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私の仕事
ミスとひがみとその他めちゃくちゃ(2)
しおりを挟む「お客さんのところに、印鑑を貰いに行きます」
支店長は一瞬目を見開いた。
「君一人で?」
「はい。私の責任です。私が行きます。今日中に、何としてでも印鑑を持ってきます」
正木支店長は眉を顰め、何かを考え始めた。
するべきことは、ただ一つ。
書類を完璧にするために、印鑑を貰うこと。
「私の責任でもあるのに、ごめんなさいね、木之元さん。私、この後、他の支店との意見交換会があって……」
申し訳なさそうに……『さも』申し訳なさそうに、矢野さんは言った。
「大丈夫です。福田工業さんは近いので。すぐにいきます」
支店から約一キロの所にある、福田工業さん。
福田工業の社長がどんな人か知らない。もしかしたらミスが嫌いで、私を怒鳴り散らすかもしれない。
けれど、土下座でも何でもして、ハンコを貰わなければ、いけない。
そうでなければ本部を巻き込んで、もっと大事になってしまう。
「そう、だね。うん。福田工業さんの営業担当者から電話して連絡してもらって、それから行ってきて、ハンコを貰って。必ず、今日中に。」
「はい。戻ってきてから事務の仕事は再開しますので」
「うん」
最優先事項は、お客さんの利益だ。
話がまとまったところで、外出する準備を―――。
「待ってください、つ、木之元さん、支店長」
話に割って入ってきたのは、彼だった。
「高峰君、どうした」
「福田工業の社長夫妻、今日から旅行に行かれるとのことで、恐らく会社の方にはいないかと」
「なんだと?」
正木支店長の眼光が鋭くなる。
「え」
と小さく声を出したのは矢野さんだった。
「今日から、一週間海外に行って帰ってこないという話を、本日、福田工業に行って、社長夫人の方にに聞いたので、確かです」
「……そういえば、これから旅行って言ってたような」
誰にも聞こえないくらいの小さい声で、矢野さんは言った。
本当に、今気づいたというような顔だった。もし、その愕然とした表情すら演技なら、銀行を辞めて女優になった方がいい。
話が繋がる。
本日、窓口に来たのは福田工業の社長で。
高峰さんが外回りの際に、お会いしたのは福田工業の社長夫人ということか。
背筋が凍る。
だって、つまり。
気づくのが遅すぎて。
社長夫妻は旅行に行ってしまって。
本日中に印鑑が貰えなくて。
手遅れ―――?
本部に書類を提出できず。
福田工業の利益は損なわれてしまい、信用問題になってくる。
たかが印鑑、されど印鑑。
印鑑一つで、信用が失墜する可能性がある。
ミス一つで、大事な取引先がいなくなる可能性がある。
それが社会で、会社で、銀行だ。
それほどのこと。
それほどのことを、あなたは軽々しく、私に当てつけるために使ったんだよ。
「わ、私は……」
小さい声で矢野さんは何かを言う。続く言葉は「悪くない」だ。
「私は悪くない」
きっと、こんなに大きなことになるとは思っていなかったのだろう。
きっと、つい、魔がさしてやったのだろう。
私が一人で福田工業に頭を下げて、印鑑を貰いに行って、終わり。
それだけで済むと想像してたのだろう。
だからこそ、今になってうろたえている。
……矢野さんの心情について推察している時間ではない。
覚悟を決めた。
少し先の机に座る伊藤さんへ声をかける。
彼が本来福田工業さんの担当で、高峰さんは臨時の補佐である。
「伊藤さん、福田工業さんの担当ですよね、携帯の電話番号は知りませんか?」
「あ、ちょっと待って。調べる」
「それから、会社の方にも念のためかけてください。印鑑を持たされてる人がいるかもしれません。その人の責任で印鑑を押して貰えるかもしれない」
「なるほど……」
すぐさま伊藤さんは机から携帯を取り出して、操作を始める。
