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しおりを挟むそれからしばらくして、パトリック殿下は婚約者候補であった僕ではなく、アンヌ嬢を婚約者にすることを検討しているという噂が、学院内に広まった。男爵令嬢でも、聖魔法の使い手であれば王子妃になれると。そして、それを恨んだ僕が、聖女候補に嫌がらせをしているという噂も広まっていく。全く身に覚えのないことだ。
僕はパトリック殿下のサロンで彼女に拒否されてから、顔を合わせないようにしているというのに。
女子生徒はそのようなことを全く信じていないと、マリー様からは聞いている。噂を広めているのは、男子生徒だ。まるで何かに絡めとられるかのように、僕に対する悪意が、一部の男子生徒の間に浸透していったのだ。
「ブランシャール公爵令息、アンヌに嫌がらせをするのはやめていただきたい。教科書を破り捨てたり、剃刀を机に仕掛けたり。先日は、汚水をかけて罵声を浴びせたと聞いた」
廊下で突然呼び止められた男子生徒から、身に覚えのないことを言われる。しかも他人からこんな高圧的な態度をされるのは、生まれて初めてかもしれない。
彼が口にした嫌がらせにしても、神殿騎士が常時ついている聖女候補のアンヌ嬢にそんなことができるとは思えない。まったく現実的ではないのだ。
「失礼だけど、僕は君が誰なのかわからない。名乗っていただけますか?」
「……エルブ子爵家嫡男のケイシーだ。どうして俺の名前を知らないんだ? 俺は、実践魔法術で教授からも一目置かれているのに」
そう言われても、知らないものは知らない。同じクラスになったことはないし、家同士の付き合いもない。第二王子の婚約者候補ではあるけれど、社交は王家の催しぐらいにしか行かないのだ。たとえ知っていたとしても、話をしたことがなければ、自己紹介をしなければならないはずである。学院の中なので、身分には関係なく誰に話しかけてもいいのだろうけれど、挨拶もなしに言い掛かりをつけるとは、貴族の社交界どころか、一般の社会でも通用しないのではないだろうか。
「アンヌは俺の名前を知っていた。俺の生い立ちもな。
聖女様の力だ。
聖女様である彼女の方が、パトリック殿下の妃に相応しい。少しばかり顔が綺麗だからといって、聖女様に嫌がらせをするような下劣な男は、王家には相応しくない!」
言っていることが滅茶苦茶だ。パトリック殿下の妃になれば、アンヌは聖女ではなくなる。そして、聖女は神殿に所属する立場だから王家とは直接の関係はない。世間知らずの僕でもわかることだ。エルブ子爵令息は一般的な常識がないのだろうか。
そもそも、どうしてエルブ子爵令息に、僕がパトリック殿下に相応しいかどうかの裁可をされなければならないのか。
そして……
「僕は嫌がらせをした覚えはないのだけれど……」
「黙れっ! しらを切る気かっ!」
怒鳴り声とともに、エルブ子爵令息の手から放たれる火球。
エルブ子爵令息の向こうにある柱の陰で笑うピンクブロンドの髪の少女。
僕と一緒に歩いていたマリー様とエルザ様の悲鳴。貴族令嬢でも悲鳴を上げることがあるのだな。
近くにいる護衛騎士がこちらに向かって駆けて来る。
その全てを認識している僕の周りに、結界が構築されて行く。
エルブ子爵令息の放った火球は、僕が構築した結界に吸収された。学院の護衛騎士と教師が駆けつけて、エルブ子爵令息を拘束する。
「どっどうして、俺の魔法が!」
「どうして、ご自分の魔法がエティエンヌ様よりも強いとお考えになったのですか?」
僕の後ろから、マリー様が麗しい声で、エルブ子爵令息に質問を返す。もう冷静になっているのは流石である。
エルブ子爵令息は、公爵家の令息であっても、ある程度の魔力がなければ、王子殿下の婚約者候補になることはできないとは考えないのだろうか。
今の僕は領地で魔獣に遭った時に、ある程度自分で対処できるぐらいの魔力は持っているのだ。十歳の子どもだった頃とは違う。華奢な外見だけれどもね。
護衛騎士に連れて行かれるエルブ子爵令息は、声を上げないように口を塞がれていた。
学院の校舎内では、修練場以外での魔法の使用は禁止されている。ましてや、攻撃魔法を他人に向けるというのは学院内で収められる話ではないだろう。
しかし、彼の様子には違和感があった。どんな違和感かと聞かれても答えにくいのだけれども。あの火球が明らかに僕の顔を狙っていたのも気になるところだ。
事件の後、学院内には護衛騎士の数が増えた。これまでは、学院内は安全だということで王族以外には護衛はついていなかったが、我がブランシャール公爵家を筆頭にそれぞれの家から自分の子どもに護衛をつけたいという要望が上がっているらしい。
僕の父上も兄上たちも烈火のごとく怒っている。
神殿は、王家に聖女候補の保護を求めているそうだ。今回の件も、神官長は、アンヌ嬢は巻き込まれただけだと考えている。嫌がらせもたびたび受けていると訴えているので、安全のために、空き時間にパトリック殿下のサロンに行く許可を求めている。これはアンヌ嬢からの強い要望であるとのことだ。
アンヌ嬢には神殿騎士がついているのだし、神殿が、サロンを用意すればいいのではないだろうかと思うけれど。
事件の一週間後に王宮に招かれた僕は、国王陛下と王妃様にお会いした。カミーユ殿下とパトリック殿下とともに、テーブルを囲む。王家の方々は今回の事件に大層心を痛めておられる様子で、抜本的な改善に力を入れるということだった。
生まれて間もないカミーユ殿下のご子息にも会わせてもらった。とても可愛い。幼い王子を抱いている王太子妃殿下のジャンヌ様はとても綺麗だった。
そして、パトリック殿下と二人で、色とりどりのつる薔薇に囲まれた庭園で語り合った。
「エティ、愛しているよ」
僕を膝の上に乗せたパトリック殿下が、耳元で囁く。未だにパトリック殿下は、僕を膝の上に乗せたがるのだ。
僕はとても幸せだ。僕も、パトリック殿下を心から愛している。
それなのに、どうして不安になるのだろう。
平穏な幸せというのは、続かないものなのだろうか。
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