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第壱蟲 『抑蟲』

殴ファーザー

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-某企業内のオフィス-

「どうだね調子は?」

 PCのキーボードを叩く一人の男に対し、若干小太りな男性がそう声をかける。

「はい梅雨部長、残業を含めて今夜中には完了するかと。」

 そう彼に応えるは、かつて己が娘を痛めつけていた天空ナダレの姿であった。

「ほう、そうかね。」

 部長と呼ばれた男性はそっとナダレの机に茶の入った湯のみを置き、彼の勤務の様子を感心するように眺めている。
 『あの時』からおおよそ一年。
 『抑蟲』が作用によって『怒り』を抑えられ、改心とも言うべき変貌を遂げた。
 かつてのような無精髭は生やしておらず、ピッチリと整ったスーツ姿で眼鏡をかけて画面に向かい、一心不乱に文字を打ち続けている。

「残業か……別にこの案件に関しては急く事はないのだよ?」

 ナダレの上司にあたる梅雨は、次々と文字が打ち込まれる様を見つつ、そう彼に忠告する。

「はい存じています……ですが、私が頑張らなければならないのです。」

 ナダレは何かに取り憑かれた様に作業に没頭し、心配する梅雨の方へとは向こうとはしない。

「娘さん……かね?」

 慎重な口調でナダレにそう尋ねる。

「……はい。」

 刹那、ナダレは指を宙に浮かせて手を止める。
 そして重い浮かべる。
 己が『変わった』あの瞬間を。

「アイツには……あの子には多くの迷惑をかけてしまったんです……償っても償い切れない程に。」

 『あの日』。

 家を飛び出して数時間後、ミゾレは体のあちこちに泥を付けて帰ってきた。

 だがそんな娘の様子にも目もくれず、彼……天空ナダレは激昂し酒を求めた。

 だが娘の回答は『いやだ』。


 その一点張りであった。

 いつになく強気に見えた娘に対し、父である筈の彼は憤怒の形相を浮かべ、その手に握っていた酒瓶を片手に実の娘へと襲い掛かったのである。

 何もかもが『怒り』で満ちていた。

 もはやその本質が何であったかも忘れていた。

 娘の恐怖で引きつる顔が目に写り、我を失った自分の腕が凶器を振り上げる。

「……っつ!!」

 苦悶の表情を浮かべ、いつの間にか打ち込みもせずに静止していた事に気づく。

「そう、私は償わなければならないんです。」

 そう言うとナダレは、止まっていた指を再び動かし始める。

 あの時、己へ向かって『黒いもの』が飛び込んでいた事などは忘れて。

「まぁ、何があったかは私が知る由もないが……。」

 梅雨はカタカタと音を立てて指を動かすナダレをしばらく眺め、そして深くため息をつき、そして彼の肩を叩く。

「部長命令だ、今日はもう帰りなさい。」

 そして再度、彼はそう伝えた。

「で、ですが、まだ作業は……。」

 ナダレは再度そう忠告する上司に対し背後へと振り返り、焦った口調でそう応える。

「それくらい任せたまえよ、これでも私はこの業界では実力で成り上がってきたのだからねぇ。」

「しかし、まだ定時にもなっていませんし……。」

 ナダレは時計を見つめ、時刻を確認する。

 時計の短針は四分の一も進んでおらず、元々残業するつもりであった彼にとっては早すぎるどころの話ではなかった。

 あまりの剣幕で主張する部下に、部長である彼は顎を撫でて困った顔をする。

 ナダレの勤めるこの企業、別段残業を強制するような制度は無い。

 また、それを強制させるような空気も今は無かった。

 が、彼は働く。

 身を滅ぼさんと、何かに取り憑かれたかのように。

「しかし……。」

 そんな彼の身を心配していたし、今日に至っては『帰らせるべき理由』もあった。

「誕生日……なのだろう?娘の。」

「部長、なぜ……それを?」

 娘の、ユキの誕生日。

 それ位は彼も承知していた。

「何も愛娘の生誕の日に残業することもあるまい、ケーキでも買って祝ってあげなさい。」

 だがそのことを部長にまで伝わっていることは予想外だったのだ。

「なぁに、上には私が適当に誤魔化しておくさ。」

 喉につっかえていた言葉が言えてスッキリしたからか、梅雨はにこやかな表情で腕を組み自信満々にそう言った。

「し、しかし!!」

 だがそれ故に彼は休むわけにはいかなかった。

 かつて我が子に与えた罪を償う意味でも懸命に労働し、少しでも家族の幸福を取り戻すことこそが自らに残された使命であると。
 そう考えていたからだ。

「……ナダレくん!!」

 悲痛な表情を浮かべるナダレに、梅雨は怒号にも似た声をあげる。

 その声は職場全体に響き、全員の視線が集中する。
 
「家族のために勤しむのは良い……だが本当に大切なのはそういうことではないのだよ。」

 静まり返ったオフィスで梅雨は口を開き、虚ろな目で語り始めた。

「私にもかつて娘がいたのだ……。」

「だが、今は訳あって会えないでいる。」

 微笑み語る梅雨の顔からは悲哀の感情が読み取れる。

 彼もまた、娘との過去に後悔を持っている一人であった。

「失ってからでは取り戻せないものもある……だがキミはまだ取り戻せるはずなのではないかね?」

 梅雨はナダレに問いかける。

 真剣みを帯びたその表情からは、己が過ちを繰り返させたくないという思いがナダレにもひしひしと伝わってくる。

「そう……ですね。」

 ナダレは微かに笑んだ。

 自分がまた別の過ちを犯そうとしていた事に気付けた。

 その事が彼を微笑ませたのである。

「さぁ、帰った帰った!!」

 梅雨は敢えて強い口調でそう言う。

「では、御言葉に甘えて。」

 ナダレはそう答え立ち上がる。

 すると周囲の同僚もまた、歓迎するようにこちらへと笑みを向けていることに気付く。

「行って来い、それが『父』としての役目だ。」

 梅雨は上司らしくナダレに喝を入れ、顎を上に突き上げた。

「はい!!」

 ナダレは活気良く声を発し、カバンを持って外へと走り去って行った。
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