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十番線
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パンプスがアスファルトの溜水を跳ねた。思わず舌打ちしそうになるのを我慢して私は、駅のホームへと駆け込んだ。思った通り、買ったばかりのスエードのパンプスには、黒い染みができていた。ため息をつく。
聞いてないよ。今日は快晴だって言ってたよね、天気。
「嘘つき・・・」
私の口からいつの間にか言葉がこぼれてた。皆、人は嘘つきだ。彼を信じてた。愛してるって言ったじゃん。それなのに、私に黙って私の親友と付き合っているなんて。彼女も嘘つき。私のこと、第一の親友だって言いながら、陰で私のこと、嘲笑っていたに違いない。彼と一緒に。
別にこれが初めての恋だとは言わない。私もそれほど若くない。だから、自分の中ではもう終わった事にして納得しようと思った。彼と友人のダブルの裏切りにも耐えて、自分を慰めるために思い切って奮発して買ったパンプスにもケチがついた。
「もう、これ、高かったんだから。」
雑踏に紛れて呟くと、一粒涙が流れた。ホームに電車が滑り込んできた。服が濡れていようが関係ない。見知らぬ誰かの肩に触れながら、入り口からすぐの場所のポールを掴む。ふと手に何かが触れた。
・・・傘?
濃紺の傘が一つ、座席の端のポールに引っかけてあった。忘れ物だろうか。私は下りる時にその傘に引かれるように手に取ってしまった。本来ならそのまま、忘れ物センターに届けるべきなのだろうけど、魔が差してしまった。
一日くらい借りたっていいよね。私はその見知らぬ傘を差して帰宅した。明日にはきちんと届けよう。私はそう自分に言い訳をしてその夜眠りについた。
その夜夢を見た。忘れ物センターへ行く夢だ。カウンターには可愛らしい笑顔の女性が居て、親切に応対してくれた。その女性の笑顔があまりに素敵すぎて、起きてからも何故か自分の胸に暖かいものが溢れていた。何なんだろう、この感情。しかし、私はよほどあの傘を黙って借りたことに罪悪感を感じていたのだろう。夢にまで見るなんて。早くあの傘を届けなければ。一晩玄関で開いていたので、すっかり傘は乾いていた。畳もうとして私は、柄の所に初めて名前が書いてあることに気付いた。
「春日 孝太郎?」
丁寧な字だ。今時傘に名前まで書いてあるなんて珍しい。よほどこの傘を大事にしていたのだろう。案外早く持ち主に届きそうだ。
駅の忘れ物センターを訪れると、私は驚きを隠せなかった。あの夢で見た女性がカウンターに居たからだ。
「どうされました?」
私が茫然としていると、その女性はあの夢の中で見た素敵な笑顔で微笑んでいた。どうしたんだろう。初めて会ったはずなのに私は、彼女に説明のつかない懐かしく愛おしいような感情で満たされた。
「あ、あの、忘れ物の傘を届けに来ました。電車の中に忘れられていたんです。」
私が傘を差しだすと、一瞬彼女の顔が強張り、傘を見つめた。
「そ、そうですか。お届けありがとうございます。」
そう言いながら傘を受け取る彼女の手が震えていたような気がする。
「あっ、その傘、たぶん名前書いてあるから、すぐ持ち主わかるんじゃないですかね。」
私がそう言うと彼女はそうですねと作り笑いをした。なんだか様子が変だ。気になりながらも私はその場を去った。
その夜、また夢を見た。またあの受付の女性が夢に出て来たのだ。だが、昨日と違ってその女性の顔は青ざめて、困惑したような顔をしていた。私が傘を差しだすと、泣きそうな顔になったのだ。目が覚めると私は何故か悲しい気持ちになった。何故彼女はあんな顔をしたのだろうか。私は何故か取りつかれたように彼女のことばかりを考えてしまい、用もないのに駅の忘れ物センターへと足を向けていた。
そして私はその途中のマンションのゴミ置き場でそれを見つけてしまった。私が届けた傘が、そのマンションのゴミ置き場へ捨ててあったのだ。
「なんで?」
届けたのは昨日の夜だ。夜預けて、すぐに持ち主が現れて、しかもあんな真新しくて大事に使っていた傘を捨てることがあるだろうか。私の心の中をある疑惑が占めていた。
彼女が、捨てた?
