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第一部
五章(7)
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「クラリス様っ!!」
たった数日ぶりとはいえ、まるで何年も聞いていなかったかのようにひどく懐かしい声が耳朶を打った。途端、クラリスにまたがっていた男性は動きを止め、チッ、と舌打ちをするとやけに俊敏な様子でそそくさと逃げ出していく。さすがに見られてはまずい状況だとわかるくらいの理性は持ち合わせていたらしい。
上に乗っていた重石がなくなりほっと息をつくと同時に、視界に紫紺の瞳が映った。ルークは心配そうでもあり、無事だとわかって安心しているようでもあり、けれど怒っているようでもある、複雑な表情を浮かべていた。
彼を見て、クラリスの胸に様々な感情が去来する。彼がいれば大丈夫という安堵の思いと、拒絶されるのではという心配。会いたかった、だけど会いたくなかった。いろいろな感情が絡み合い、胸から溢れてくる。
しかし、やはり一番大きな感情は――
――ルーク。
体を起こしながら、そっと手話で呼びかける。彼に会えたことが嬉しくて、元気そうな様子に安心して、思わず口元が緩んでしまうのは仕方のないことだった。
そのとき、ルークは何かに思い至ったのか視線をわずかに逸らし、「……何でしょう?」と尋ねてきた。その表情は、どこか物憂げなもので、何かを後悔しているようにも見えて。
彼が何を思い、そのような感情を抱いているのかは、クラリスにはわからない。ルークではないから。彼もクラリスの考えていることなんてわからないだろう。だからこそ人と人が分かり合うためには、言葉で伝えなければならないのだ。少なくともクラリスはそう思った。
深呼吸をして少し早くなりかけていた鼓動を落ち着けていく。彼と話す覚悟は、あの男性がやって来る前にとうに決めていたのだ。だからあとはそれを実行するだけ。
ゆっくりと、探り探りでクラリスは手を動かした。
――えっと……まずは、助けてくれてありがとう。あなたがいなければ大変なことになっていたわ。
「……そうです! 怪我はございませんか? エッタはどうしたのですか!? 彼女がいなければクラリス様は――」
――怪我は大丈夫よ。エッタのことは……わたしが離れてくれ、と頼んだの。彼女を責めないでやって。
するとルークは頭を抱えた。何やらぶつぶつと言っているようだが、その言葉はクラリスのところまでは届かず、はっきりとは聞こえない。けれどおそらくクラリスかエッタか、あるいは両方に向けての非難だろう。……エッタを傍から外したことが間違いだったということは、クラリスも理解できていたから。
少々気まずく思っていれば、ルークがハッ、として突然口をつぐんだ。すすす、と視線を逸らし、彼も苦い表情を浮かべている。その理由がさっぱり検討もつかず、クラリスは首を傾げて尋ねた。
――どうしたの?
「いえ……その、申し訳ございません。私はもう手話通訳士ですらない、ただの一介の官吏ですのに……」
その言葉にクラリスは納得した。ルークは今の自分にはクラリスと話す資格すらないと思っていて、それは事実だった。王女が普通の官吏とこのようにして会話することなどありえないと、彼女自身、目の前の彼に教わっていて知っていたのだ。
けれど、それは今のままでなら、ということだ。
――そのことなのだけれど、ルーク、わたしの手話通訳士に戻らない?
