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第十章昴々渓・チチハル
第十章第三十一節(左目)
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三十一
英国オブザーバーが報告した通り、第二師団は市内の要地に警備の兵を置いたが、城内には“駐屯”していない。彼らが宿営地に選んだのは、市の郊外にある兵舎「南大営」だった。
よく「日本軍は口実を設けてチチハルに居座った」と言う論者を見かけるが、黒龍江軍は撤退に際して一般市民の住宅を荒らしたばかりでなく、自分たちの兵舎も散々に破壊して去った。
零下三十度を下回る極寒の地にあって、暖房装置は壊され、窓も破られ、柱と屋根ばかりになった建物の中でなど、とても過ごせるものではない。
そのような批判は書物の上から見た文字のみを根拠に理屈を立てる者の言うことだ。
「馬占山をチチハルから追い払う」という所期の目的を達した第二師団にしてみれば、一刻も早くこんな地から立ち去りたいというのが本音であった。撤退に要する鉄道車両の手配に手間取ったため、十日間もここに留め置かれたのはむしろ憐れと言うべきである。
軍隊ですらそのような環境にあったのだから、とくに現地につてのない民間人の洸三郎や石川においてをや--である。
戦争や災害に瀕してすぐさま避難できる住民と言うのは、政治家とか官僚、医者、実業家など“力”と“カネ”のある人々だ。逆に言えば残された人々は逃げる余力も宛てもない貧民たちと言うことになる。
だから石川と洸三郎が宿を探してほうぼう尋ね歩いても、彼らを受け入れてくれる場所などなかった。結局、主人が引き揚げ空き家となった朝日旅館へ転がり込むことにした。
チチハルの空き家はことごとく馬占山軍の掠奪に遭ったが、ここも例外ではなかった。窓ガラスは破れ、門戸も破壊されて風がヒューヒュー入って来る。もちろん暖を取る術などない。
そこで二人は軍隊から借りた毛布にくるまったまま、どうにか寒気に堪えた。
チチハル入城の前日、夕方あたりから洸三郎は左目に違和感を覚えた。きっとゴミが入ったのだろうと時々目をこすったが、それがそのうち痛み出した。夜になると痛くてこすれなくなった。
その左の目が、いよいよ腫れてきた。
それもそうだが、“チチハル一番乗り”は果たしたとは言うもののせっかく手にした特ダネをどうやって支局へ届けたものやら--。
一番乗りの高揚感などすっかり失せて、廃屋同然となった旅館跡の中で毛布にくるまりガタガタ震え、手許の原稿を持て余している--。
嫩江のときは、たまたま奉天へ戻る石原中佐の飛行機に便乗させてもらったが、そう何度も幸運に恵まれる訳でもあるまい。鮮魚が腐っていくのをなすすべもなく見るように、あせていく原稿を懐にしたまま、じっと唇を噛んでいた。
英国オブザーバーが報告した通り、第二師団は市内の要地に警備の兵を置いたが、城内には“駐屯”していない。彼らが宿営地に選んだのは、市の郊外にある兵舎「南大営」だった。
よく「日本軍は口実を設けてチチハルに居座った」と言う論者を見かけるが、黒龍江軍は撤退に際して一般市民の住宅を荒らしたばかりでなく、自分たちの兵舎も散々に破壊して去った。
零下三十度を下回る極寒の地にあって、暖房装置は壊され、窓も破られ、柱と屋根ばかりになった建物の中でなど、とても過ごせるものではない。
そのような批判は書物の上から見た文字のみを根拠に理屈を立てる者の言うことだ。
「馬占山をチチハルから追い払う」という所期の目的を達した第二師団にしてみれば、一刻も早くこんな地から立ち去りたいというのが本音であった。撤退に要する鉄道車両の手配に手間取ったため、十日間もここに留め置かれたのはむしろ憐れと言うべきである。
軍隊ですらそのような環境にあったのだから、とくに現地につてのない民間人の洸三郎や石川においてをや--である。
戦争や災害に瀕してすぐさま避難できる住民と言うのは、政治家とか官僚、医者、実業家など“力”と“カネ”のある人々だ。逆に言えば残された人々は逃げる余力も宛てもない貧民たちと言うことになる。
だから石川と洸三郎が宿を探してほうぼう尋ね歩いても、彼らを受け入れてくれる場所などなかった。結局、主人が引き揚げ空き家となった朝日旅館へ転がり込むことにした。
チチハルの空き家はことごとく馬占山軍の掠奪に遭ったが、ここも例外ではなかった。窓ガラスは破れ、門戸も破壊されて風がヒューヒュー入って来る。もちろん暖を取る術などない。
そこで二人は軍隊から借りた毛布にくるまったまま、どうにか寒気に堪えた。
チチハル入城の前日、夕方あたりから洸三郎は左目に違和感を覚えた。きっとゴミが入ったのだろうと時々目をこすったが、それがそのうち痛み出した。夜になると痛くてこすれなくなった。
その左の目が、いよいよ腫れてきた。
それもそうだが、“チチハル一番乗り”は果たしたとは言うもののせっかく手にした特ダネをどうやって支局へ届けたものやら--。
一番乗りの高揚感などすっかり失せて、廃屋同然となった旅館跡の中で毛布にくるまりガタガタ震え、手許の原稿を持て余している--。
嫩江のときは、たまたま奉天へ戻る石原中佐の飛行機に便乗させてもらったが、そう何度も幸運に恵まれる訳でもあるまい。鮮魚が腐っていくのをなすすべもなく見るように、あせていく原稿を懐にしたまま、じっと唇を噛んでいた。
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