アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP3・波に乗って 2

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 突き飛ばした時に肘を擦りむいてしまったらしく、パセリは皮膚に血を滲ませていた。一応、罪悪感を感じたので、私は渋々クローゼットを漁り救急セットを取り出す。嗚咽を漏らすパセリをベッドの縁に座らせて彼女の前にしゃがみ込むと、傷に消毒液を塗ってガーゼをテープで貼り付けるだけの簡単な処置を施した。
「エルちゃんありがとう!」
 パセリは満面の笑みで礼を述べた。私に危害を加えられたことなど、まるで憶えていませんという顔で。常に記憶を更新して古い記憶はすぐに消去しているようだ。これはひどい。
「……そうですか。はあぁ……」
 私は痛むこめかみを押さえてため息を吐き、救急セットをクローゼットへと返却した。
「で、どうやって入ったんですか? 合鍵は渡していませんよ」
 パセリの正面までロッキングチェアを移動させて座り、私は足を組んだ。パセリは「そうだった!」と本来の用事を思い出したのか、パンッと両手を合わせた。
「緊急事態なの! 街で大変なことが起きてるのよ!」
「大変なこと?」
 私は腕を組んで訝しげに片眉を上げる。パセリはワタワタと両手を動かした。
「政府が海の亡霊狩りを始めたの!」
 ほう。政府が、海の亡霊を、狩り始めたと。
「…………はあ?」
 あまりにも素っ頓狂なセリフが飛んできて、私は呆れた声を出した。
「何を訳のわからないことを。海の亡霊は遺物が招き起こす謎の現象を総称したものですよ? 狩るもなにも、対象どころか実態すらない」
 USアンダーストリングスに汚染された遺物に触れたり近づいたりすることで、精神が海へと執着、依存するようになり、やがて海へと身投げする。その現象を『海の亡霊に取り憑かれた』と表現しているだけで、海の亡霊そのものは存在しない。政府の役員もこの国も停滞しているとは常日頃から思っていたが、ついに国のトップの脳みそまでとち狂ってしまったのか?
 私が内心で罵倒していると、パセリは「そうだけどそうじゃないの」と慌てて修正を入れた。
「2時間くらい前にラジオで宣言されたんだ」
 チラリと壁掛け時計に視線をやる。深夜2時。ということは、放送が入ったのはちょうど0時ごろか。これまたおかしな時間帯だ。そんな夜更けに誰が聞いていると思っているのか。
「でね、」
 パセリは続けた。
「たまたま夜更かししてたサーシャさんが聞いてて。その内容が『現時刻より、海の亡霊に取り憑かれている人物は処刑対象となる。新立イルネティア合衆国の住民は、巡回中の警察及び警備隊に対象を引き渡すべし』だったの」
 パセリは説明を終えると、首筋に汗を垂らして俯いた。暑さからくるものではない、冷や汗だ。月明かりで元々青白く見えていた彼女の顔色が、さらに白んでいく。
 絶句。私はポカンと口を開けて間抜け面を晒した。先ほど大量に水分を摂取したはずなのに、喉が渇いて口の中が粘つく。気持ち悪い。
「冗談、ですよね?」
 ようやく絞り出した声は細く震えていた。我ながら無意味な問いかけだとは思う。パセリがこんな無慈悲な戯言を吐くような性格ではないことなど、幼少期から知っていた。それでも冗談だと思いたかったのだ。だって、こんな、これは、

「おいみんな逃げろ! 警察がウェストシティの住民を処刑し終わって、サウスウェストシティに向かってるぞ!」

 焦燥を含むがなり声が外から聞こえてきた。私とパセリは慌てて立ち上がり、窓を開けて道を見下ろす。深夜2時だが、スラム街の人間は何時だろうと活動している。ちょうど放送を聞いていたのだろう。もしくはサーシャのように偶然放送を聞いていた誰かが、街中に知らせ回ってくれたのか。叫び声を上げながらサウスシティに繋がるケルト・ストリートへと人々が駆けていく姿が見えた。