そう思うと急に腹立たしくなった。何故せっかく届けた傘を捨てたんだろう。春日孝太郎がかわいそうではないか。私はどうかしていると思いつつも居ても経ってもいられなくなった。
「どうして捨てたんですか?」
気が付くと私は、彼女の前に立っていた。彼女は驚いたような戸惑ったような顔をして私を見上げた。
「あ、あの・・・。」
彼女が二の句をつぐ前に私はまた彼女に迫る。
「傘、捨てたでしょ?」
明らかに彼女の顔に動揺の色が広がる。すると隣に居た、彼女と同じくらいの年の若い男性が近づいてきた。
「いかがされましたか?」
口調は穏やかだが、明らかに私に敵意を見せる眼差しだった。たぶん、この男性は彼女に特別な感情を持っているのだろう。
「私が昨日届けた傘が、マンションのゴミ置き場に捨ててあったんです。」
「それは、持ち主が現れて取りに来てやはり不要だと判断されたのでは?」
男が私にそう反論し彼女を擁護するが、私も反論した。
「それはあり得ないでしょ。あんなに大切に綺麗に扱っている傘を捨てるとか。しかも、昨日の夜で今朝ですよ?無理がありません?」
私は何故こんなにムキになっているのか自分でもよくわからなかった。その間にも、彼女は泣きそうな顔でオロオロするばかりだった。
「とにかく、この傘、預かってください。」
私がその傘を差しだすと、彼女は顔面蒼白になり涙ぐんだ。何故、傘を預かるだけでそんな泣きそうな顔をするんだろう。
「ごみ置き場にあったんでしょう?どうしてうちが預からなければならないんですか?」
男はついに私に敵意を剥き出しにして腕を組んだ。
「だって、この傘の持ち主がかわいそうじゃないですか。ねえ、あなたが捨てたんでしょう?」
マズイ。私は何をやってるんだ。でも、行動が止められない。私達が揉めていると奥から年配の男性が出て来た。やんわりと、傘を受け取ることを断られ、ゴミとはいえ、それはまだ所有権があるものだから持ち出すのはまずいのではないかと、逆に私に脅しをかけてきた。私は仕方なく引き下がった。
手には春日孝太郎の傘。何故か傘が可哀そうになり、私はその傘を持ち帰った。警察に届けたところで、どこで拾ったのかを聞かれてきっと面倒なことになりそうだ。
その夜、私はまた夢を見た。手には春日孝太郎の傘を持っている。電車がホームに滑り込んでくるのを確認して私は電車に近づいていった。その時、背中に強い衝撃が走った。誰かに力いっぱい背中を押されたのだ。迫る電車が私の鼻先に来たところで目が覚めた。もう少しで轢かれそうになった。あまりにリアルな夢に心臓がバクバクと音を立てていた。
そういえばあの傘を拾った日からずっと毎日夢を見ている。おかげで眠りが浅く、仕事でもミスを連発してしまった。あの傘は何なんだろう。私は何故、あの傘にあんなに執着してしまったのだろう。私はあの傘を捨てることにした。明日がちょうど金属のゴミの日だからちょうどいい。もう傘なんてどうでもよくなった。私に必要なのは心と体の休養だ。そうだ。有休をとって旅行にでも行こう。誰にも気を使うことも無い一人旅がいい。
そう決めてしまうと、私は帰りの電車の座席で、安心して眠ってしまった。はっと気が付くと、車窓はとっくに日が暮れて、真っ黒な墨を流したような月のない夜を映していた。しまった、乗り過ごしたか。そう思った時に、隣の車両から通路のドアが開き、誰かがこちらに向かって歩いてきた。雨も降っていないのに傘を持っていて、その先端からはしずくが滴っていた。
その傘の先をかつん、かつんと音を立てて床を突きながら男は歩いてきた。男が近づくにつれて、空気が重く歪められるような気がして、私は身を固くした。そして、その男は私の座席の前で立ち止まった。
「どうして捨てたんですか?」
男の顔ははっきり見えない。顔の周りだけ、なんとなく黒い靄がかかっているようにぼんやりしている。私は恐ろしくて声が出なかった。すると男はもう一度たずねた。
「どうして傘を捨てたの?」
低く子供を叱る時に威圧するような声だった。
「ち、違う・・・」
やっと絞り出した言葉の後が続かない。捨てたのは私ではない。しかも、男は傘を手に持っているではないか。傘の柄に目をやると、春日 孝太郎の文字がはっきりと見てとれた。ああ、この男があの傘の持ち主なのだ。
誰か、助けて。私は身の危険を感じていた。
「次は~きさらぎ~。終点きさらぎ駅です。お忘れ物の内容ご用意願います。」
突然のアナウンスに私は肩をびくつかせた。きさらぎ?そんな駅知らない・・・。
この電車はどこに向かっているの?