「………………はい?」
ルークはぎょっとしたようにこちらを見て、たっぷりと間があったあと、そのような声を発した。目をぱちくりとさせていて、ひどく驚いているのがその様子から簡単にわかるほどだ。
その様子に思わず笑いつつ、クラリスは理由を説明した。
――わたし、王位を目指すことやめたの。
途端、ルークはさらに目を大きく見開いた。唇が音もなく紡ぐ。「なにを……」
クラリスはそっと空を見上げた。初夏の青空が広がっていて、ほんのわずかにグラデーションを描いていた。薄い水色から、濃い青へ。
――わたしに王位は向いていないのよ。……それを人は無責任だと言うのかもしれない。だけど、それでも、エリオットのほうが国王に向いているのは事実で、これが最善だと思うからわたしはこの選択をするわ。
クラリスは視線をまたルークへ向けた。彼はただじっと、言葉に嘘が紛れていないのか確かめるかのようにこちらを見つめている。
――だから、戻って来て。
父に説明された、王位継承権を返上するための根回しについては、口にしなかった。それをする時間稼ぎにルークが必要だと伝えてしまえば、彼はもし戻りたくないと思っていたとしても戻らざるを得なくなる。そうなってしまうのは嫌だった。……ルークは賢いから知られてしまっている可能性もあるけれど。
さぁ、と風が吹いた。ふんわりと若草色のドレスが揺れる。ルークの青みがかった黒髪もかすかに風になびき、静かな時が流れる。
しかしクラリスの心臓はかつてないほどに強く早く脈打っていた。それくらい緊張していたのだ。震えが出てしまわないよう、きゅ、と手を握りしめる。
……やがて。ルークはほんの少しだけ息をつくと、まっすぐな瞳でこちらを見つめてきた。そしてゆっくりと表情を緩めながらクラリスの傍に跪く。
「かしこまりました」
その言葉に、クラリスはほっと息をついた。手の力が緩み、先ほどまでの凄まじい緊張からやっと解放される。
今すぐ自室のベッドに倒れ込みたい、と思いながら、クラリスは――ありがとう、とルークに言った。
――あなたとこれからも一緒にいる事ができて、嬉しいわ。今後もよろしくね。
「はい。全力で尽くさせていただきます」
――そんなにしなくても良いわよ。あなたさえいてくれれば、わたしはどれだけでも頑張れるのだから。
そう言って思わず笑みをこぼせば、ルークもまた口元を緩めた。
そのときルークが立ち上がり、手を差し伸べられた。おそらくエスコートをしてくれるのだろう。クラリスは嬉しくてつい満面の笑みを浮かべると、その手を取り、立ち上がった。
今度は二度と離さないと、心の中で誓って。
たった数日ぶりとはいえ、まるで何年も聞いていなかったかのようにひどく懐かしい声が耳朶を打った。途端、クラリスにまたがっていた男性は動きを止め、チッ、と舌打ちをするとやけに俊敏な様子でそそくさと逃げ出していく。さすがに見られてはまずい状況だとわかるくらいの理性は持ち合わせていたらしい。
上に乗っていた重石がなくなりほっと息をつくと同時に、視界に紫紺の瞳が映った。ルークは心配そうでもあり、無事だとわかって安心しているようでもあり、けれど怒っているようでもある、複雑な表情を浮かべていた。
彼を見て、クラリスの胸に様々な感情が去来する。彼がいれば大丈夫という安堵の思いと、拒絶されるのではという心配。会いたかった、だけど会いたくなかった。いろいろな感情が絡み合い、胸から溢れてくる。
しかし、やはり一番大きな感情は――
――ルーク。
体を起こしながら、そっと手話で呼びかける。彼に会えたことが嬉しくて、元気そうな様子に安心して、思わず口元が緩んでしまうのは仕方のないことだった。
そのとき、ルークは何かに思い至ったのか視線をわずかに逸らし、「……何でしょう?」と尋ねてきた。その表情は、どこか物憂げなもので、何かを後悔しているようにも見えて。
彼が何を思い、そのような感情を抱いているのかは、クラリスにはわからない。ルークではないから。彼もクラリスの考えていることなんてわからないだろう。だからこそ人と人が分かり合うためには、言葉で伝えなければならないのだ。少なくともクラリスはそう思った。
深呼吸をして少し早くなりかけていた鼓動を落ち着けていく。彼と話す覚悟は、あの男性がやって来る前にとうに決めていたのだ。だからあとはそれを実行するだけ。
ゆっくりと、探り探りでクラリスは手を動かした。
――えっと……まずは、助けてくれてありがとう。あなたがいなければ大変なことになっていたわ。
「……そうです! 怪我はございませんか? エッタはどうしたのですか!? 彼女がいなければクラリス様は――」
――怪我は大丈夫よ。エッタのことは……わたしが離れてくれ、と頼んだの。彼女を責めないでやって。
するとルークは頭を抱えた。何やらぶつぶつと言っているようだが、その言葉はクラリスのところまでは届かず、はっきりとは聞こえない。けれどおそらくクラリスかエッタか、あるいは両方に向けての非難だろう。……エッタを傍から外したことが間違いだったということは、クラリスも理解できていたから。
少々気まずく思っていれば、ルークがハッ、として突然口をつぐんだ。すすす、と視線を逸らし、彼も苦い表情を浮かべている。その理由がさっぱり検討もつかず、クラリスは首を傾げて尋ねた。
――どうしたの?
