アンダーストリングス

百草ちねり

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第一章

EP2・海の亡霊 1

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 暗い、暗い。前も後ろも左右も、上下さえもわからない。三半規管がトチ狂っているのだろうか。私はまともに動くこともままならず、ただにいた。
 突然、視界が開ける。頭上には白波の織りなす美しい紋様、隙間から差し込む淡い光、そして私を包み込む冷たく、どこか暖かい藍色。(──そうだ、ここは海の中なんだ)。黒曜石の上に立つ私は、ようやく理解した。
 そして私の目の前には白藍に輝く『』がいる。私は目を凝らして『』の正体を暴こうとする。しかし『』の姿は霞のように掴みどころがなく、鳥にも獣にも魚にも、そして人間にも見える。だめだ、わからない。
 歯噛みする私に『』は語りかけてきた。ヴァイオリンの旋律を奏でて。
 ──エルピス、マ──イル、──タシハ、ズット、マ──イル──

「──はあッ! ハッ、はぁ、」
 雷に打たれたような衝撃が身体中を駆け巡り、私を夢から現実へと引き戻した。過呼吸寸前の荒い息、脂汗でベットリと汚れた顔。昨日干したばかりの布団の端は私の握りこぶしの中で圧縮されている。シーツも寝巻きも汗で水浸しだ。いまだ雷撃の余韻に震える心臓を落ち着かせようと、私は深く息を吸い込む。しかし警鐘のごとき忙しなさで鼓動を刻む心臓は、持ち主に抗い続けた。
 体感で15分は過ぎただろうか。ようやく正常な呼吸と心拍が戻ってきた。私はのそりと上半身を起こし右手で前髪をかき上げた。……額に触れた手が冷たい。眼前へと右手を持ってくる。血の気の引いた真っ白な指先が震えていた。
「……海だった」
 ここ最近、毎日のように見る夢。場所も内容も不明瞭で、登場人物は私と『』だけ。『』は私に言葉を伝えようとするが結局何もわからないまま終わる。そんな夢だ。
 けれど今日は違った。
「呼ばれた……」
』は私の名前を確実に発していた。他は聞き取れなかったが、それだけは鮮明に夢の中の私の鼓膜を震わしたのだ。
「ああ、悪夢だ」
 両手で顔を覆い蹲る。毎日私の睡眠を妨害するどころか、名前まで呼んでくるなんて。夢見が悪いなんてものではない。もはや呪いだ。
「私の清々しい目覚めはどこに消えてしまったのやら……」
 7月3日、6時20分。風を取り込むため夜から開放されていた窓から潮風が入り込み、53代目の目覚まし時計はベットボードの上でけたたましくベルを鳴らす。
 私は目覚まし時計を引っ掴み、全力で窓の外へと投球した。さようなら53代目。



