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第九章北満経略
第九章第九節(掩護隊派遣)
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九
ところで、嫩江の橋梁が爆破されたとの第一報が奉天へ届くのは「十月事件」と同じ十月十七日のこと。洮昴鉄道局へ顧問として出ていた石原満鉄顧問が、奉天の軍司令部を訪れ事態を告げたという。三宅参謀長はすぐさまこの件を東京の二宮参謀次長へ知らせたが、この電報は何故か軍の資料に見当たらず、外務省の『日本外交文書』に採録されている。
石原顧問の陳情を受けた関東軍司令部は二十一日、同方面へ偵察飛行を実施中、地上から射撃を受けたのに応戦して爆弾数個を投下した。それがヨーロッパへ伝わって、一時騒然とした下りはすでに書いた。奇しくもこの日は関東軍の「独立」を思いとどまらせるために、白川大将と今村作戦二課長が奉天へやってきた日でもある。
なお既述の通り、破壊された橋梁の修理を巡る満鉄と黒龍江省側との交渉は行き詰まり、ついに満鉄が修理を強行することとなった。その際、満鉄から関東軍へ修理班を掩護する部隊の派遣を依頼してきた訳だが、この章の冒頭に引用した『片倉日誌』の一節に従えば、そう“仕向けた”のが片倉だったそうである。
確かに『日誌』の十月二十三日の項には石原、片倉の両名が洮昴鉄道局から状況説明を受けた際、「軍は満鉄および総領事館を動かし近く嫩江鉄道橋の修築を行い南北両軍に鉄道破壊を禁ぜしむ」とある。
両参謀は翌二十四日、板垣を交えて鳩首会議を開き、黒龍江省政権を交代するため張海鵬のチチハル入城を手助けすることにした。そこで彼の北上を容易にする目的で、日本側が橋の修理を肩代わりすると決めた。
この決定を受けて片倉は、先ず満鉄へ赴き破壊された洮昴鉄道が満鉄の担保物件であることや、列車が不通となっている間の逸失利益を煽り立て、修理を急ぐよう急き立てた。そうして焚きつけておきながら、いざ満鉄側が掩護隊の派遣を依頼するや、「奉天総領事からの依頼であれば、派遣に応じよう」ともったいぶった。
そんな訳で二十二日の晩、満鉄の村上義一理事は林久治郎総領事と面会し領事館側の協力を仰いだ。その上で内田康哉満鉄総裁へ電報を送り、陸軍中央と外務本省を動かしたのだという。
天下の満鉄理事や総領事が、たかだか三十歳そこそこの “若造”にこうもたやすくそそのかされるなど信じがたい。だが『片倉日誌』に覗かせる彼の自負心は、“唯我独尊”を越えてもはや“狂気”とすら思わせる節がある。
それは南陸相の忠言を受けて司令部内の上下左右の人間関係を秩序立て、“組織”として機能させようと苦心する本庄司令官を「細かすぎる」と揶揄して見下すところからも窺い知れよう。
二十六日付の『日誌』ではこんな注文まで付けている。
「将師※1に最も必要なのは、大綱を掌握しつつ細々したことは“腹芸※2”に処することだ。特に今回の事変では(満洲に)未曽有の政変を惹起してこれに建設的な態度で臨もうとする中、国家や陸軍は卑屈にも矢面に立とうとせず、すべてを出先軍部(=関東軍)の内面工作に委ねようとしている。この局面にあって(軍司令官は)まさに未曽有の重責を担っている。混沌たる時局に善処するためには決意を固くしつつ、おおらかな心持で部下の行動を見守るべきだ」
※1将師=大将
※2腹芸=度胸や経験で物事に処すること
ともあれ二十六日には関東軍の“誰か”からチチハルの特務機関員、林義秀少佐へ指令が下り、少佐は黒龍江省政府へ赴き「一週間の期限内に加修を終えるよう」要求した。少佐には現地の清水八百一領事も随行し、ことの顛末は奉天の林総領事へ筒抜けとなった。
それを知ってか知らずか--本庄司令官は二十九日、林総領事と面会して修理班の安全確保を黒龍江省側に依頼するだけでは心許ないから、「保護のため若干部隊を派遣する必要がある」と、現地への掩護隊派遣を通知した。
またその際、司令官は「先方が発砲してこない限りは軍事行動へは発展しない」からと、大事には至らない旨を強調した。しかし総領事にしてみれば、すでに満鉄側や清水領事から報告を受けている橋梁の修繕や掩護隊の派遣を、今頃になって伝えてきたこと自体が先ず疑わしい。
もっとも彼は役人らしくその場では敢えて異を唱えずに、例によって本省へご注進の電文を送った。
「事変発生以来の諸々の事例を考えるならば、部隊を橋梁付近まで派遣する以上、その後の(軍の)統制は時と場合によって必ずしも軍司令官が当初の意図した通りには運ばないこともあると予想せざるを得ない。この辺について、政府もあらかじめ考慮しておくべきだ」