「それから、高峰さん。福田さんが何を使って海外に行くかご存知ですか?」
「……飛行機だ。ここから一番近い空港からだ」
正木支店長は口を開く。
「まさか」
「はい。行ってきます。社用車を貸してください。私の責任ですから、私が行きます」
運転免許はいつも携帯している。何も問題はない。
「社長夫妻に会ったとしても、旅行先にハンコを持ち歩いているわけがない」
「空港に行く途中で、福田工業の社長さんの印鑑を新しく購入します。幸いなことに、必要な印鑑は個人の印鑑。『福田』と書いてあるハンコで問題ないです。百円均一か文房具屋かででハンコを購入後、印鑑変更の手続きの書類を完璧に頂き、菊桜銀行内での福田工業社長夫妻の印鑑を変更します。」
一番手っ取り早いのは、買った印鑑を勝手にこちらで押すこと。
しかし一番やってはいけない事でもある。
やってしまえば、全ての書類の信用が地に落ちる。言ってしまえば偽造文書になるのだからね。
この提案は誰もしない。話が早くて助かる。
正木支店長は眉根をひそめたままだ。
「そんなことが、可能なのかね」
「印鑑を持ち歩かない人間はいないかもしれませんが、海外に行くのにパスポートを持ち歩かない人間はいません。パスポートと印鑑、があれば、印鑑は変更できます」
本来ならば必要な―――様々な手続き、書類を踏み倒したうえで、であるけれど。
できなくはない。
この場の誰もが黙っていれば。
聞かなかったことにすれば。
この方法であれば、偽造文書を作らなくて済むし、印鑑を貰えるのだ。処理は踏み倒すけれど、嘘はついていない書類が完成する。
きわめてグレー寄りのホワイトな解決方法。
「しかしだね、木之元さんの言ったとおりにする、ということは、古野森支店の方で福田工業さんの印鑑を新しくすることをお願いするということで――――。それに、新しくした印鑑を、日をまたいでこちらの方で一度預かるのだろう? そんなサービスはやってないぞ。勝手に預かることもコンプライアンス的に認められない。聞いてしまった以上、残念だが」
「変えた印鑑は、本社に残っている従業員の方にお渡しします。そうすれば、こちらで預かることはないです。」
ただいま午後五時。福田工業の従業員全員帰っているとは思えない。
「もし、印鑑を変えて、印鑑を貰えて。その時間になって従業員の人が帰ってしまっていた場合は、従業員の家の方の住所まで行って預かってもらいます。頭なら何度だって下げます」
問題はそこじゃない。
本当に福田夫妻に会えるのか。
福田夫妻がその手続きを納得してくれるのか。
賭けだ。
でもこれしかない。
「今日、書類を本社に送らなければ、顧客は―――福田工業は損をしてしまいます。それは一番やってはいけない事。こちらのミスです。尽くせる手は尽くしましょう」
針の穴に猫を突っ込むような強行。
それでも、動くしかない。
ぽん、と頭が撫でられた。
「へ?」
「俺が連れてく。いくぞ、つづら。準備しろ」
それだけ言って、高峰さんは目の前を通り過ぎた。
「伊藤は他の仕事があり、支店を離れられません。手の空いてる俺が一緒に行きます。いいですよね、正木支店長?」
「ああ。お前らは戻ってこなくてもいいから、必ず印鑑を持ってこい」
支店長は高峰さんに社用車ののキーを投げた。
「わ、私一人で」
「福田夫妻の顔を知ってる人間がいたほうがいいだろ」
ごもっともだ。
目の前でぐるぐると状況が変わっていく。
どこかに電話をし始める支店長。福田工業に連絡を取っている伊藤さん。
心配そうに見つめる翠子。
周りの行員も、そわそわして、こちらを見ている。
パニックになってはいけない。あくまでも冷静に。
ひとつ、深呼吸。
必要書類をバックにつめて、高峰さんの後ろに続き、支店を出た。
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