声なし王女と教育係

白藤結

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第一部

プロローグ(3)

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「ど、どういうことでしょう?」

 動揺し、思わずどもりながら、ルークは尋ねた。国王に発言の許可なく問いかけることなど本来ならば不敬なことだが、このときばかりは余裕がなくて、そこまで気が回らなかった。
 そんな動揺を汲み取ってか、国王は咎めることなく「そのままの意味だ」と言う。

「クラリスの教育係だ。――隣国のラウウィスに留学し、学院も首席で卒業した其方なら適任だと思ってな」

 その言葉は一見、何の変哲もない、普通の、よくある理由のようだった。しかし〝あの事件〟を知る――というか起こしてしまったルークからすれば、それは不可解な文言だった。理由になっていない。国王も十中八九〝あの事件〟を知っているはずなのだから、むしろ逆で、ルークを王女の教育係になどしないはずなのに……

 そのとき、国王の眼光がきらりと鋭くなった。慌ててルークは表情を取り繕う。どうやら疑問を表に出してしまっていたらしい。深く呼吸をし、いつの間にか勢いを増していた鼓動を落ち着ける。冷静になれ、と、心の中で繰り返した。

(国王陛下のことだ。何か理由があるはず……)

 ……しばらくして、体を内側から揺さぶっていた鼓動が落ち着きを取り戻し、ふぅ、と息をついた。そうしてやっと、動揺していたときには頭から抜けていたことが思い出される。
 王女の存在だ。彼女とて、おそらく〝あの事件〟のことを知らなくとも、ルークのような下級役人を教育係としてつけられるのは不本意なことだろう。
 そう思い、ちらりと横目で王女を見たのだが、彼女はくしゃりと顔を歪めていた。思わずため息をつきたくなるのをこらえる。

 感情をあらわにするなんて、王族としてあまりよろしくない――むしろ落第な態度だ。隣に座られたときにも思ったのだが、どうやら彼女には王族としての自覚がなっていないらしい。
 もう、十三歳なのに、だ。

(いったいどういう育ち方をしたんだか……)

 一瞬、無邪気な少年の笑顔が脳裡に浮かんだが、それを振り払い、心の中で今後のことに思いを馳せる。国王の言うがままに行動した王女。それならば今回も国王の命令を粛々と受け入れるに違いなく、またルークにも拒否権はないのだから、もうすでにこの王女の教育係となるのは決定事項と言っても良かった。
 しかし、そうはいかなくて。
 国王は首を傾げた。

「嫌なのか?」

 それはルークではなく、隣にいた王女に向けられた言葉で。そちらを横目で見れば、王女はこくりと小さく、でも確かに頷いた。相変わらず声を発さないまま。
「理由は?」と、国王が、ルークに向けるものよりは幾分か柔らかな声色で問いかける。王女はわずかに視線をさまよわせたあと、許可を取ることもなくゆっくりと立ち上がった。あまりにも不敬な態度にぎょっとしているうちに、彼女は国王のすぐそばにまで行く。

 すると国王は慣れた様子で右の手のひらを上に向けた。よくわからないその仕草にルークが内心訝しんでいると、王女は手のひらに指で何やら書き始めた。そこに至って、ようやっと気づく。
 彼女は話せないのだ。だから何か伝えようとしたら文字にしないといけないし、感情表現も大げさにしないと伝わらない。人間の、一番の表現手段である〝声〟がないのだから、必然的に王族らしくなくなってしまう。

(それならば何か声の代わりとなるものがないと、王女殿下は目の前の人に感情も伝えられないのか……)

 それはひどく不便なことだろう。ルークは顎に手を当て、ゆっくりと思考を深めていく。文字ではダメだ。今のように毎回誰かに近寄らないと伝えられないし、一対一の会話となる。では誰かに話したいことを伝え、代弁させるのが良いだろうか? ……良いかもしれないが、そのための手段に文字では時間がかかりすぎる。社交とはすなわち会話だ。毎回毎回時間がかかってしまっていては、あまり人が近寄ってこなくなってしまうだろう。もっと短縮する必要がある。

