と語彙は大したものだ。そこは誇っていい」
「あぃやちょうごじゃいまチュ」
「それで、だ。単語に明るいそなたに打ってつけの良い訓練法を準備した」
「くんぃえん」
「聞いてくれ」
俺はシンシアの肩に手を置き、真剣に見つめ合い、気合を入れて早口でそれを発した。
「ラムル提督の報告書ロムニゲ河氾濫で領民は混乱!」
「──!」
「書庫消火失敗の失態で司書失脚!」
「──!」
「宮殿の燭台に少々緑青ご覧になられて至急新調ルラリハさん!」
「──!」
「さあ、好きなのを早口で三回言ってみろ!」
シンシアは目を瞠り硬直している。
「簡単そうなのしか思いつかなかったが、不服か?」
「いぇ……むじゅかちしゅぎチェ……」
俺はシンシアの肩に置いた手に力を込めて励まし、凝然と宙を見つめる視線をこちらも本気の眼差しで絡め取ると、今度は早口ではなくゆっくりとはっきり言ってみた。これでもかと噛み締めるように。
「司祭失踪中、司祭失踪中、司祭失踪中」
「しちゃい……っ」
「大丈夫だ、シンシア。乗り越えられる」
「ちちゃ」
いかん。
このままでは、訓練を始める前にシンシアの心を砕いてしまう。
俺はシンシアが比較的正確に発音しているカ行を用いた早口言葉を大急ぎで考えてみた。
これも、目を見てはっきり言ってやる。
「灌漑宦官の勘違い」
「……かんがい、かん、がん、の、か、んちが……ぃ」
「はあっ!よしっ!言えたじゃないか!!」
「……!」
シンシアの瞳に希望の光が蘇ってくる。
「いいぞ、シンシア。まずは灌漑宦官の勘違いを三回言ってみよう!最初はゆっくり、徐々に早くしていけばいいんだ!」
「かんがい宦官のかん違い、灌漑宦官のかんちぎゃい、かんぎゃいきゃんぎゃんニョぎゃんぴぎゃい!あ゛ぁッ!!」
シンシアが細い腕を振り上げたかと思うと両拳を床に打ち付け嘆いた。
「なぜじゃっ!どぼちてじゃ!!」
「挫けてはならぬ、シンシア!というか、そっちの方が発音し易いのか!?」
「そうじゃ!」
「なぜじゃあっ!」
いかん、俺まで。
平常心を保たなくてはならない。シンシアを導けるのは、俺しかいない。というか他の誰かにこの役を譲ってなるものかというのが本心だが、そんなことは今どうでもいい。
「ソンスア!否、シンソア!あぁあぁあぁシンシア!」
「さへゆしゃま!……さへゆしゃま、あたちのチタが、チタがぁ……っ」
「気にしすぎてはならぬ。苦手意識がそなたの舌を委縮させているのかもしれぬ。只ならぬ様相になっている」
「うっ、うぅ……」
「いっそ舌などないと思ってみてはどうだ?」
俺が言うとシンシアがついに聞いたこともない未知の言語を耳にしたかのように、若干の虚無を漂わせた瞳で宙を見据えた。
よかった。
形はどうあれシンシアが落ち着きを取り戻したようだ。
「強ち思い付きと言うわけではない。舌などないのだ。ない舌は絡まぬ。もたつきようがない!ないのだから、当然だ。シンシア。人間は喉で喋る。我々は喉で喋るのだ」
人形のようなぎこちない動作でシンシアが俺に顔を向けた。
そして抜け殻のような無表情で無感情な声をなめらかに紡いだ。
「宮殿の燭台に少々緑青など宦官の勘違いですルラリハさん。書庫消火失敗の失態はラムル提督に報告済。ロムニゲ河氾濫と灌漑で壊滅、司祭失踪中」
「シンシア……!」
「司祭失踪中。司祭失踪中。失踪司祭司書発見中!」
こうしてシンシアは覚醒した。
明けない夜はない。
「……!」
シンシアが真顔で頭を下げる。
ああ、なんて可愛いんだ!
併し何故、戻った?
どういう心境の変化があったのだろうか。シンシアは素晴らしく堂々と包み隠さず拙い発音で俺に話しかけてくる。
未だかつてこれほどまでに俺が夜を明かす控室が虹色か何かそれに近い色で光り輝いたことがあっただろうか否ない。
「さへゆしゃま」
「……っ」
たまらなぁーいッ!!
「さへゆしゃま。おてしゅーおかけちて、もうちわけあいまちぇん」
「い、いいんだ……!」
「どぶちて」
「え?」
「どぶちて」
「……え?」
あ、どうして?