「・・・悲しかった。」
男がぽつりと呟いた。その時、初めて男の顔の周りの靄が消えた。男は泣いていた。
「僕は、傘を取りに行っただけなのに。君に会える手段はこの傘だけだったのに。」
傘を伝っていた雫は雨ではなかった。男の目からは、通常の人間ではあり得ないほどの涙が溢れ出ていた。涙は頬を伝い、手を伝い、そして傘の先を伝い雫を作っていた。そうか。この哀れな男は、きっと彼女に片思いをしていたのだ。そして、傘を車内に忘れれば彼女に会いに行く口実ができる。男の悲しみが、傘の先から零れて私に染みてくる。いつの間にか私も涙を流していた。
「悪いけど、私は彼女ではないわ。」
私がそう彼に告げると、彼は何故かドアの方へと歩いて行った。走行中の電車のドアを開け、彼は外に飛び出してしまった。私はあまりのことに、とっさに動くことができなくて、届かない手を伸ばした。
そこで私は目が覚めた。なんだ、夢か。私は時間を確認するため、スマホを開いた。手が誤って、ニュースアプリに当たってしまった。そのトップニュースに私は目が釘付けになった。
「忘れ物センターの受付嬢、殺人で逮捕。」
私はすぐさま続きを読んだ。男性につきまとわれて、思い余って男をホームから線路に突き落としたといい自首してきたらしい。男性は忘れ物の傘を取りに来た時に、彼女に一目惚れし、何度も故意に電車内に傘を忘れて毎日のように忘れ物センターを訪れた。行為はエスカレートし、彼女をつけて自宅を特定。傘を彼女の自宅に置いたり、彼女が仕事が休みの日には、自宅アパートの近くをうろついたりして偶然を装ったりしたらしい。悩んだ彼女は、ホームで男性を見かけ、発作的に背中を押して、特急電車に衝突させた。
私はあの夢を思い出していた。ホームで背中を力いっぱい押されて、鼻先に電車が近づいてくるあの夢のリアルな風圧は、傘の記憶だったのだろうか。男の傘だけが残されたホーム。持ち主を失ったそれは、主を探して彷徨っていたのだろうか。
私は事故現場のホームに降り立った。現場はたぶんここだ。私に傘が教えてくれた。私は静かに目を閉じて彼の冥福を祈った。そしてすぐに、また電車に乗り込む。ドアが閉まり私は、座席に座ろうと振り返った。
「ひぃっ!」
思わず私は悲鳴をあげた。私のすぐ後ろに、春日 孝太郎が立っていたからだ。相変わらず手には、あの傘が握られていた。あるはずがない。あの傘は今、私の家にあるはずなのだ。
「あなたは、僕を捨てなかった。」
彼の口角がスローモーションのように、引き上げられた。
「あなたは僕を裏切らない。運命の人。」
近づかないで・・・お願い。
私は彼に追い詰められて、座席に倒れこむようにへたりこんだ。
「次はきさらぎ~、終点きさらぎ駅です。お忘れ物のないようにご用意願います。」
きさらぎ?嘘でしょう?
