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第一章第八節(奉天支局)
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八
奉天から離れようとする人の波をかき分け改札を抜けると、かつて広場を埋め尽くした洋車や馬車の群れはなく、続々と押し寄せる避難民で駅前は埋め尽くされていた。車夫や宿屋が客引きをする甲高い声は聞かれなかったが、避難民たちの喧騒はそれに倍するほど騒がしかった。かろうじて二、三台の洋車を見つけたが、車夫はいずれも洸三郎などには関心がないようだった。
洸三郎はため息をひとつつくと、大きな荷物を抱えたまま巨漢をゆさゆさ揺らしてそちらの方へ向かっていった。
洋車をつかまえた洸三郎は、北東へ伸びる浪速通りへと車を走らせた。道幅三十六メートルの目抜き通りで、両端には旅館や銀行、会社、支社が軒を連ねて一大ビジネス街をなしている。当時、商社として有名だった藤田洋行の本社もここにある。なかでも中央郵便局は奉天のランドマークとして絵葉書の題材ともなっている。支局は郵便局の角を南北に折れた春日通りの一角にあった。奉天随一の繁華街と呼ばれる春日通りは人影まばらだったが、部屋の中はいわゆる“戦場”の様相であった。
「本社から来た渡邊君や。よろしゅう頼むで」
支局長の三池亥佐夫が洸三郎を紹介したが、振り向く者など独りとていなかった。関東軍に占領された奉天市内はすぐに平穏を取り戻したものの、奉天城から逃れた敵兵が新民屯へ集結し、反撃の機会をうかがっている。東大営を逃れた敵兵は撫順方面へ潰走し、炭鉱付近を脅かしはじめた。公主嶺の水源地を敗残兵が襲ってきたとの情報も流れている。東の吉林方面は依然不穏な空気に覆われ、遼陽の第二師団と第二十九聯隊は結局、長春から吉林へ向かうという。なお、新義州に待機中だった朝鮮軍は、林銑十郎中将の独断で奉天へ向かっているとの話もある。
三池はとくに通る声の持ち主ではなかったが、ほんの数人を押し込んだ部屋の中で消えてなくなるような声でもなかった。みな耳では聞いているものの、仕事の手を休める雰囲気ではないのだ。部屋を覆うピリピリした空気が洸三郎にも伝わってきた。それは、ごく限られたある種の事柄のほかは受け付けないという、独特の張り詰めた空気だった。
「最前線やさかいな」
三池は仕方なさそうに言うと、「しばらくそこに座っとき」と部屋の奥に置かれたテーブルを指さした。洸三郎は言われるままに椅子を探して腰掛けた。
テーブルには紙や鉛筆が雑然と散らかっていて、投げ出された新聞紙のほかに印刷物や本がうず高く積まれていた。
三池は窓を背にした自分の席へ戻ると、受話器を取り上げ、交換台を呼んだ。それとは鉤の手の位置にある席を、三十を二つか三つ過ぎた頃と思われる男が占めていた。白いワイシャツの袖を捲り上げ、受話器に向かってしきりに何かしゃべっている。上の階にある無線室から技師が下りてきて、ワイシャツの男と向かい合わせの、やや年嵩の記者に電報を手渡すと、すぐまたバタバタ駆け上がっていった。現像室から濡れた手をぶらぶらさせながら出てきた男が窓辺にいる人物に歩み寄り、ネガフィルムをかざしながら渋い顔で何やら話していった。どちらもよれたズボンを履いて開襟シャツを着ている。きっと写真班なのだろうと目星をつけた。
これらは一見したところ、本社の編集部でも見慣れた光景に違いなかった。しかし、編集部の空気がこれほどまで張り詰めていたかと問われれば、途端に記憶は曖昧になった。
奉天から離れようとする人の波をかき分け改札を抜けると、かつて広場を埋め尽くした洋車や馬車の群れはなく、続々と押し寄せる避難民で駅前は埋め尽くされていた。車夫や宿屋が客引きをする甲高い声は聞かれなかったが、避難民たちの喧騒はそれに倍するほど騒がしかった。かろうじて二、三台の洋車を見つけたが、車夫はいずれも洸三郎などには関心がないようだった。
洸三郎はため息をひとつつくと、大きな荷物を抱えたまま巨漢をゆさゆさ揺らしてそちらの方へ向かっていった。
洋車をつかまえた洸三郎は、北東へ伸びる浪速通りへと車を走らせた。道幅三十六メートルの目抜き通りで、両端には旅館や銀行、会社、支社が軒を連ねて一大ビジネス街をなしている。当時、商社として有名だった藤田洋行の本社もここにある。なかでも中央郵便局は奉天のランドマークとして絵葉書の題材ともなっている。支局は郵便局の角を南北に折れた春日通りの一角にあった。奉天随一の繁華街と呼ばれる春日通りは人影まばらだったが、部屋の中はいわゆる“戦場”の様相であった。
「本社から来た渡邊君や。よろしゅう頼むで」
支局長の三池亥佐夫が洸三郎を紹介したが、振り向く者など独りとていなかった。関東軍に占領された奉天市内はすぐに平穏を取り戻したものの、奉天城から逃れた敵兵が新民屯へ集結し、反撃の機会をうかがっている。東大営を逃れた敵兵は撫順方面へ潰走し、炭鉱付近を脅かしはじめた。公主嶺の水源地を敗残兵が襲ってきたとの情報も流れている。東の吉林方面は依然不穏な空気に覆われ、遼陽の第二師団と第二十九聯隊は結局、長春から吉林へ向かうという。なお、新義州に待機中だった朝鮮軍は、林銑十郎中将の独断で奉天へ向かっているとの話もある。
三池はとくに通る声の持ち主ではなかったが、ほんの数人を押し込んだ部屋の中で消えてなくなるような声でもなかった。みな耳では聞いているものの、仕事の手を休める雰囲気ではないのだ。部屋を覆うピリピリした空気が洸三郎にも伝わってきた。それは、ごく限られたある種の事柄のほかは受け付けないという、独特の張り詰めた空気だった。
「最前線やさかいな」
三池は仕方なさそうに言うと、「しばらくそこに座っとき」と部屋の奥に置かれたテーブルを指さした。洸三郎は言われるままに椅子を探して腰掛けた。
テーブルには紙や鉛筆が雑然と散らかっていて、投げ出された新聞紙のほかに印刷物や本がうず高く積まれていた。
三池は窓を背にした自分の席へ戻ると、受話器を取り上げ、交換台を呼んだ。それとは鉤の手の位置にある席を、三十を二つか三つ過ぎた頃と思われる男が占めていた。白いワイシャツの袖を捲り上げ、受話器に向かってしきりに何かしゃべっている。上の階にある無線室から技師が下りてきて、ワイシャツの男と向かい合わせの、やや年嵩の記者に電報を手渡すと、すぐまたバタバタ駆け上がっていった。現像室から濡れた手をぶらぶらさせながら出てきた男が窓辺にいる人物に歩み寄り、ネガフィルムをかざしながら渋い顔で何やら話していった。どちらもよれたズボンを履いて開襟シャツを着ている。きっと写真班なのだろうと目星をつけた。
これらは一見したところ、本社の編集部でも見慣れた光景に違いなかった。しかし、編集部の空気がこれほどまで張り詰めていたかと問われれば、途端に記憶は曖昧になった。
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