「おお、なんでも聞いてくれ」
「どぶちてうまくちゃべえニャいんでちょぅ。ニャにがもんぢゃいニャんじぇちょぅ」
「……」
俺は自らを過信していた。
覚悟を決めたシンシアは破壊力を増していた。
俺はシンシアの可愛さに悶絶してしまい助言どころの騒ぎではない。心のままに悶え散らかし陶酔に浸りたい。
いっそこのまま……
「!」
いかん。
邪念に負けるところだった。
俺は気を取り直し、シンシアと文字通り正面から真剣に向き合った。
「くちぉあけやす」
シンシアが真顔で、顎の限界値に挑戦する。
美しい白い歯と可愛らしい赤い舌──おお、これが問題の舌か──そして奥の細い喉まで見渡せる。
俺は何をしている?
「うむ。美しい歯並びだが、前方に向けてやや狭いかもしれんな」
俺は何を言っている?
本気でそう思っているのか?
「前歯を大事にしよう」
シンシアの余りの可愛さに俺は適当なことを言ってしまった自らを恥じた。
シンシアが口を閉じる。
「シンシア」
「ひゃい」
「改めて言っておくが、そなたの文法と語彙は大したものだ。そこは誇っていい」
「あぃやちょうごじゃいまチュ」
「それで、だ。単語に明るいそなたに打ってつけの良い訓練法を準備した」
「くんぃえん」
「聞いてくれ」
俺はシンシアの肩に手を置き、真剣に見つめ合い、気合を入れて早口でそれを発した。
「ラムル提督の報告書ロムニゲ河氾濫で領民は混乱!」
「──!」
「書庫消火失敗の失態で司書失脚!」
「──!」
「宮殿の燭台に少々緑青ご覧になられて至急新調ルラリハさん!」
「──!」
「さあ、好きなのを早口で三回言ってみろ!」
シンシアは目を瞠り硬直している。
「簡単そうなのしか思いつかなかったが、不服か?」
「いぇ……むじゅかちしゅぎチェ……」
俺はシンシアの肩に置いた手に力を込めて励まし、凝然と宙を見つめる視線をこちらも本気の眼差しで絡め取ると、今度は早口ではなくゆっくりとはっきり言ってみた。これでもかと噛み締めるように。
「司祭失踪中、司祭失踪中、司祭失踪中」
「しちゃい……っ」
「大丈夫だ、シンシア。乗り越えられる」
「ちちゃ」
いかん。
このままでは、訓練を始める前にシンシアの心を砕いてしまう。
俺はシンシアが比較的正確に発音しているカ行を用いた早口言葉を大急ぎで考えてみた。
これも、目を見てはっきり言ってやる。
「灌漑宦官の勘違い」
「……かんがい、かん、がん、の、か、んちが……ぃ」
「はあっ!よしっ!言えたじゃないか!!」
「……!」
シンシアの瞳に希望の光が蘇ってくる。
「いいぞ、シンシア。まずは灌漑宦官の勘違いを三回言ってみよう!最初はゆっくり、徐々に早くしていけばいいんだ!」
「かんがい宦官のかん違い、灌漑宦官のかんちぎゃい、かんぎゃいきゃんぎゃんニョぎゃんぴぎゃい!あ゛ぁッ!!」
シンシアが細い腕を振り上げたかと思うと両拳を床に打ち付け嘆いた。
「なぜじゃっ!どぼちてじゃ!!」
「挫けてはならぬ、シンシア!というか、そっちの方が発音し易いのか!?」
「そうじゃ!」
「なぜじゃあっ!」
いかん、俺まで。
平常心を保たなくてはならない。シンシアを導けるのは、俺しかいない。というか他の誰かにこの役を譲ってなるものかというのが本心だが、そんなことは今どうでもいい。
「ソンスア!否、シンソア!あぁあぁあぁシンシア!」
「さへゆしゃま!……さへゆしゃま、あたちのチタが、チタがぁ……っ」
「気にしすぎてはならぬ。苦手意識がそなたの舌を委縮させているのかもしれぬ。只ならぬ様相になっている」
「うっ、うぅ……」
「いっそ舌などないと思ってみてはどうだ?」
俺が言うとシンシアがついに聞いたこともない未知の言語を耳にしたかのように、若干の虚無を漂わせた瞳で宙を見据えた。
よかった。
形はどうあれシンシアが落ち着きを取り戻したようだ。
「強ち思い付きと言うわけではない。舌などないのだ。ない舌は絡まぬ。もたつきようがない!ないのだから、当然だ。シンシア。人間は喉で喋る。我々は喉で喋るのだ」
人形のようなぎこちない動作でシンシアが俺に顔を向けた。
そして抜け殻のような無表情で無感情な声をなめらかに紡いだ。
「宮殿の燭台に少々緑青など宦官の勘違いですルラリハさん。書庫消火失敗の失態はラムル提督に報告済。ロムニゲ河氾濫と灌漑で壊滅、司祭失踪中」
「シンシア……!」
「司祭失踪中。司祭失踪中。失踪司祭司書発見中!」
こうしてシンシアは覚醒した。
明けない夜はない。
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