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第一章第十六節(満蒙は日本の生命線)

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                 十六
 
 公会堂の中は関東軍を称賛する声にいていた。長年鬱積うっせきした怒りと持っていく場のないやる瀬なさを一気に吹き飛ばす快進撃に、誰もが留飲りゅういんの下がったような顔をしていた。
 立錐りっすいの余地もない会場を、西村は蟹歩きですいすい抜け、壇上近くの関係者席へと向かった。洸三郎はその後に従おうと懸命に追いすがるが、でっぷり膨らんだ腹が邪魔してゴツゴツ人にぶつかる。その度にクシャクシャのハンケチで首筋に溜まった汗を拭いながら、「スンマセン、スンマセン」を連発する。彼は馴染みのない土地へやってきたばかりの人間が抱く座りの悪さを感じつつ、何とか場の雰囲気に溶け込もうとした。
 
「鯉沼さん――。どうも」
 西村は人ごみの中で立ち話をしている紳士を見つけ、声を掛けた。
「ああ、西村さん」
 紳士はまるで、祝賀会のホストのような表情で西村を迎えた。すこぶる上機嫌であることは、初対面の洸三郎にも見て取れた。
「奉天支部長の鯉沼忍さんや」
 西村は、彼と知己ちきであることがさも自慢であるように相手を紹介すると、大げさな身振りで会場内を見まわした。
「ヒヤー、今晩はまたエライ盛況ぶりですな。奉天じゃ初めてなんじゃないですか、こんだけの人が集まるのは」
「イヤ、まったくです。予想外のことで我々も驚いています。軍の果敢な行動が在満邦人二十万の心を動かしたあかしです」
「関東軍もこれまで散々、『腰の軍刀は竹光たけみつか』などと陰口たたかれてきましたからな。ホンマすかっとしましたわ――。ところで、チョット紹介さしてくだい。内地から応援が来ましたさかい。ワタナベいいますん。今日着いたばかりのホヤホヤですわ」
 洸三郎は額の汗を拭うと名刺を差し出した。
「渡邉と申します。八月に遊説団の方々が大阪へいらした折には、講演を聞かしてもらいました。あの頃はまさかこんな事態に発展するとは、正直思いませんでしたが……」
 青年連盟はこの年の七月から八月にかけて、五人のメンバーを内地へ派遣し、政府高官やマスコミ、商工業団体と相次ぎ面談して満蒙問題への理解を求めた。とくに政府に対しては、国として一貫した満蒙政策を打ち立てるよう強く求めた。遊説団は詰め込んだスケジュールの合間に東京、大阪、神戸で複数回にわたり講演会を開いた。洸三郎が参加したのは八月八日、大阪公会堂で行われたものだった。
「満洲在住の我々ですら驚いているくらいですから、内地の方々はさぞや驚かれたことでしょうね。夏の遊説団派遣も、内地の方々に満洲の実情を少しでも知ってもらいたかったのが理由ですから」
 青年聯盟自身が後に振り返るように、夏の遊説団派遣はほとんど空振りに終わった。しかし鯉沼は生来の話好きなのか、よほど機嫌がよかったのだろう。「遊説団」と聞いて、嬉び勇んで話し始めた。
「『鉄は熱いうちに打て』です。今回の奉天事件が内地の方々の関心を集めている間に、二回目の遊説団を派遣しようという計画が持ち上がっています。新聞には今後ともご協力をお願いしたいと思っています」

 「満蒙は日本の生命線」――。事変が勃発してから盛んに使われ出したフレーズである。筆者はそれを、東日本大震災後の「ガンバロー東北」とか「きずな云々」といった標語と同類のものだと考えている。それまで、平均的な日本人の脳裏に占める東北の面積など極めて小さかった。ほとんど「片隅」くらいしかなかった。
 それが震災とともに突如として神棚へとまつり上げられたのだ。筆者は決してそれを悪いことだと言っているのではない。同胞を応援したい気持ちに偽りがあるとも言っていない。だが当の東北人から「いったい何を、どうガンバレというのか?」と問い返されるほど、スローガンは空念仏と化していくものだと言っているのである。
 言わば、善意の手のひら返し――とでも言おうか。
 鯉沼はことさら「内地の方々」という言葉を繰り返すことで、それを皮肉ってみせた。洸三郎は鯉沼の意図を真正面から受け止めた。
「恥ずかしい話ですが……、我々大毎の東亜通信部といえども、満蒙の諸問題に対する関心は決して高いとは言えませんでした。夏に遊説団の方のお話をうかがったとき、つまり講演会当日の晩は大いに盛り上がったのですが……翌日になると……。鯉沼支部長がおっしゃらんとすることも分かるような気がするんですわ……」
 鯉沼はロイド眼鏡の奥で小さく光る洸三郎のドングリまなこを見つめ、次の言葉を待った。
「ところが、ですね。十八日の晩のことがあった後、まるで今までのことなんか、なあんもなかったような顔をして、一斉に『回れ右』なんですわ。何というか……」
「ハハハハ。さもあらんだね。あんたは正直な人だ。何となく小澤君に似ていやしませんかね。西村さん、どう思いますか?」
 西村は満足そうに笑みを含んだ顔で「そうですなぁ」と答えた。
 
 鯉沼が言う小澤とは、長春支部長の小澤開作を指していた。知る人ぞ知るように、石原莞「爾」と板垣「征」四郎から一文字ずつを取って名付けられた世界的音楽家のご尊父である。
 小澤は夏の遊説団のメンバーの一人で、洸三郎にもその名は聞き覚えがあった。長春で一番大きな歯科医院を営む医師なのだが、今は本業そっちのけで聯盟の活動にどっぷり浸かっている熱血漢だ。五月の「萬宝山事件」が発生するや、いち早く現地へ乗り込んだのが彼だった。漢人官憲から迫害を受ける朝鮮人農夫らの惨状を目の当たりにし、何かと力になろうと尽力した。遊説団の一員として内地へ赴いた際には、見聞きしたものを臨場感溢れる言葉遣いで伝えた。会場にいた在日朝鮮人らは、同胞の身に振りかかる不幸に「アイゴー、アイゴー」とむせび泣いた。
 
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