短編小説集

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ソノ本、禁忌ニテ【後編】

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 閉館して、どのくらい経っただろうか。次第に雨足は強くなり、館内の暗さも増した。人々は寝静った深夜、誰も儀式には気付かない。

「……じゃあ、始めるぞ」
「良いよ、罪悪感なんていらないから」

 静希は、敷いた大きな黒い紙の上に横たわった。これは私の所有物だ。いつでもどこでも方法を試せるよう、その類の物は常に持ち歩いている。紙は、基本的な道具だ。

 ――用意は出来た。あとは、血を流せば良い。そうすれば、ナオはこの世に戻ってくる。

 儀式に疑いはなかった。復活を心の底から信じられた。

 体が死ぬと魂も死ぬ。そう思っている人間には阿呆らしく見えるのだろう。しかし、魂は生き続けると信じている私たちにとっては、その概念こそが信じがたいのだ。

 戻って来る為の体がある。命を削ってまで流す血がある。それに、ナオを思う愛もここにはある。
 戻る為の条件は、揃っていると思える。

 傷だらけの腕に、刃を宛てた。力を込めると、血が流れ出した。僅かな皺が、痛みにより眉間に寄せられる。

 チカチカと懐中電灯の光が揺れ、明かりが消えた。ここで電池切れを起こすとは、運が悪い。
 代わりにとスマートフォンに手を伸ばすと、その手を静希が声で止めた。

「…………そのまま続けて。見なくていいから。ナオに会うんでしょ。本当に駄目なら僕から止める。だから」
「……分かった」

 強く、心が重なった気がした。ナオを呼び戻したいとの願いが一層高まり、同時に遂行の決意も強まった。

 ――絶対に、途中で終われない。私は迫られるような何かを、背中で感じていた。



 しかし、現実は甘くない。何度か呪術を試している私にとって、進行の滞りは予想外ではなかった。

 だが、それでも焦りは生まれてくる。けれども、諦める理由は生まれず、絶対に成功するとの意思は変わらなかった。
 恐らくは、まだ規定の量に血が達していないだけだ。

「静希、まだいけるか……?」

 正直な話、私は流血量を把握していない。どのくらい深い傷を与えているのかも、どのように傷がついているのかすら見えていない。

 それが、焦りの一つになっている自覚はある。しかし、ここまで来て止められないし、第一本人が大丈夫だといっているのだ。止める理由がない。

「…………大丈夫、やって。ここで止まったらナオに会えないよ……」

 雨がどんどん強くなってゆく。比例して、声も聞きづらくなってゆく。時間が分からない。早く済ませなければ、朝になり職員が来てしまう。

 確信とは裏腹に、妙な圧迫感が圧し掛かって来ていた。体にか心にか、よく分からない何かに襲われている。でも。

 ナオが復活すれば――静希の体ででもナオが復活すれば、きっと皆喜んでくれるはずだ。痛みと戦った静希も報われるだろう。

 だから、もう少し、もう少しの辛抱だ――。



「…………来てるような……気がする……」

 何度目かの確認で、静希が囁いた。語調は弱かったが、不思議と鮮明に聞こえた。
 雨は強い。どこからか、雷の音までし始めている。

 あと少しなのだと、感覚が告げた。始めてから、ずっと背中に張り付いている何かが――重々しい何かが軽くなり始めている事に気付いた。

 もしかしたら、ナオが場所を間違えていたのかもしれない。

「……もう少しなんだな。ナオに伝えたい事はあるか?」
「………………そう、だね。だったら――――」

 鳴り響いた雷の音が、小さな声を掻き消した。

「何だって? もう一度言ってくれ」

 次第に大きくなってゆく轟音が、息遣いさえ隠してゆく。その内、自分の発声すら聞こえなくなった。

「すまない静希、聞こえないよ――」

 瞬間、落雷による閃光が館内を照らした。



「…………静希? ナオ?」

 目の前には、衝撃的な光景が広がっていた。夢から覚めたかのように、我に返っている自分がいる。焼きついた光景が、暗闇に投影された。

 抜けかけた圧迫感は、無くなる前より重くなり、体が押し潰されそうなほどにまでなっていた。

 雷雲が近いのだろう。再び閃光が放たれ、同じ光景を見た。まるで、答え合わせのようだった。

 傷だらけの静希がいて、黒い紙から染み出した血液が海の如く広がっている――。

 手から、ナイフが滑り落ちた。一気に暗くなった世界の中、恐る恐る静希に近付く。

 触れた頬は、氷のように冷たかった。

「……っ!」

 受け容れがたい現実に触れ、圧迫感が心を押し潰した。もはや飲み込まれてしまったかのように、何も考えられない。

「ナオ! ナオ! 君が戻って来てくれないと! ここに体はあるんだ! 静希が用意してくれて……! なぁ、ナオ! 居るんだろ!? ナオ……!」

 魂はあるのに、来てくれないのはなぜか。このまま来てくれなかったら静希は――。

 私は、どうなるのか。



 呼び続けたものの、ナオは戻らなかった。代わりに、朝日が夜明けを連れて来る。雨は、上がり始めていた。

 目の前には、悲惨な現実しかなかった。更に広がった血の海は、周辺のカーペットを濡らし、染めている。ナイフは、静希の胸に刺さっていた。

 まるで、別世界を見ているかのようだった。ぼんやりとしていて、今にも消えてしまいそうだ。

 いや、消えてしまえばいい。何もかもなくなってしまったのなら、夢だったかのように消してしまえばいい。
 いいや、消してしまわなければならない。

 私は半ば無意識にリュックを開いた。中には、怪しげな道具や小物が数多く詰まっている。

 その中から取り出したのは、小さな箱だった。古めかしいパッケージには、可愛らしい絵がある。

 中には、マッチ棒が詰まっていた。私は、その一本に火を点け――投げた。



 禁忌の本は、呆気なく焦げていった。その瞬間に、何の力も持たない本だったのだと気付いた――気がした。

 初めて、馬鹿な事をしたと感じた。後悔した。
 死者は現世に戻れないのかもしれないと、初めて思った。今になって、思った。

 きっと、死した後も二人には会えないだろう。二人は天国へ行き、私は違う場所へ行くだろうから。

 燃え盛る業火は、永遠に私を焼くだろう。
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