ところで、嫩江の橋梁が爆破されたとの第一報が奉天へ届くのは「十月事件」と同じ十月十七日のこと。洮昴鉄道局へ顧問として出ていた石原満鉄顧問が、奉天の軍司令部を訪れ事態を告げたという。三宅参謀長はすぐさまこの件を東京の二宮参謀次長へ知らせたが、この電報は何故か軍の資料に見当たらず、外務省の『日本外交文書』に採録されている。
石原顧問の陳情を受けた関東軍司令部は二十一日、同方面へ偵察飛行を実施中、地上から射撃を受けたのに応戦して爆弾数個を投下した。それがヨーロッパへ伝わって、一時騒然とした下りはすでに書いた。奇しくもこの日は関東軍の「独立」を思いとどまらせるために、白川大将と今村作戦二課長が奉天へやってきた日でもある。
なお既述の通り、破壊された橋梁の修理を巡る満鉄と黒龍江省側との交渉は行き詰まり、ついに満鉄が修理を強行することとなった。その際、満鉄から関東軍へ修理班を掩護する部隊の派遣を依頼してきた訳だが、この章の冒頭に引用した『片倉日誌』の一節に従えば、そう“仕向けた”のが片倉だったそうである。
確かに『日誌』の十月二十三日の項には石原、片倉の両名が洮昴鉄道局から状況説明を受けた際、「軍は満鉄および総領事館を動かし近く嫩江鉄道橋の修築を行い南北両軍に鉄道破壊を禁ぜしむ」とある。
両参謀は翌二十四日、板垣を交えて鳩首会議を開き、黒龍江省政権を交代するため張海鵬のチチハル入城を手助けすることにした。そこで彼の北上を容易にする目的で、日本側が橋の修理を肩代わりすると決めた。
この決定を受けて片倉は、先ず満鉄へ赴き破壊された洮昴鉄道が満鉄の担保物件であることや、列車が不通となっている間の逸失利益を煽り立て、修理を急ぐよう急き立てた。そうして焚きつけておきながら、いざ満鉄側が掩護隊の派遣を依頼するや、「奉天総領事からの依頼であれば、派遣に応じよう」ともったいぶった。
そんな訳で二十二日の晩、満鉄の村上義一理事は林久治郎総領事と面会し領事館側の協力を仰いだ。その上で内田康哉満鉄総裁へ電報を送り、陸軍中央と外務本省を動かしたのだという。
天下の満鉄理事や総領事が、たかだか三十歳そこそこの “若造”にこうもたやすくそそのかされるなど信じがたい。だが『片倉日誌』に覗かせる彼の自負心は、“唯我独尊”を越えてもはや“狂気”とすら思わせる節がある。
それは南陸相の忠言を受けて司令部内の上下左右の人間関係を秩序立て、“組織”として機能させようと苦心する本庄司令官を「細かすぎる」と揶揄して見下すところからも窺い知れよう。
二十六日付の『日誌』ではこんな注文まで付けている。
「将師※1に最も必要なのは、大綱を掌握しつつ細々したことは“腹芸※2”に処することだ。特に今回の事変では(満洲に)未曽有の政変を惹起してこれに建設的な態度で臨もうとする中、国家や陸軍は卑屈にも矢面に立とうとせず、すべてを出先軍部(=関東軍)の内面工作に委ねようとしている。この局面にあって(軍司令官は)まさに未曽有の重責を担っている。混沌たる時局に善処するためには決意を固くしつつ、おおらかな心持で部下の行動を見守るべきだ」
※1将師=大将
※2腹芸=度胸や経験で物事に処すること
ともあれ二十六日には関東軍の“誰か”からチチハルの特務機関員、林義秀少佐へ指令が下り、少佐は黒龍江省政府へ赴き「一週間の期限内に加修を終えるよう」要求した。少佐には現地の清水八百一領事も随行し、ことの顛末は奉天の林総領事へ筒抜けとなった。
それを知ってか知らずか--本庄司令官は二十九日、林総領事と面会して修理班の安全確保を黒龍江省側に依頼するだけでは心許ないから、「保護のため若干部隊を派遣する必要がある」と、現地への掩護隊派遣を通知した。
またその際、司令官は「先方が発砲してこない限りは軍事行動へは発展しない」からと、大事には至らない旨を強調した。しかし総領事にしてみれば、すでに満鉄側や清水領事から報告を受けている橋梁の修繕や掩護隊の派遣を、今頃になって伝えてきたこと自体が先ず疑わしい。
もっとも彼は役人らしくその場では敢えて異を唱えずに、例によって本省へご注進の電文を送った。
「事変発生以来の諸々の事例を考えるならば、部隊を橋梁付近まで派遣する以上、その後の(軍の)統制は時と場合によって必ずしも軍司令官が当初の意図した通りには運ばないこともあると予想せざるを得ない。この辺について、政府もあらかじめ考慮しておくべきだ」
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