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第一章 黎明⑤
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◆◆◆
朝の五時。寝ぼけまなこで起き上がり、顔を洗う。
昨日の夜は、やけに興奮してしまって寝付きが悪かった。高御堂さんの優しい笑顔と重低音の甘い声音を、なぜかやたらと思い出してしまう。
これまで、そこまで意識していなかったのに、今日からどんな顔で会えばいいのかわからない。こんな感情、初めてだ。
パン屋の仕事は早朝から始まる。開店時間までに様々な種類のパンを作らないといけないので大忙しだ。
パンに使う発酵種は、レモン液種やルヴァン種、黒アロマホップ種の三種類を組み合わせた、独自の生地が店の最大の魅力だ。
強力粉や油脂の配合も合わせ、唯一無二のレシピを作り出したのは、亡くなったお父さん。このレシピがあるから、店は存続できている。
前日に仕込んでおいた生地を成形し、再度発酵させる。その間にオーブンを適温に予熱して焼き上げる。
基本的に早朝に焼き上げたパンが売切れたら閉店するので、早いときは十四時、遅くても十六時には店を閉めている。
お父さんが健在だった頃は、一日に何度もパンを焼き上げていたから、閉店時間も遅かった。でも、家と店のローンもなくなり、遺族年金や生命保険金もあるので、遅くまで働く必要はない。贅沢できるほどのお金はないけれど、生活に困っているわけでもないので、無理のない範囲で頑張ろうと言っている。
焼き上がったパンをショーケースに陳列し、価格タグを確認して完成だ。
お母さんとは交代でレジに出ている。厨房にいる間は、翌日の仕込みをして、売上の集計や在庫管理などをしている。
一番忙しい時間帯は午前中で、昼休みの終わる十三時過ぎには落ち着いている。
今日もピークの時間帯は過ぎ、時計を見ると十三時十五分。レジのカウンターから見える外の日差しが眩しかった。
アンティーク調の猫のモチーフがデザインされた吊り下げ型のドアベルが鳴った。
からんからん、と涼やかな音色が店内に響き、お客さんの来訪を告げる。
「いらっしゃいませ」
のんびりしていた頭を切り替え、笑顔を向けると、入ってきたのは高身長の男性だった。
「高御堂さん⁉」
昨日の夜、『今度買いに行きます』とは言っていたけれど、まさか本当に来るとは思ってもいなかった。
「こんにちは。店内もレトロな雰囲気がお洒落でセンスがいい。その制服も田辺さんに似合っている」
白地のコックシャツに、藍色のコックタイ。そして、同じく藍色のキャスケットに藍色のミドルエプロンを着ている。
似合っていると褒められて、頬が赤く染まっているのが自分でもわかった。
私の慌てように、厨房にいた同じ制服を着たお母さんが、訝しそうに店内を覗き見た。
私は長い髪を後ろで結んでいるのに対し、お母さんはショートボブなので下ろしている。お母さんは身長が高くシャープでかっこいい雰囲気なのに対し、私は同じ制服なのに幼さを感じる。
「こんにちは。やどりき園で学習ボランティアをしています、高御堂颯士です」
高御堂さんは、厨房からひょっこり顔を出したお母さんに、爽やかな挨拶をする。
若いイケメンから挨拶されたお母さんは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あら、それはどうも。うちの娘がお世話になっています」
高御堂さんによそいきの笑顔の挨拶を浮かべたあと、私に向かって意味ありげなウィンクを投げかける。
『もう、そういうのじゃないってば!』
口パクでお母さんに訴えかける。早く厨房の中に入ってとジェスチャーを送ると、お母さんは渋々といった様子で戻っていった。
「人気店なんだな。もうあまり残っていない」
高御堂さんは、店内をぐるりと見渡したあと、ショーケースに目をやった。
ショーケースの中に整然と陳列されていたパンは、残りは二十個ほどになっている。
「でも、まだ人気のパンは残っていますよ」
お父さんがいた頃と違って、たくさんの種類のパンを作ることはできない。少数精鋭人気のパンのみを扱っているので、どれも美味しいと自信がある。
「そうか、じゃあ全部いただこうかな」
「え、全部ですか?」
驚いて固まる私に、高御堂さんは苦笑いをした。
「ああ、全部売ってしまったら困るか」
「いえ、困ることはありませんが、一人で食べきれますか?」
すると、高御堂さんは口を開けて笑った。
「俺だけじゃないよ。やどりき園の子どもたちや職員の方にもお裾分けしようと思って」
「ああ、そういうことですね! すみません」
顔を真っ赤にさせながら、一つ一つ袋に入れて梱包していく。
そりゃ一人でこの量を食べるわけない。馬鹿な子って思われたかもしれない。
高御堂さんは、私が梱包している間、興味深そうに店内を見渡していた。高御堂さんが私の店にいるなんて不思議な感覚だ。立ち居振る舞いも全てが洗練されている。
