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第九章北満経略

第九章第二十二節(自大主義)

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                二十二

 ほんの二週間ほど前、奉天の料亭「金六」で板垣や石原と侃々諤々かんかんがくがく議論を闘わせた今村課長は、参謀本部内において最も関東軍を擁護ようごした一人である。
 そんな彼でも内外の政治情勢に気を配らない訳にはいかなかった。ジュネーブやパリとまではいかないが、東京もまた政治の都である。「ちょうど謀略資金の三百万円も確保したところだから、北満経略は既定の方針通りあくまで“政略”をもって遂行すべき」と現地をさとした。

 その意に反して七日、電通のニュース電報は「チチハルの林少佐と清水八百一しみずやおいち領事が殺害された」と報じた。
 もし報道が事実なら、同地の邦人居留民がいつ『尼港にこう事件』※のようなき目にうとも限らない。すでに武力の行使を不可避と見ていた関東軍にとっては、「やるか、やらぬか」ではなく、「いつやるか」の問題に転じるきっかけとなった。
 北満の風雲は思いのほかに急を告げ、時間のかかる「政略」でことを運ぶには「すでに時遅し」となっていたのだ。
 ※尼港事件=ロシア内戦中の一九二〇年に起こった赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。対抗して決起した日本軍守備隊を含む在留邦人は皆殺しにされた。一九二七年に起こった「蒋介石の南京事件」で日本側が一切の抵抗を試みなかったのも、幣原外相がこの事件の二の前を踏まないようにと案じた結果だった。

 関東軍をき立てたのは、眼前の馬占山ばせんざん軍の動向ばかりではなかった。
 日本軍が追撃してこないと知るや、「日本など所詮は欧米諸国の圧力を前にして何もできまい」という「自大主義じだいしゅぎ」特有の増長心が働いて、黒龍江省側の態度は日増しに傲慢ごうまんになった。ハルビン方面では東支鉄道を警護する「護路軍ごろぐん」の一部までが馬占山軍へ加担して、日本側への敵意を露わにする。するとまたもや、新政権要人の間に動揺が走った。

 現実とはつくづく皮肉なもののようだ。
 いくら平和主義者が理屈や理想を振り回してもっともらしい論を唱えたところで、無数の思惑が交差して複雑に絡み合う“現実社会”は、決して彼らの思惑通りに動くものではない。日本側が国際輿論へ配慮して“自重”したのを、華人社会は“日本の弱腰”と捉えた。辛勝しんしょうとはいえ最後は嫩江支隊が馬占山軍を対岸へと押しやったはずなのに、北満各地の華字紙は盛んに「日本が負けた」と書き立てた。
 このときの模様を、ハルビン特務機関長の百武晴吉ひゃくたけはるよし中佐はこう伝えてきた。

 「八日付当地華字紙は口をそろえて日本軍の敗退を宣伝している。このような状況で軍の行動を中止したのでは、国軍の威信が失墜するはもちろん、帝国の北満放棄を意味するものである」
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