 1


 休日というものは案外苦痛なもので。時間を潰すだけで体力と精神力が削られていく。特にイルネティア合衆国には娯楽というものがほとんど存在しないので尚更だ。
 旧世紀は町中に娯楽施設やら嗜好品やらが溢れていたらしいが、それらは今や架空のモノに等しい。フルフル以外の食料品はないし、海岸は立ち入り禁止区域なので〈釣り〉も〈海水浴〉もできない。以前、無許可で海岸に侵入しUSを釣り上げたバカが呪い殺された事例もある。植物は樹木から雑草に至るまで放射線に汚染されているため〈園芸〉や〈森林浴〉は禁止。もちろん動物も汚染されているので〈ペット〉の飼育もダメだ。ダメな事づくしである。
 おとなしく部屋の中で読書や音楽でも聴いていればいいのだろう。この2つはイルネティアの数少ない娯楽なのだから。しかし悲しいかな、どちらもいま1つ、私の興味をそそらない。
「退屈だ……金を稼ぎたい……」
 夏日に頭髪を炙られながら私はイーストシティをふらふらと漂い、人並みに流されるがまま4番街ティートゥリー・アベニューへ漂着する。ここでは家具や小洒落たカラトリーなどを扱う店が静かに佇み、客を待っていた。ウィンドの前で店の中を覗く壮年の夫婦は仲睦まじく手を繋いでいる。
 ねぇあれなんてどうかしら? 君が選ぶものなら間違いないさ。
 穏やかな微笑みを交わし合う2人。素晴らしく微笑ましい光景だ。しかし夫婦の隣で店内へと熱い視線を送りつける、頭部に暑苦しいヒマワリを咲かせた少女の姿がいただけない。
 私は即座に踵を返す。
「エルちゃん偶然だね! 非番なの!? じゃあパセリと一緒にショッピングしよ!!!」
 だが悔しいことに、向こうのほうが1枚も2枚も上手だったようだ。少女──パセリは瞬く間に私との距離を詰め、往来のど真ん中で背後から私の腰に抱きついてきた。彼女の肩には大きめのショルダーバッグがかけられている。
「結構ですお1人でどうぞ」
「もうもう照れなくてもいいんだよお?」
「照れてませんお引き取りください」
 コイツとショッピングだなんて冗談じゃない。私はパセリの拘束から逃れようとした。しかしいくら身体を捩ろうとも、引き剥がそうと両手で彼女の身体を押そうとも、彼女は一向に離れない。おかしい。いったい小柄な体のどこにそんな力が秘められているんだ? コイツは本当に女なのか?
 パセリはさらに拘束の手を強めた。
「サーシャさんに頼まれて食器を買いに出てきたらエルちゃんに会えるなんて! すごい! きっとこれは偶然じゃなくて運命なんだよ! 運、命! さあパセリと休日を一緒に楽しもう!」
「私が前世で何したっていうんだ!!」
 不意に拘束が弛む。その瞬間を逃さず、私は逃走を試みた。しかしすぐさま左腕を彼女の両手に絡め取られて、束の間の自由を奪われる。往生際悪く足掻く私を天は救ってはくれず。パセリは私をズルズルと引きずった。
 連れて行かれた場所は先程の夫婦が見ていた店だ。茶色い煉瓦造りに赤い三角屋根。出入り口の右上には〈ロメロの食器店〉と吊り看板が下げられている。
「おじゃましまーす!」
 パセリが元気よくドアを引いた。木製の扉はギィと音を立てて外側へと開き、ひんやりとした空気が私たちを迎えた。半ば強引に連れ込まれる形で入った店内には、奥の方に小さなカウンターが1つあり、左右の壁沿いに食器が収められた陳列棚が並んでいる。店の中央にはひな壇型の棚もあり、そこにも色とりどりの食器が鎮座している。
「いらっしゃい。どうぞ、お手に取ってご自由に見てくださいな」
 カウンター内には店主と思わしき男性が立っていた。40代後半といったところか。棒のように細い身体に成熟された穏やかな雰囲気を纏っている。パセリはさっそく意気揚々と店内を物色し始めた。店主に挨拶をされたてまえ商品を1つも見ずに出て行くわけにもいかず、私もしぶしぶ中央のひな壇に近寄り食器の1つに手を伸ばした。
「それとっても綺麗だよね」
 いつの間に私の隣に移動したのやら。小さめの声でパセリが称賛する。手に取ったのは底が深めの皿だ。縁にツタの模様が彫られており、中心から外側に向けて白色から若草色へとグラデーションが施されている。
「そうですね」
 私は短く返答して皿を元の位置に戻すと、店内をゆっくり歩きながら他の食器を見た。様々な模様が彫られたカラフルな食器たち。そして殆どが木製で磁器製の食器は数えるほどしかない。
 大厄災以降、人類の生活圏は数少なくなった。そして限られた土地を削り減らすわけにもいかず、石油製品や金属、ガラスは貴重物資となり供給が激減した。また多くの生活必需品はそれらでできているため、製品の生産にも甚大な被害をもたらした。それを補うための代替品として着目されたのが『木』だ。放射線の影響で遺伝子が変化したのか、成長速度が爆発的に速くなったことも合わさり、森林資源が安定して採れるようになったのだ。
 伐採した木を食器や家具などに加工後、研究所が開発した塗料でコーティングする。この塗料には放射線を遮断する物質が含まれており半永久的に剥げ落ちることはない。これのおかげで、人間は放射線に被曝することもなく安全に使用することができる。
 ちなみに現在は使用されていないが、旧世紀には〈スプーン〉や〈フォーク〉などのカトラリー類も使われていたらしい。フルフルを手で掴んで食べる私たちは猿人と同レベルだ。
「これください!」
 どうやら食器類を吟味し終えたらしく、パセリが10枚セットの皿とマグカップをカウンターに置いた。店主はレジを打ちながら微笑む。
「太陽を咲かせたお嬢さん、趣味がいいね」
「そうでしょ? パセリはとっても目利きなの! だから貴方の店の食器がどれも芸術的でとっても素晴らしいってこともわかるのよ!」
「おやおや嬉しいねぇ」
 2人は和やかに談笑している。私は入り口付近の棚の横に移動し、壁に背中を預けて会計が終わるのを待つ。ついでに2人の会話にそっと耳を傾けた。
「もう歳だからね。死ぬ前に趣味を仕事にしようと思ったのさ」
「素敵ね! パセリも自分の店を持つのが夢なの。そのために貯金もしてるのよ」
「いいね。どんな店を開くんだい?」
「美味しいフルフル屋さん! パセリの店がオープンしたら貴方のお店の食器を使うわ。だってとっても美しいもの!」
 会計を終えたパセリは商品を受け取りながら生き生きと宣言した。しかし店主は寂しげに目を細めて笑う。
「はは。職人冥利に尽きるよ。だけどすまないね、この店は今月いっぱいで閉めるんだ」
 パセリは皿をショルダーバッグにしまおうとしていた手を止める。
「どうして?」
 店主は顔を少し伏せ、カウンターの上、レジの横に置いてある写真立てを見つめた。私の位置からは、写真の内容は判らない。
「この店は妻と2人でやってたんだ。けれど妻が海の亡霊に取り憑かれてね。先月波に攫われてしまったんだよ」
 だからもう閉めるんだ。虚しさで掠れた声が店内にポトリと落ちた。恐らく写真に写っているであろう店主の妻が、彼の言葉を拾うことはない。
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