 ふと、かつてどこかの本で読んだことが思い起こされた。字は形と音と意味で構成されている、というもの。彼女は音で表現することができないから、字を――言葉を、形と意味で構成しなければならない。言葉を素早く伝えるためには、字に代わる〝何かしらの形〟と意味を結びつけ、新たな伝達手段を創造しなければならない。

(だが、創造するのは難しい……)

 どこかに、そのような手段がないだろうか。すでに確立している、もしくはそのような状態に近い意思伝達手段……。
 そんなことを思っていると、「なるほどな」と、国王の声が耳に届いた。はっ、として思考の海から浮かび上がれば、国王は王女から何か聞いた――というか手のひらに書かれた字を読んだ――のか、ひとつ頷いたあと、ルークのほうに視線を向けてきた。

「ルーク・アドラン。クラリスの教育係に就くとなると、其方は今の仕事を辞めなければならなくなるだろう。それに関してはどう思う?」

 国王がそう問いかけてきたということは、王女はそのことを負い目に感じていて、だから申し出に苦渋の色を示したのだろうか。ちらりと王女のほうを見れば、彼女はじっと、こちらを見つめてきていた。真剣な瞳で。
 そっと、口を開いた。

「給料さえさほど変わらなければ、構いません。ですが、そもそも――」
「ということだ。クラリス、これから彼が其方の教育係となる」

 ルークの言葉を遮り、国王が言った。なんとなく強引な気がしなくもない。王女もそう思っているのか、渋面を浮かべたままだったが、やがてこくりと頷いた。どうせ苦言を呈しても丸め込まれると思ったのかもしれない。
 国王は一人、笑った。

「では、私は彼と話があるから、其方は部屋に戻りなさい。話が終わり次第、彼を其方の元にやろう」

 王女はまた頷き、足早に扉の前へと向かった。出る直前、ぴたりと足を止めてこちらに体を向けると、そっとお辞儀をする。それらの動作は流れるようなもので、やはり王族だと思えるものだったが、彼女は社交のルールをあまり理解できていないような気がする。そこらへんを徹底させたいところだが、まずは〝声〟の代わりとなる何らかの意思伝達手段を見つけ、できるようにならなければ、それらを徹底したところで結局ルールを破ってしまうことになるだろう。

(前途多難だな……)

 思わず、心の中でそうため息をついた。彼女は話せないという、貴族にとって不利な問題を抱えているから、それを補うために様々なことをしなければならない。教育係となるルークも、王女本人も、これから多大な苦労をすることになるだろう。
 そのとき、国王が「して、」と声を発した。慌てて意識を切り替える。

「先ほど、其方は何を言いたかったのだ? まぁ、予想はつくが」

 やはり予想はついているのか、と心の中で呟きながら、ルークはそっと唇を震わせた。

「恐れながら、王女殿下のことを真に思うのならば、私のような者を教育係とするのは愚策だと思われます」

 理由は、話さなかった。伝えなくても国王ならば知っているだろうし、ルーク自身、未だ心の傷が癒えていなかったから、口にすることができなかった。少しずつかさぶたになり始めていたそれが、また血を流してしまいそうで。
「そうか」と国王は言う。

「だが、其方をクラリスの教育係にするのは決定事項だ。――理由はいずれ分かろう。其方が適任だったのだ」

 そうとだけ言うと、国王は話を打ち切った。「詳しい話はヘクターに」と言って立ち上がる。どうやら国王本人は話をしないらしい。おそらく忙しくてあまり時間がないのだろう。
 国王と入れ替わりで側近だと思われる男性が部屋に入ってきた。彼がヘクターだろうか。彼から給料のことや今後の生活、注意事項などを伝えられ、一通り終わるとルークは部屋を追い出された。言われた通り、王女の部屋へと向かう。

 ――そうして、ルークは王女クラリスの教育係となった。
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