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9(パトリック)
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午前の執務を済ませ食堂に足を踏み入れると、既にテーブルに着いた妻リリアナが酒を呷っているところだった。
私は重く沈む心を戒め、静かに席に着いた。
リリアナは昼食だと理解しているのだろうか。既に空けた酒瓶が4本あり、内1本は倒れている。
「リリアナ」
妻に声を掛ける。
ドンと激しい音を立てながら、リリアナは中身の減った酒瓶をテーブルに置いた。
「あら、パトリック。ごきげんよう」
泣き濡れた顔で挑発的に笑う妻リリアナ。
妻は、宮廷で披露された喜歌劇の内容を知って以来、酒に溺れてしまった。
その頃から私は言い知れぬ違和感に苛まれている。
──笑い者にされたのよ!どうしてなんとかしてくれないの!?
愛を貫いて結婚したはずの私たちだったが、周囲からの非難は激しかった。
野蛮で冷酷な家族に虐げられ続けていたリリアナを救い出し、英雄になったと思っていた。併し、誰からの同意も得られない。同意を得られないどころか、我々への非難に比例してリリアナを捨てたはずの宮廷騎士への賞賛も膨れ上がっていった。
──皆して私を苛めるのよ!ずっとそう!!
リリアナはけたたましく泣いた。
周囲のものを手当たり次第にあちこちへ投げつけながら、髪を掻き毟って泣き喚いた。
──結婚しても変わらない!誰も私を大切にしてくれない!!
私は次第に、リリアナの本性に気づき始めたような気がした。併し、認めたくなかった。
──あなたは騙されているのではなくて?
優しいシンシアの問いかけが蘇る。
──パトリック!ねえ、パトリック!!私を守ってよ!私の夫でしょう!?ちゃんと守ってよ!!
繰り返されるリリアナの怒号が私の美しい思い出を掻き消した。
妻は今、目の前で酒の臭いを撒き散らし、振り乱した髪を噛みながら、酒に淀んだ瞳で私を凝視している。
「なぁに?飲んでるのが気に入らないの?だって、しょうがないでしょう?あなたはなんにもしてくれないんだもの。私が馬鹿にされて、こんなに苛められているのに……」
──私と領地どっちが大事なの!?
「ほったらかしでお仕事ばっかり。どうして……?ねえ、どうしてなの?私を愛してないの?パトリック。私を愛していると言ってくれたのは嘘だったの?」
妻が酒瓶を揺らしながら泣き始めた。
酒を呷る間は泣き休んでいたと言った方が正確かもしれない。
「あなたは私の味方だったはずでしょう?何よ……まさか、あなたまでビビアンを選ぶって言うの?」
「違うよ」
「嘘!宮廷でお芝居になってビビアンが持て囃されているから!?ねえ、そうなんでしょう!?ビビアンの方がよくなったんだわ!だから私が苛められてても助けようとしてくれないのよ!」
こうなってはもう、どうしようもない。
「笑い者にされたのよ!どうしてなんとかしてくれないの!?」
「落ち着いてくれ」
「ずっとシンシアに未練があるのかと思っていたけど、違う。ビビアンね。ビビアンがまた私の愛する人を奪って行ったんだわ!」
「違うよ、リリアナ」
「それじゃあどうして私に優しくしてくれないのよ!!ああっ、どうしてなの!?なんで誰も私を正しく愛してくれないのよぉッ!!」
「!」
空の酒瓶が飛んで来て、私は咄嗟にそれを避けた。背後で硝子の砕ける音がした。
「おい!危ないじゃないか!」
さすがに声を荒げるが、リリアナは聞いてもいない。酔って赤く染まった喉を晒し、ぐびぐびと酒を呷っている。
「……」
見る見る内に瓶の中の酒が減っていき、数秒で空になった。
「ぶはあっ」
酒瓶を置かず此方へ投げつけてくるかもしれないと身構える。
「ふっ、ふふふ」
笑いだした。
投げてはこないらしい。
「ちょっと!お酒は!?さっさと持ってきなさいよ!!」
空になった瓶を投げはしなかったが、テーブルに底を叩きつけ続けながら使用人を恫喝している。
「あんたたち何様のつもり!?私はラムリー伯爵夫人よ!あんたたちの御主人様よ!?わかってんの!?」
「お、奥様……」
使用人たちは戸惑いながら私に目で指示を仰いだ。
私は短く首を振り、これ以上リリアナに酒を与えないよう命じる。
「ねえ、なんで突っ立ってるの!?私に逆らうつもり!?誰のおかげでラムリー伯爵家に仕えていられると思ってるの!?無礼者!!クビよ!あんたなんかクビ!!」
無論、妄言だ。
リリアナにそんな権利はない。
私は安心するように伝え使用人を下がらせた。
「パトリック、なんとかして!ねえ、どうして何も言ってくれないの!?なんでそんな目で私を見るのよぅ!王国中に馬鹿にされて、使用人にも相手にされない……ねえ、パトリック。もう私にはあなたしかいないの。愛してよ。私を愛して。ビビアンなんか選ばないで。私にしてよぉ……っ」
泣いている。
出会ったあの日のように、さめざめと泣いている。
悲しく、痛々しく、世界中の誰よりもか弱い存在であるかのように。
──あなたは騙されているのではなくて?