「いえ……その、申し訳ございません。私はもう手話通訳士ですらない、ただの一介の官吏ですのに……」
その言葉にクラリスは納得した。ルークは今の自分にはクラリスと話す資格すらないと思っていて、それは事実だった。王女が普通の官吏とこのようにして会話することなどありえないと、彼女自身、目の前の彼に教わっていて知っていたのだ。
けれど、それは今のままでなら、ということだ。
――そのことなのだけれど、ルーク、わたしの手話通訳士に戻らない?
「………………はい?」
ルークはぎょっとしたようにこちらを見て、たっぷりと間があったあと、そのような声を発した。目をぱちくりとさせていて、ひどく驚いているのがその様子から簡単にわかるほどだ。
その様子に思わず笑いつつ、クラリスは理由を説明した。
――わたし、王位を目指すことやめたの。
途端、ルークはさらに目を大きく見開いた。唇が音もなく紡ぐ。「なにを……」
クラリスはそっと空を見上げた。初夏の青空が広がっていて、ほんのわずかにグラデーションを描いていた。薄い水色から、濃い青へ。
――わたしに王位は向いていないのよ。……それを人は無責任だと言うのかもしれない。だけど、それでも、エリオットのほうが国王に向いているのは事実で、これが最善だと思うからわたしはこの選択をするわ。
クラリスは視線をまたルークへ向けた。彼はただじっと、言葉に嘘が紛れていないのか確かめるかのようにこちらを見つめている。
――だから、戻って来て。
父に説明された、王位継承権を返上するための根回しについては、口にしなかった。それをする時間稼ぎにルークが必要だと伝えてしまえば、彼はもし戻りたくないと思っていたとしても戻らざるを得なくなる。そうなってしまうのは嫌だった。……ルークは賢いから知られてしまっている可能性もあるけれど。
さぁ、と風が吹いた。ふんわりと若草色のドレスが揺れる。ルークの青みがかった黒髪もかすかに風になびき、静かな時が流れる。
しかしクラリスの心臓はかつてないほどに強く早く脈打っていた。それくらい緊張していたのだ。震えが出てしまわないよう、きゅ、と手を握りしめる。
……やがて。ルークはほんの少しだけ息をつくと、まっすぐな瞳でこちらを見つめてきた。そしてゆっくりと表情を緩めながらクラリスの傍に跪く。
「かしこまりました」
その言葉に、クラリスはほっと息をついた。手の力が緩み、先ほどまでの凄まじい緊張からやっと解放される。
今すぐ自室のベッドに倒れ込みたい、と思いながら、クラリスは――ありがとう、とルークに言った。
――あなたとこれからも一緒にいる事ができて、嬉しいわ。今後もよろしくね。
「はい。全力で尽くさせていただきます」
――そんなにしなくても良いわよ。あなたさえいてくれれば、わたしはどれだけでも頑張れるのだから。
そう言って思わず笑みをこぼせば、ルークもまた口元を緩めた。
そのときルークが立ち上がり、手を差し伸べられた。おそらくエスコートをしてくれるのだろう。クラリスは嬉しくてつい満面の笑みを浮かべると、その手を取り、立ち上がった。
今度は二度と離さないと、心の中で誓って。
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