春日 孝太郎は笑いながら私を見下ろしている。
これは悪い夢だよね?
そうだと言って!お願い!
聞いてないよ。今日は快晴だって言ってたよね、天気。
「嘘つき・・・」
私の口からいつの間にか言葉がこぼれてた。皆、人は嘘つきだ。彼を信じてた。愛してるって言ったじゃん。それなのに、私に黙って私の親友と付き合っているなんて。彼女も嘘つき。私のこと、第一の親友だって言いながら、陰で私のこと、嘲笑っていたに違いない。彼と一緒に。
別にこれが初めての恋だとは言わない。私もそれほど若くない。だから、自分の中ではもう終わった事にして納得しようと思った。彼と友人のダブルの裏切りにも耐えて、自分を慰めるために思い切って奮発して買ったパンプスにもケチがついた。
「もう、これ、高かったんだから。」
雑踏に紛れて呟くと、一粒涙が流れた。ホームに電車が滑り込んできた。服が濡れていようが関係ない。見知らぬ誰かの肩に触れながら、入り口からすぐの場所のポールを掴む。ふと手に何かが触れた。
・・・傘?
濃紺の傘が一つ、座席の端のポールに引っかけてあった。忘れ物だろうか。私は下りる時にその傘に引かれるように手に取ってしまった。本来ならそのまま、忘れ物センターに届けるべきなのだろうけど、魔が差してしまった。
一日くらい借りたっていいよね。私はその見知らぬ傘を差して帰宅した。明日にはきちんと届けよう。私はそう自分に言い訳をしてその夜眠りについた。
その夜夢を見た。忘れ物センターへ行く夢だ。カウンターには可愛らしい笑顔の女性が居て、親切に応対してくれた。その女性の笑顔があまりに素敵すぎて、起きてからも何故か自分の胸に暖かいものが溢れていた。何なんだろう、この感情。しかし、私はよほどあの傘を黙って借りたことに罪悪感を感じていたのだろう。夢にまで見るなんて。早くあの傘を届けなければ。一晩玄関で開いていたので、すっかり傘は乾いていた。畳もうとして私は、柄の所に初めて名前が書いてあることに気付いた。
「春日 孝太郎?」
丁寧な字だ。今時傘に名前まで書いてあるなんて珍しい。よほどこの傘を大事にしていたのだろう。案外早く持ち主に届きそうだ。
駅の忘れ物センターを訪れると、私は驚きを隠せなかった。あの夢で見た女性がカウンターに居たからだ。
「どうされました?」
私が茫然としていると、その女性はあの夢の中で見た素敵な笑顔で微笑んでいた。どうしたんだろう。初めて会ったはずなのに私は、彼女に説明のつかない懐かしく愛おしいような感情で満たされた。
「あ、あの、忘れ物の傘を届けに来ました。電車の中に忘れられていたんです。」
私が傘を差しだすと、一瞬彼女の顔が強張り、傘を見つめた。
「そ、そうですか。お届けありがとうございます。」
そう言いながら傘を受け取る彼女の手が震えていたような気がする。
「あっ、その傘、たぶん名前書いてあるから、すぐ持ち主わかるんじゃないですかね。」
私がそう言うと彼女はそうですねと作り笑いをした。なんだか様子が変だ。気になりながらも私はその場を去った。
その夜、また夢を見た。またあの受付の女性が夢に出て来たのだ。だが、昨日と違ってその女性の顔は青ざめて、困惑したような顔をしていた。私が傘を差しだすと、泣きそうな顔になったのだ。目が覚めると私は何故か悲しい気持ちになった。何故彼女はあんな顔をしたのだろうか。私は何故か取りつかれたように彼女のことばかりを考えてしまい、用もないのに駅の忘れ物センターへと足を向けていた。
そして私はその途中のマンションのゴミ置き場でそれを見つけてしまった。私が届けた傘が、そのマンションのゴミ置き場へ捨ててあったのだ。
「なんで?」
届けたのは昨日の夜だ。夜預けて、すぐに持ち主が現れて、しかもあんな真新しくて大事に使っていた傘を捨てることがあるだろうか。私の心の中をある疑惑が占めていた。
彼女が、捨てた?