ああ、そうか。
家族に苛められているというのは、嘘だったのだ。やっと認められた。
リリアナは自分こそが被害者だと思い込んでいるのかもしれないが、激しすぎる自己愛がそうさせるのだろう。
「パトリック、聞いてる!?ねえ、無視しないで!!」
「……」
うんざりだ。
限界だった。
「パトリック!!」
リリアナが私を呼び詰る。
毎日、毎日……泣いて、泣いて、泣いて、私に罪悪感を抱かせようとする。私を責め続ける。
リリアナの理想通りに愛さないのは、暴力であり、罪だと。
「……もう、やめてくれ……」
シンシア。
君との結婚生活なら、こうはならなかったはずだ。
互いに認めあい、励ましあい、支えあい、尊重しあいながら各々の務めに邁進したはずだ。それを讃えあったはずだ。
幸せになったはずだった。
私が愚かだったのだ。
「パトリック!こっち見なさい!見ろって言ってるんだよ裏切り者ぉッ!!」
シンシア……君に、会いたいよ。
私は重く沈む心を戒め、静かに席に着いた。
リリアナは昼食だと理解しているのだろうか。既に空けた酒瓶が4本あり、内1本は倒れている。
「リリアナ」
妻に声を掛ける。
ドンと激しい音を立てながら、リリアナは中身の減った酒瓶をテーブルに置いた。
「あら、パトリック。ごきげんよう」
泣き濡れた顔で挑発的に笑う妻リリアナ。
妻は、宮廷で披露された喜歌劇の内容を知って以来、酒に溺れてしまった。
その頃から私は言い知れぬ違和感に苛まれている。
──笑い者にされたのよ!どうしてなんとかしてくれないの!?
愛を貫いて結婚したはずの私たちだったが、周囲からの非難は激しかった。
野蛮で冷酷な家族に虐げられ続けていたリリアナを救い出し、英雄になったと思っていた。併し、誰からの同意も得られない。同意を得られないどころか、我々への非難に比例してリリアナを捨てたはずの宮廷騎士への賞賛も膨れ上がっていった。
──皆して私を苛めるのよ!ずっとそう!!
リリアナはけたたましく泣いた。
周囲のものを手当たり次第にあちこちへ投げつけながら、髪を掻き毟って泣き喚いた。
──結婚しても変わらない!誰も私を大切にしてくれない!!
私は次第に、リリアナの本性に気づき始めたような気がした。併し、認めたくなかった。
──あなたは騙されているのではなくて?
優しいシンシアの問いかけが蘇る。
──パトリック!ねえ、パトリック!!私を守ってよ!私の夫でしょう!?ちゃんと守ってよ!!
繰り返されるリリアナの怒号が私の美しい思い出を掻き消した。
妻は今、目の前で酒の臭いを撒き散らし、振り乱した髪を噛みながら、酒に淀んだ瞳で私を凝視している。
「なぁに?飲んでるのが気に入らないの?だって、しょうがないでしょう?あなたはなんにもしてくれないんだもの。私が馬鹿にされて、こんなに苛められているのに……」
──私と領地どっちが大事なの!?