「イヤよ死にたくない!」
「おい退けって! 通れねぇだろうが!」
「ママー! ママー! どこぉ」
 時に他人を押しやり、時に他人を踏みつけて、親とはぐれて泣き喚く子供に関心を寄せる者など誰もいない。誰も彼もが、自分の身を守ることで手一杯だった。
 私は2番街の北の方、ウェストシティに続く道へと目を凝らした。遥か向こうから、隊列をなした警察が足並みを揃えてこちらへ向かってくる姿が見える。漆黒の制帽をつば深く被る彼らの表情は全く窺えず、なにを考えているのか判断つかないが、彼らの手に握られた銃が、民衆の恐怖心を増幅させていることだけは確かだ。そしてきっと、あの銃の中身は麻酔弾から実弾に変わっている。
「まずい、ここはスラム街だぞ!? 海の亡霊に取り憑かれている人間がゴロゴロ転がっている。それにこのままじゃコーラルさんや〈シー・ガル号〉のみんなも、」
 焦りから冷静な判断を失った私の左手を、パセリが両手でギュッと握りしめた。緊張で冷え切った手が、彼女の温もりを吸い取っていく。
「落ち着いて! サーシャさんがパセリのこと叩き起こしてエルちゃんにこのことを伝えなさいって、合鍵を渡してくれたの。今1番危ないのは遺物を違法に売り捌いている〈シー・ガル号〉乗組員やコーラルさんの店、そして海への通路を隠していたサーシャさん」
 パセリは一区切りずつ、そして私の心を落ち着かせるように言葉を紡いでいった。飴色の瞳が私を真っ直ぐ射抜いている。
「〈シー・ガル号〉乗組員やエルドレッドさん、コーラルさんのところへはサーシャさんの知り合いがもう向かって知らせてる。だからパセリがエルちゃんのところに来たの!」
「……そういえば、サーシャさんには合鍵を渡していましたね。そうか、コレを……知らせるために。ああ、みんなは無事なのか……」
 良かった。膝から崩れ落ちる私をパセリは抱きしめた。
「0時にノースシティから海の亡霊狩りが始まったわ。警察は時計回りに移動してるみたいで、じきにサウスウェストシティまで辿り着く。海は警備軍が見張ってるから亡命もできない。この街は、いえ、イルネティアは危険なの」
「まさに本物の四面楚歌しめんそかってやつですね」
 案外早く人類滅亡までのカウントダウンが始まったようだ。私は片膝を立てて座り前髪をかき上げる。「ははっ」喉から掠れた笑い声が出た。
「まだ話は終わってないわ。あのね、サーシャさんが秘密の入り江に船を一艘だけ用意してくれてるの
「……船?」
「そうよ。それに乗ってこの国から出よう!」
 船に? 〈シー・ガル号〉ではなく、見知らぬ船に? 私は唖然とパセリを見つめる。彼女の瞳に迷いはなかった。
「もう時間がない」
 たった一言。けれどパセリの言葉は私の心に重く響いた。
「国の支配を逃れて海に出るチャンスは今しかないわ。もちろんエルちゃんがここで捕まって死にたいなら、パセリは止めないし一緒に死んであげる」でもね、パセリは目を細めて続けた。「海に出たいんでしょ。だったら立ち止まっちゃダメなの。今、決断するしかない」
「でも、船長やコーラルさん、他の人はどうやって逃げるんですか」
 モアランド州は海に囲まれた小さな山岳地だ。逃げ場など無い。それに、他の人々や仲間を置いてこの国から脱出するという後ろめたさが、私の動きを封じる。
「大丈夫。サーシャさんはいくつも隠れ家を持っているわ。海の亡霊に取り憑かれた人たちやみんなは、そこに避難してもらうんだって」
「そんなのいつかは見つかる! そしたら」
「エルピス!」
 凛とした声が私の身体を突き抜けた。
「みんな大人なの。自分の身は自分で守るわ。だから今は、エルピスがどうしたいかだけを考えて」
 はっきりと私を諭すパセリの言葉に、私は今更ながら思い出した。そうだ、彼女は、パセリは私よりも1歳年上だったのだ。1年分、彼女は成熟していたのだったと。
 ──海に出る、海に出たい、海に出たいんだ!
