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第八章理事会前夜
第八章第四節(五大綱公表)
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四
ところで十月二十六日付の政府発表は、その内容が反感を買ったばかりでなく、さらに厄介な問題を惹き起こした。芳澤や沢田にとっては、むしろこちらの方が深刻だった。
政府は声明の発表と併せ、これまで「くれぐれも口外しないように」とかん口令を敷いてきた「大綱協定」の内容を、ジュネーブの関係者へ何の断りなく新聞へ公表したからである。
「一、侵略政策および行動の相互的否認
二、民国の領土保全の尊重
三、通商の自由を妨害し国際間に憎悪の念を扇動する組織的運動者の完全な禁圧
四、日本人が満洲全土において一切の平和的業務に従事し得るための有効な保護
五、満洲において日本人に譲与された権利の尊重」
もっとも、「五大綱」についてはすでに『ロンドン・タイムス』がすっぱ抜いていたから、一般公衆レベルには“今さら感”があった。
だがその傍らに、我が目を疑った人々がいたのである。
新聞に掲載された「第五項目」は、以前芳澤の話を書きとったメモの内容と食い違っていた。
十月の理事会に際して、ブリアン議長は芳澤の話にあった「『鉄道に関し現存する日華条約』との表現があまりに直接的で、相手国の感情を逆なでするから」と、あくまで好意から「もっと一般的な表現へ緩和できないか」と水を向けた。日本側はその好意を蹴って、「鉄道こそが自国の最大の権益であり、これを巡る話し合いに決着がつかなければ満洲の問題は解決しない」と突っ張ったはずである。
十月理事会を通じて日本代表部と散々やりあったのも、ひとえにこの“文言”を巡る綱の引き合いだったはずではないか……。
それなのに新聞に表れた“文言”は、あっさりブリアン議長の提案通りへ変わっていた。
(果たしてこれまでのことはいったい何だったというのか……? 芳澤謙吉理事は、理事会を振り回すつもりで片意地を張っていたということか?)
すでに危うくなっていた日本代表部の信用は、まさに風前の灯火となった。
当然、これに最も敏感に反応したのが、他ならぬ芳澤本人であった。
「二十六日に発表できるものが何ゆえに二十四日には発表できなかったのか、到底理解することができない。これではとても今後の理事会へなど出席できなくなってしまう。ことに今回の理事会は満天下の関心を集めて開かれているものであったから、このような事情の下で生じる誤解は独り帝国政府に累を及ぼすのみならず、本使の個人的信用を失墜する恐れが甚大であり、遺憾の情を禁じ得ない」
昭和八年二月の国際聯盟脱退をもって「戦前の日本の誤った政策」と叫びかつ、脱退の責任を独り松岡洋右に着せる者がいたとするならば、この敏感な時期に聯盟を足蹴にした外務省の政策を何故批判しないのか? どうして目を逸らすのか?
聯盟脱退へと向かうレールは、この頃から徐々に敷かれていくのであって、満洲国が建国された後になってから突如として降って沸いてきたのではない。しかも聯盟脱退は閣議決定事項であり、天皇の裁可を経て本省の外務大臣からジュネーブの代表部へと下された指令である。それをあたかも全権代表松岡洋右の独断であったかのように語るのは、あまりに史実から逸脱していると言わざるを得ない。
これほど明白な事実を覆い隠す者に、歴史を語る資格などない。
ところで十月二十六日付の政府発表は、その内容が反感を買ったばかりでなく、さらに厄介な問題を惹き起こした。芳澤や沢田にとっては、むしろこちらの方が深刻だった。
政府は声明の発表と併せ、これまで「くれぐれも口外しないように」とかん口令を敷いてきた「大綱協定」の内容を、ジュネーブの関係者へ何の断りなく新聞へ公表したからである。
「一、侵略政策および行動の相互的否認
二、民国の領土保全の尊重
三、通商の自由を妨害し国際間に憎悪の念を扇動する組織的運動者の完全な禁圧
四、日本人が満洲全土において一切の平和的業務に従事し得るための有効な保護
五、満洲において日本人に譲与された権利の尊重」
もっとも、「五大綱」についてはすでに『ロンドン・タイムス』がすっぱ抜いていたから、一般公衆レベルには“今さら感”があった。
だがその傍らに、我が目を疑った人々がいたのである。
新聞に掲載された「第五項目」は、以前芳澤の話を書きとったメモの内容と食い違っていた。
十月の理事会に際して、ブリアン議長は芳澤の話にあった「『鉄道に関し現存する日華条約』との表現があまりに直接的で、相手国の感情を逆なでするから」と、あくまで好意から「もっと一般的な表現へ緩和できないか」と水を向けた。日本側はその好意を蹴って、「鉄道こそが自国の最大の権益であり、これを巡る話し合いに決着がつかなければ満洲の問題は解決しない」と突っ張ったはずである。
十月理事会を通じて日本代表部と散々やりあったのも、ひとえにこの“文言”を巡る綱の引き合いだったはずではないか……。
それなのに新聞に表れた“文言”は、あっさりブリアン議長の提案通りへ変わっていた。
(果たしてこれまでのことはいったい何だったというのか……? 芳澤謙吉理事は、理事会を振り回すつもりで片意地を張っていたということか?)
すでに危うくなっていた日本代表部の信用は、まさに風前の灯火となった。
当然、これに最も敏感に反応したのが、他ならぬ芳澤本人であった。
「二十六日に発表できるものが何ゆえに二十四日には発表できなかったのか、到底理解することができない。これではとても今後の理事会へなど出席できなくなってしまう。ことに今回の理事会は満天下の関心を集めて開かれているものであったから、このような事情の下で生じる誤解は独り帝国政府に累を及ぼすのみならず、本使の個人的信用を失墜する恐れが甚大であり、遺憾の情を禁じ得ない」
昭和八年二月の国際聯盟脱退をもって「戦前の日本の誤った政策」と叫びかつ、脱退の責任を独り松岡洋右に着せる者がいたとするならば、この敏感な時期に聯盟を足蹴にした外務省の政策を何故批判しないのか? どうして目を逸らすのか?
聯盟脱退へと向かうレールは、この頃から徐々に敷かれていくのであって、満洲国が建国された後になってから突如として降って沸いてきたのではない。しかも聯盟脱退は閣議決定事項であり、天皇の裁可を経て本省の外務大臣からジュネーブの代表部へと下された指令である。それをあたかも全権代表松岡洋右の独断であったかのように語るのは、あまりに史実から逸脱していると言わざるを得ない。
これほど明白な事実を覆い隠す者に、歴史を語る資格などない。
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