「ほったらかしでお仕事ばっかり。どうして……?ねえ、どうしてなの?私を愛してないの?パトリック。私を愛していると言ってくれたのは嘘だったの?」
妻が酒瓶を揺らしながら泣き始めた。
酒を呷る間は泣き休んでいたと言った方が正確かもしれない。
「あなたは私の味方だったはずでしょう?何よ……まさか、あなたまでビビアンを選ぶって言うの?」
「違うよ」
「嘘!宮廷でお芝居になってビビアンが持て囃されているから!?ねえ、そうなんでしょう!?ビビアンの方がよくなったんだわ!だから私が苛められてても助けようとしてくれないのよ!」
こうなってはもう、どうしようもない。
「笑い者にされたのよ!どうしてなんとかしてくれないの!?」
「落ち着いてくれ」
「ずっとシンシアに未練があるのかと思っていたけど、違う。ビビアンね。ビビアンがまた私の愛する人を奪って行ったんだわ!」
「違うよ、リリアナ」
「それじゃあどうして私に優しくしてくれないのよ!!ああっ、どうしてなの!?なんで誰も私を正しく愛してくれないのよぉッ!!」
「!」
空の酒瓶が飛んで来て、私は咄嗟にそれを避けた。背後で硝子の砕ける音がした。
「おい!危ないじゃないか!」
さすがに声を荒げるが、リリアナは聞いてもいない。酔って赤く染まった喉を晒し、ぐびぐびと酒を呷っている。
「……」
見る見る内に瓶の中の酒が減っていき、数秒で空になった。
「ぶはあっ」
酒瓶を置かず此方へ投げつけてくるかもしれないと身構える。
「ふっ、ふふふ」
笑いだした。
投げてはこないらしい。
「ちょっと!お酒は!?さっさと持ってきなさいよ!!」
空になった瓶を投げはしなかったが、テーブルに底を叩きつけ続けながら使用人を恫喝している。
「あんたたち何様のつもり!?私はラムリー伯爵夫人よ!あんたたちの御主人様よ!?わかってんの!?」
「お、奥様……」
使用人たちは戸惑いながら私に目で指示を仰いだ。
私は短く首を振り、これ以上リリアナに酒を与えないよう命じる。
「ねえ、なんで突っ立ってるの!?私に逆らうつもり!?誰のおかげでラムリー伯爵家に仕えていられると思ってるの!?無礼者!!クビよ!あんたなんかクビ!!」
無論、妄言だ。
リリアナにそんな権利はない。
私は安心するように伝え使用人を下がらせた。
「パトリック、なんとかして!ねえ、どうして何も言ってくれないの!?なんでそんな目で私を見るのよぅ!王国中に馬鹿にされて、使用人にも相手にされない……ねえ、パトリック。もう私にはあなたしかいないの。愛してよ。私を愛して。ビビアンなんか選ばないで。私にしてよぉ……っ」
泣いている。
出会ったあの日のように、さめざめと泣いている。
悲しく、痛々しく、世界中の誰よりもか弱い存在であるかのように。
──あなたは騙されているのではなくて?
ああ、そうか。
家族に苛められているというのは、嘘だったのだ。やっと認められた。
リリアナは自分こそが被害者だと思い込んでいるのかもしれないが、激しすぎる自己愛がそうさせるのだろう。
「パトリック、聞いてる!?ねえ、無視しないで!!」
「……」
うんざりだ。
限界だった。
「パトリック!!」
リリアナが私を呼び詰る。
毎日、毎日……泣いて、泣いて、泣いて、私に罪悪感を抱かせようとする。私を責め続ける。
リリアナの理想通りに愛さないのは、暴力であり、罪だと。
「……もう、やめてくれ……」
シンシア。
君との結婚生活なら、こうはならなかったはずだ。
互いに認めあい、励ましあい、支えあい、尊重しあいながら各々の務めに邁進したはずだ。それを讃えあったはずだ。
幸せになったはずだった。
私が愚かだったのだ。
「パトリック!こっち見なさい!見ろって言ってるんだよ裏切り者ぉッ!!」
シンシア……君に、会いたいよ。
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