声なし王女と教育係

白藤結

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第一部

四章(7)

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 三人だけになった温室。
 ジェラードはゆっくりとカップを持ち上げて紅茶を口に含むと、にっこりと微笑んだ。その笑顔にはどうしてだか温もりがないように感じて、クラリスは思わずきゅ、と手を握りしめる。心臓がドクドクとやかましかった。
 ジェラードはそっと音もなくティーカップを置くと、口を開く。

「では、教えてくださいますか?」

 動揺が出ないよう作り笑いを意識しながら、クラリスはゆっくりと手を動かす。

 ――ジェラード様に教える義務はございません。

 するとジェラードはより一層笑みを深めた。しかし目は爛々と輝いていて、鋭く、表情の一切を見逃さないかのようにじっとりとこちらを見ている。本当に虎視眈々と獲物を狙う蛇のような男だ。今すぐ逃げ出してルークの元に行きたい、と思いながらも、クラリスはなんとか笑顔を維持したまま手を振る。

 ――そうでしょう?
「さて、それはどうでしょうね」

 互いに笑いあったままの会話だが、ひどく心臓に悪くて。クラリスは思わず頬を引き攣らせながらそのままジェラードを見つめた。これ以上は不用意な発言をして相手に情報を与えてはいけないため、自分からは何も口を開かないつもりだった。
 しばらくそうしていると、ジェラードが小さく息をつく。呆れたようなもので、おや? と思った。彼がこんなふうにわかりやすく感情をあらわにするところなんて、ここ数日一緒にいたけれど、初めて見た気がする……
 もしかしたら彼もこういう貴族らしい会話は苦手なのだろうか? と少しだけ共感したが、そうではなく。

「そうまでして認めないつもりですか」

 苦笑しながら、どこか呆れたようにジェラードは言った。認めないとは何を? と一瞬思ったが、すぐに気づく。
 ――おそらく、彼はクラリスの気持ちを理解しているのだ。王位なんて本当はどうでもよくて、この些細な日常が続いてほしくて、できることならばそんなことについて一切考えたくもないという、誰にも言ったことのない浅ましい本心を。

 どきりと心臓が跳ね、背筋を冷や汗が伝った。さぁっ、と血の気が下がる。なんとかごまかさないと。本心なんて知られてはいけないから。でもどうして?
 予想していなかったことに思わず動揺をしてしまえば、ジェラードはくつりと笑った。相変わらずの鋭い眼光がクラリスを見つめている。
「クラリス様」と、甘やかな声で呼びかけられた。

「正直に言いまして、私はあなたのように人の心を踏みにじる甘えたな人は嫌いです」
 ――……人の心を踏みにじってなんて……

 ジェラードの言葉に、クラリスはつい反論した。そんなことはしていない……はずだ。少なくともクラリスが思う限りでは、そう。
 しかし正面に座っていた彼は「いいえ、踏みにじっています」ときっぱりと言う。

「クラリス様に王になってほしいと願う人は多く、彼らはクラリス様に願いを託しています。それなのにクラリス様が今後のことを決められず、あまつさえ逃げたいと思うなど、踏みにじっている以外に何と言えましょう?」

 クラリスは思わず目を見開く。ズキリと胸が痛み、そっと目を伏せた。
 ……確かに、言われてみればそうなのかもしれない。利己的な目的からクラリスに王位に就いてほしいと願う人も確かにいるかもしれないが、そうではなく純粋にそうなってほしいと思う人もまたいるだろう。
 それなのに自分の気持ちだけで決められずにいて、彼らに向き合えずにいて……ひどく申し訳なかった。

(決めないと……)

 彼らの気持ちに報いるためには。王位を目指すのならば今すぐ目指さないといけないし、目指さないのならば彼らが過度な期待をしてしまわないよう、はっきりと告げなければならない。
 きゅ、と手を握りしめる。早く選択をしなければならない。それはわかっている。十分理解しているが……やはり、先延ばしにしたくて。

(ルーク)

 心の中で彼に呼びかけた。ルーク。いつだってわたしを助けてくれる人。心の支え。彼がいなければクラリスはここまで来られなかった。だから今だって話を聞いてほしくて。迷っている自分を導いてほしくて。

(ルーク)

 呼びかけたくて、だけどこの場にはいないからどうしようもなくて思わず唇を噛んだ、そのとき。

「クラリス様、あなたは自分で決めなければならない。ほかの誰にも頼ってはいけない。それではその者の意見があなた様の意見と混ざってしまうことだから。――もちろん、わかっていますよね?」

 その言葉には、ルークに意見を求めようとしたクラリスを暗に責めるような意味合いがあって。
 顔を上げれば、ジェラードはじっとこちらを見つめていた。おそらくずっとそうしてクラリスを観察しているのだろう。だから話していない感情も彼はわかってしまう。彼に知られてしまう。

 どうしよう、と焦りばかりが膨らむ。どうすれば良いのだろう? ジェラードの言葉は正論だ。だけど、だけど、いったいどうすれば……
 脳内が大混乱で戸惑っていると、「クラリス様」と呼びかけられた。彼の髪と同じ、とろりとした蜂蜜のような甘ったるい声。
 ジェラードはにこにこと笑いながら言う。

「こんなにもいきなりでは難しいかもしれません。それでも、クラリス様はすでに多くの人を待たせているのですから。――決めましょう?」
 ――わたし……
「クラリス様、さぁ」

 軽いパニックの中、そう急かすように言われて。
 そのときクラリスの中にあった感情で一番大きかったのは、罪悪感だった。
 だから――


 ――っ、女王に、なります。


 するとジェラードは満足げに微笑んだ。ぞくりと背筋を悪寒が伝い、嫌な予感が胸中に生まれる。もしかして自分は間違えたのではないだろうか。ここはそう答えるべきではなかったのではないだろうか。そう思うけれど、一度発した――発された言葉は取り消すことができず。
「では、」とジェラードは言う。

「今はここにいない手話通訳士は、傍から離すべきですよ。なんて言ったって彼には〝汚点〟があるのですから。……女王を目指すクラリス様にはふさわしくありません」

 その、言葉に。
 目の前が暗くなり、どっと後悔が押し寄せてきた。



 温室を出て、クラリスは空を見上げた。深い青の空は、クラリスの心とは反対に美しく、爽やかで。

(わたし……)

 泣きたくなる。けれどこんな場所でそうしてしまえばそれこそ〝汚点〟となるのだから、なんとかこらえて自室への道のりを歩み始めた。
 ……選択をした。女王になると決めた。
 それでも。
 ――クラリスの心は未だに揺れ続けていて。
 ふっ、と自嘲する。

(優柔不断ね……)

 すぐにあっちの選択のほうが良かったのでは、と思ってしまう。背負うことが嫌だから。――ほかの人の期待を、命を。だけどもう女王になると決めたのだから、否が応でもそれらを背負わなければならなくて。
 深呼吸をして少し心を落ち着けると、クラリスは表情を引き締めて歩き出した。
 胸の内にある迷いを、抑え込みながら。
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