声なし王女と教育係

白藤結

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第一部

三章(2)

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 ――じゃあ、またあとで。
「はい、クラリス様。必ずお一人にはならないようにしてください。一曲目が終わり次第、すぐに向かいます」

 そう言ってルークはゆっくりと頭を下げると、一足早く舞踏会の会場へ向かった。パタリと扉が閉じられ、クラリスはちらりと周囲を見回す。
 王族が会場へ入場する前に待機する部屋だった。まだ父と母は来ていないため、部屋にいるのはクラリスとエッタ、そして数人の侍女だけである。衛兵たちは部屋の外で警護に当たっていた。

 クラリスはソファーに腰掛けたまま、そっと目を閉じる。遠くからざわめきが聞こえていた。舞踏会の参加者や、問題が起こらないように働く使用人たち、巡回する兵。彼らの声が、立てる音がここまで届き、鼓膜を震わせる。
 ふぅ、と息をついた。緊張は未だ拭いされていない。けれど初めての舞踏会なのだからそれも当然なのだと思うようにして、緊張も受け入れ、ある意味この状況も楽しもうとしていた。会場はどんな風になっているのだろうとか、親しい友人ができるだろうか、とか、そんなことに思いを馳せる。……なかなか心の底からは楽しめないけれど。

 そんなことを思っていると、しばらくして両親がともに部屋に入ってきた。クラリスは立ち上がり、エッタがこちらを見ているのを確認すると手話で挨拶をする。エッタがたどたどしくクラリスの言葉を音にした。緊張がありありと伝わってくる。

(そういえば……エッタが通訳をしたことがあるのは、侍女たち相手のときだけだったわね)

 それなりの人と会うときはいつもルークがいたから、エッタの出番はなかった。それなのにいきなり国王夫妻相手に話さなければならないのだから、これだけ緊張してしまっても仕方ないだろう。もう少し彼女のことに気を配ってやるべきだった、と後悔しつつ、クラリスは表情を取り繕って両親と久しぶりに会話をした。この数ヶ月は、それまでずっとしていなかったダンスの練習をひたすらしていたため、会う機会なんてほとんどなかったのだ。しかもその時間も短く、じっくりと会話をすることもできていなかった。
 父が、どこか感慨深けに呟く。

「クラリスは……本当に大きくなったな」
「もう社交界デビューだものねぇ……。本当に、短い十五年間だったわ」

 母が頬に手を当て、おっとりと笑う。二人に嬉しそうに見つめられるのが恥ずかしくて、思わず視線を逸らした。頬が熱っぽい。
 和やかな雰囲気が部屋に満ちていると、コンコン、と扉がノックされた。国王の側近が一旦外に出て、そしてすぐに戻って来ると、クラリスたちに向けて言う。

「入場が終わったそうです」

 父は頷いて鷹揚に立ち上がり、母に向けて手を差し伸べる。母がエスコートを受けて立ち上がるのを見て、クラリスも慌てて腰を上げた。これから王族の入場だ。やかましくなってきた鼓動を必死でなだめる。緊張で、指先に力が入らない。

「では行くぞ」

 父の言葉に、家族は三人揃って会場へ向かった。部屋を出て短くない距離を進むにつれ、徐々にざわめきが大きくなっていく。
 会場に着くと、王族専用の扉の前に控えていた衛兵がすぐさま扉を開けた。「王族方のおなりです」と、それほど声を張っているわけではないのによく通る声が聞こえる。両親は一切動じることなく扉をくぐり抜けていった。

(え、心の準備をさせて……!)

 まさか気持ちを整える時間が一切ないとは思っておらず、クラリスは動揺しながらも、それを出さないよう必死に抑えて両親に続いて入場した。そして、目に飛び込んできた光景に思わず息を呑む。
 いくつもの豪奢なシャンデリアがあちらこちらに飾られており、その光に照らされて多くの人々がいた。色彩鮮やかなドレスを着た女性たちに、燕尾服の紳士たち。ところどころ使用人たちが隅に控えており、おそらく彼らは飲み物を交換したりするのだと思われる。

 あまりにも絢爛豪華な光景に目を奪われているが、すぐに立ち止まっていてはいけないと、両親の背を追って歩き出す。父が立ち止まったので一歩後ろに下がった場所で止まれば、すぐに父が大勢に向かって話し始めた。
 父の話を聞き流しつつ、クラリスはこっそりあたりを見回した。この人混みの中に、ルークがいるはずなのだ。あとで合流しやすくするためにも見つけていたほうが良いはず……と思ったのだが、やはり成人済みの貴族がほぼ全員集まっているだけあって、なかなか見つからない。

 目を皿のようにして探している間に父の話は終わり、楽団の音楽が響き始めた。今日社交界デビューする人も緊張せず踊れるように、という配慮だろうか、最初は簡単なワルツだった。目の前に立っていた父が母をエスコートして中央へと向かい、踊り始める。くるりくるりと翻る裾には宝石があちらこちらに縫い付けられており、キラキラと輝いていた。

「クラリス」

 しばらく見惚れていれば、急に声をかけられた。ハッ、と我に返れば、エリオットがエスコートをするようにこちらに手を差し伸べている。そろそろ踊らなければならないのだろう。もしここでモタモタしていたら、下手したら下級貴族たちがこのワルツを踊れなくなってしまうかもしれない。慌てて彼の手を取り、クラリスは中央へと向かった。緊張しながら、エリオットのリードに身を任せてステップを踏む。

 瞳とはまた違った色合いの黄緑色のドレスが揺れた。その合間合間に、クラリスはルークを探す。緊張でドキドキとやかましい心臓も、いつも一緒にいたルークを見つければ落ち着くかもしれなかったから。
 そのときだった。「クラリス」と、穏やかな声がすぐ近くから降ってくる。顔を上げれば、エリオットが笑みを浮かべながら――しかしどこか真剣そうな瞳でこちらを見ていた。

 いつものように手話で――なに? と訪ねようとして、そういえばダンスの途中だからできないことに気づく。そもそも彼は手話がわからないのだから、会話のしようがなかった。
 あたふたとしていると、「そのまま聞いて」と、掠れた声で言われる。

「今後こうして話す機会なんてないだろうからね……率直に言わせてもらうよ」

 すっ、と息を吸う音。見上げる彼の顔の後ろにはシャンデリアがあって、眩しい。思わず目を細めた。
 声量を抑えた声が耳朶を打つ。

「君はもっと自分というものを持ったほうがいいし、自分の中にある一番譲れないものを明確化しておいたほうがいいよ。そうじゃなきゃ、この世界では生きていけない」

 その言葉の意味はさっぱりわからなかった。何か警告をしてくれているのはわかるし、それが真にクラリスのことを思ってというのは、なんとなく伝わってくる。けれどその意図をクラリスはひと匙も汲み取れなかった。
 それがエリオットもわかったのだろうか、小さく苦笑をする。クラリスはじっ、と見つめたが、彼はそれ以降一切口を開くことはなかった。
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