そう思うと急に腹立たしくなった。何故せっかく届けた傘を捨てたんだろう。春日孝太郎がかわいそうではないか。私はどうかしていると思いつつも居ても経ってもいられなくなった。
「どうして捨てたんですか?」
気が付くと私は、彼女の前に立っていた。彼女は驚いたような戸惑ったような顔をして私を見上げた。
「あ、あの・・・。」
彼女が二の句をつぐ前に私はまた彼女に迫る。
「傘、捨てたでしょ?」
明らかに彼女の顔に動揺の色が広がる。すると隣に居た、彼女と同じくらいの年の若い男性が近づいてきた。
「いかがされましたか?」
口調は穏やかだが、明らかに私に敵意を見せる眼差しだった。たぶん、この男性は彼女に特別な感情を持っているのだろう。
「私が昨日届けた傘が、マンションのゴミ置き場に捨ててあったんです。」
「それは、持ち主が現れて取りに来てやはり不要だと判断されたのでは?」
男が私にそう反論し彼女を擁護するが、私も反論した。
「それはあり得ないでしょ。あんなに大切に綺麗に扱っている傘を捨てるとか。しかも、昨日の夜で今朝ですよ?無理がありません?」
私は何故こんなにムキになっているのか自分でもよくわからなかった。その間にも、彼女は泣きそうな顔でオロオロするばかりだった。
「とにかく、この傘、預かってください。」
私がその傘を差しだすと、彼女は顔面蒼白になり涙ぐんだ。何故、傘を預かるだけでそんな泣きそうな顔をするんだろう。
「ごみ置き場にあったんでしょう?どうしてうちが預からなければならないんですか?」
男はついに私に敵意を剥き出しにして腕を組んだ。
「だって、この傘の持ち主がかわいそうじゃないですか。ねえ、あなたが捨てたんでしょう?」
マズイ。私は何をやってるんだ。でも、行動が止められない。私達が揉めていると奥から年配の男性が出て来た。やんわりと、傘を受け取ることを断られ、ゴミとはいえ、それはまだ所有権があるものだから持ち出すのはまずいのではないかと、逆に私に脅しをかけてきた。私は仕方なく引き下がった。
手には春日孝太郎の傘。何故か傘が可哀そうになり、私はその傘を持ち帰った。警察に届けたところで、どこで拾ったのかを聞かれてきっと面倒なことになりそうだ。
その夜、私はまた夢を見た。手には春日孝太郎の傘を持っている。電車がホームに滑り込んでくるのを確認して私は電車に近づいていった。その時、背中に強い衝撃が走った。誰かに力いっぱい背中を押されたのだ。迫る電車が私の鼻先に来たところで目が覚めた。もう少しで轢かれそうになった。あまりにリアルな夢に心臓がバクバクと音を立てていた。
そういえばあの傘を拾った日からずっと毎日夢を見ている。おかげで眠りが浅く、仕事でもミスを連発してしまった。あの傘は何なんだろう。私は何故、あの傘にあんなに執着してしまったのだろう。私はあの傘を捨てることにした。明日がちょうど金属のゴミの日だからちょうどいい。もう傘なんてどうでもよくなった。私に必要なのは心と体の休養だ。そうだ。有休をとって旅行にでも行こう。誰にも気を使うことも無い一人旅がいい。
そう決めてしまうと、私は帰りの電車の座席で、安心して眠ってしまった。はっと気が付くと、車窓はとっくに日が暮れて、真っ黒な墨を流したような月のない夜を映していた。しまった、乗り過ごしたか。そう思った時に、隣の車両から通路のドアが開き、誰かがこちらに向かって歩いてきた。雨も降っていないのに傘を持っていて、その先端からはしずくが滴っていた。
その傘の先をかつん、かつんと音を立てて床を突きながら男は歩いてきた。男が近づくにつれて、空気が重く歪められるような気がして、私は身を固くした。そして、その男は私の座席の前で立ち止まった。
「どうして捨てたんですか?」
男の顔ははっきり見えない。顔の周りだけ、なんとなく黒い靄がかかっているようにぼんやりしている。私は恐ろしくて声が出なかった。すると男はもう一度たずねた。
「どうして傘を捨てたの?」
低く子供を叱る時に威圧するような声だった。
「ち、違う・・・」
やっと絞り出した言葉の後が続かない。捨てたのは私ではない。しかも、男は傘を手に持っているではないか。傘の柄に目をやると、春日 孝太郎の文字がはっきりと見てとれた。ああ、この男があの傘の持ち主なのだ。
誰か、助けて。私は身の危険を感じていた。
「次は~きさらぎ~。終点きさらぎ駅です。お忘れ物の内容ご用意願います。」
突然のアナウンスに私は肩をびくつかせた。きさらぎ?そんな駅知らない・・・。
この電車はどこに向かっているの?