 私は急いで服を着替えて、壁に寄せかけていたリュックサックを引っ掴んだ。標高地図、コンパス、レインコート、双眼鏡ゴーグル、食料など。航海に必要な物資を片っ端から詰め込んでいく。シンクに立ち寄ってマグカップも入れる。パセリから押し付けられた不要物。航海には必要ない。けれど、なんとなく気に入っていたので置いていきたくなかった。
 荷物をまとめ終わった私はパセリを連れて部屋を飛び出した。廊下を走り階段を駆け下りてマンションの入り口に立つ。
 ──外は阿鼻叫喚だった。誰もが血眼になって安息地へと逃げていき、足が満足に動かせない者は生気の抜けた表情でその場に佇んでいた。2階から見下ろしていた時とは違い、同じ目線で見る景色はむごたらしいの一言に尽きる。ああ、人々の恐怖と悲鳴にあてられて、視界がグルグルと回る。気持ち悪い。
「みんな落ち着きな!」
 女性の声が大音量で2番街に響き渡る。人々は足を止めて声のする方を視線を向けた。私とパセリも同じく注意を向ける。30メートル先、ウェストシティ側にある3階建てのマンションの屋上から、縦に細長い女性が拡声器を握りしめている。
「パニックになるんじゃないよ!? 政府が対象としているのは、目に見えて海の亡霊に取り憑かれていると判断できる人物だけなんだ! こんなふうに2番街の住民全員で逃げる姿を警察どもに見せたら、それこそ全員誤解されて皆殺しにされちまう!」
 ごもっとも。彼女の言葉は核心を突いている。息を荒げていた住民は、次第に冷静さを取り戻していった。
「わかったら一旦家に戻るんだ。アタシたちは、アタシたちの家族は、誰も海の亡霊に取り憑かれていない。誰1人として取り憑かれていない! いいね!?」
 声高らかに演説する彼女の言葉に、1人、2人と従って自宅へと帰っていく。人間で溢れかえっていた2番街の道は、夜の静けさを取り戻しつつあった。
「すごい……」
 パセリが感嘆する。私は無言で頷き同意した。2番街の混沌は、彼女の演説で綺麗さっぱりと消え去った。これが言葉の力。私はしみじみと、屋上で状況を把握している彼女を眺めた。身長は180センチはありそうか。細身にはしっかりと筋肉が詰まっている。緩くパーマのかかった髪を鎖骨まで伸ばしている彼女の背後から、神々しいオーラを感じた。
「すごすごと逃げ帰るなんて、何を馬鹿なことをしているんだ! いつまで政府に腫れ物扱いされて、怯えて身を縮こませているつもりだい? 今こそ好機だ! さあ哀れな奴隷のふりはやめて戦うんだ!」
 突然、叱声が飛んでくる。私たちは声の主へと視線を向けた。ウェストシティへと続く道から、男が1人優雅に歩いてくる。頭のてっぺんから爪先まで、闇を濃縮したかのように真っ黒な服で包まれている。キラリ、両方の耳元で丸く白い光が煌めいていた。
「アンタは……、」
「エルちゃんの知り合い?」
 警戒を含ませた私の呟きに、パセリが小声で尋ねてくる。私は「見覚えがあります」と短く回答した。
 この男は、以前コーラルの店で真珠を購入した客だったはずだ。嫌でも印象に残る全身真っ黒コーディネート。そして海の亡霊に取り憑かれていて、コーラルの店で発作を起こした。特徴的すぎて忘れるはずがない。
「クラウン!?」
 ブリュネットヘアーの女性は拡声器をその場に放り捨てた。そして屋上の縁に立つと、雨樋や小庇、ベランダ、外壁の剥がれ落ちた部分を器用に伝って下り始めた。体幹と動きに迷いがない。何かスポーツでもやっていたのだろう。
 女性は地面へと到着すると、クラウンと呼んだ男の前まで移動して仁王立ちになった。
「何のつもりだい? わざと民衆を煽るような真似をして」
「何の? 冗談はよしてくれパイロープ。これはチャンスなんだよ。囚人のようにこの国に投獄されていた私たちが、海へと解放されるチャンスなんだ」
 クラウンは両手を広げて恍惚めいた表情を浮かべた。女性──パイロープは鋭い眼光でクラウンを睨みつけた。
「解放ねぇ。どうやって? 手段は? お構いなしに銃をぶっ放してくる相手にほとんど丸腰で挑んで勝てるとでも?」
 クラウンは紳士めいた落ち着きのある動作で人差し指を立てた。
「たしかにこの国では銃の所持は認められていない。けれど武器はある。立ち向かうという心だ」
「話にならないね」
 パイロープはクラウンの言葉を切り捨てた。
「船もろくにありゃしない。そんな状態で海に飛び込んだところで、ただの入水自殺さ。何の準備もなしに人は戦えない。そんなことも理解できなくなるほど、アンタの心は取り憑かれちまったのかい?」
「君が何と言おうとも、もう人々は立ち上がるしかないのだよ」
 お互いに譲ることなく論争は続けられる。ふと、私はクラウンの背後に注意を惹きつけられた。黒い波のように、ゆっくりと何かが近づいて来たのだ。
「──っ、警察だ!」
 私は悲鳴に近い声を上げた。パセリとパイロープ、そしてクラウンがウェストシティ方面へと顔を向ける。ざ、ざ、ざ、ざ。規則正しい足音を立てて、ベレッタ1915を腰に携えた集団がこちらに進行してくる。ついに警察が2番街に到着したのだ。
 不思議と私の視線は、地面を踏みつける彼らの足元へと吸い寄せられた。──黒ずんだシミのようなものが、靴やズボンに付着している。風に乗った硝煙の臭いが、私の鼻をくすぐった。

「……血だ。もう何人か殺されたんだ」
 掠れた声が私の喉から出た。
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