朝の五時。寝ぼけまなこで起き上がり、顔を洗う。
昨日の夜は、やけに興奮してしまって寝付きが悪かった。高御堂さんの優しい笑顔と重低音の甘い声音を、なぜかやたらと思い出してしまう。
これまで、そこまで意識していなかったのに、今日からどんな顔で会えばいいのかわからない。こんな感情、初めてだ。
パン屋の仕事は早朝から始まる。開店時間までに様々な種類のパンを作らないといけないので大忙しだ。
パンに使う発酵種は、レモン液種やルヴァン種、黒アロマホップ種の三種類を組み合わせた、独自の生地が店の最大の魅力だ。
強力粉や油脂の配合も合わせ、唯一無二のレシピを作り出したのは、亡くなったお父さん。このレシピがあるから、店は存続できている。
前日に仕込んでおいた生地を成形し、再度発酵させる。その間にオーブンを適温に予熱して焼き上げる。
基本的に早朝に焼き上げたパンが売切れたら閉店するので、早いときは十四時、遅くても十六時には店を閉めている。
お父さんが健在だった頃は、一日に何度もパンを焼き上げていたから、閉店時間も遅かった。でも、家と店のローンもなくなり、遺族年金や生命保険金もあるので、遅くまで働く必要はない。贅沢できるほどのお金はないけれど、生活に困っているわけでもないので、無理のない範囲で頑張ろうと言っている。
焼き上がったパンをショーケースに陳列し、価格タグを確認して完成だ。
お母さんとは交代でレジに出ている。厨房にいる間は、翌日の仕込みをして、売上の集計や在庫管理などをしている。
一番忙しい時間帯は午前中で、昼休みの終わる十三時過ぎには落ち着いている。
今日もピークの時間帯は過ぎ、時計を見ると十三時十五分。レジのカウンターから見える外の日差しが眩しかった。
アンティーク調の猫のモチーフがデザインされた吊り下げ型のドアベルが鳴った。
からんからん、と涼やかな音色が店内に響き、お客さんの来訪を告げる。
「いらっしゃいませ」
のんびりしていた頭を切り替え、笑顔を向けると、入ってきたのは高身長の男性だった。
「高御堂さん⁉」
昨日の夜、『今度買いに行きます』とは言っていたけれど、まさか本当に来るとは思ってもいなかった。
「こんにちは。店内もレトロな雰囲気がお洒落でセンスがいい。その制服も田辺さんに似合っている」
白地のコックシャツに、藍色のコックタイ。そして、同じく藍色のキャスケットに藍色のミドルエプロンを着ている。
似合っていると褒められて、頬が赤く染まっているのが自分でもわかった。
私の慌てように、厨房にいた同じ制服を着たお母さんが、訝しそうに店内を覗き見た。
私は長い髪を後ろで結んでいるのに対し、お母さんはショートボブなので下ろしている。お母さんは身長が高くシャープでかっこいい雰囲気なのに対し、私は同じ制服なのに幼さを感じる。
「こんにちは。やどりき園で学習ボランティアをしています、高御堂颯士です」
高御堂さんは、厨房からひょっこり顔を出したお母さんに、爽やかな挨拶をする。
若いイケメンから挨拶されたお母さんは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あら、それはどうも。うちの娘がお世話になっています」
高御堂さんによそいきの笑顔の挨拶を浮かべたあと、私に向かって意味ありげなウィンクを投げかける。
『もう、そういうのじゃないってば!』
口パクでお母さんに訴えかける。早く厨房の中に入ってとジェスチャーを送ると、お母さんは渋々といった様子で戻っていった。
「人気店なんだな。もうあまり残っていない」
高御堂さんは、店内をぐるりと見渡したあと、ショーケースに目をやった。
ショーケースの中に整然と陳列されていたパンは、残りは二十個ほどになっている。
「でも、まだ人気のパンは残っていますよ」
お父さんがいた頃と違って、たくさんの種類のパンを作ることはできない。少数精鋭人気のパンのみを扱っているので、どれも美味しいと自信がある。
「そうか、じゃあ全部いただこうかな」
「え、全部ですか?」
驚いて固まる私に、高御堂さんは苦笑いをした。
「ああ、全部売ってしまったら困るか」
「いえ、困ることはありませんが、一人で食べきれますか?」
すると、高御堂さんは口を開けて笑った。
「俺だけじゃないよ。やどりき園の子どもたちや職員の方にもお裾分けしようと思って」
「ああ、そういうことですね! すみません」
顔を真っ赤にさせながら、一つ一つ袋に入れて梱包していく。
そりゃ一人でこの量を食べるわけない。馬鹿な子って思われたかもしれない。
高御堂さんは、私が梱包している間、興味深そうに店内を見渡していた。高御堂さんが私の店にいるなんて不思議な感覚だ。立ち居振る舞いも全てが洗練されている。
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