「・・・悲しかった。」
男がぽつりと呟いた。その時、初めて男の顔の周りの靄が消えた。男は泣いていた。
「僕は、傘を取りに行っただけなのに。君に会える手段はこの傘だけだったのに。」
傘を伝っていた雫は雨ではなかった。男の目からは、通常の人間ではあり得ないほどの涙が溢れ出ていた。涙は頬を伝い、手を伝い、そして傘の先を伝い雫を作っていた。そうか。この哀れな男は、きっと彼女に片思いをしていたのだ。そして、傘を車内に忘れれば彼女に会いに行く口実ができる。男の悲しみが、傘の先から零れて私に染みてくる。いつの間にか私も涙を流していた。
「悪いけど、私は彼女ではないわ。」
私がそう彼に告げると、彼は何故かドアの方へと歩いて行った。走行中の電車のドアを開け、彼は外に飛び出してしまった。私はあまりのことに、とっさに動くことができなくて、届かない手を伸ばした。
そこで私は目が覚めた。なんだ、夢か。私は時間を確認するため、スマホを開いた。手が誤って、ニュースアプリに当たってしまった。そのトップニュースに私は目が釘付けになった。
「忘れ物センターの受付嬢、殺人で逮捕。」
私はすぐさま続きを読んだ。男性につきまとわれて、思い余って男をホームから線路に突き落としたといい自首してきたらしい。男性は忘れ物の傘を取りに来た時に、彼女に一目惚れし、何度も故意に電車内に傘を忘れて毎日のように忘れ物センターを訪れた。行為はエスカレートし、彼女をつけて自宅を特定。傘を彼女の自宅に置いたり、彼女が仕事が休みの日には、自宅アパートの近くをうろついたりして偶然を装ったりしたらしい。悩んだ彼女は、ホームで男性を見かけ、発作的に背中を押して、特急電車に衝突させた。
私はあの夢を思い出していた。ホームで背中を力いっぱい押されて、鼻先に電車が近づいてくるあの夢のリアルな風圧は、傘の記憶だったのだろうか。男の傘だけが残されたホーム。持ち主を失ったそれは、主を探して彷徨っていたのだろうか。
私は事故現場のホームに降り立った。現場はたぶんここだ。私に傘が教えてくれた。私は静かに目を閉じて彼の冥福を祈った。そしてすぐに、また電車に乗り込む。ドアが閉まり私は、座席に座ろうと振り返った。
「ひぃっ!」
思わず私は悲鳴をあげた。私のすぐ後ろに、春日 孝太郎が立っていたからだ。相変わらず手には、あの傘が握られていた。あるはずがない。あの傘は今、私の家にあるはずなのだ。
「あなたは、僕を捨てなかった。」
彼の口角がスローモーションのように、引き上げられた。
「あなたは僕を裏切らない。運命の人。」
近づかないで・・・お願い。
私は彼に追い詰められて、座席に倒れこむようにへたりこんだ。
「次はきさらぎ~、終点きさらぎ駅です。お忘れ物のないようにご用意願います。」
きさらぎ?嘘でしょう?
春日 孝太郎は笑いながら私を見下ろしている。
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