未来について話そうか

水綺はく

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未来について話そうか

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 打算的でロマンチックとはかけ離れた場所。来なければよかった。
 喧騒な大衆居酒屋でお酒の入ったジョッキがテーブルに叩きつけられる音を聞きながら私はそう激しく後悔した。
 向かい合う六人の男女の間に隔てられたテーブル上には誰かが頼んだシーザーサラダに焼き鳥盛り合わせ、煮卵がなかなか箸で運んでもらえず乾いてカピカピになっている。
 黒髪ストレートでナチュラルメイクの春美と茶髪ショートカットで巨乳の真璃子の間に挟まれながら取り敢えず髪を結って久々にまつ毛をビューラーで持ち上げた私は前に座る男たちがこちらをじっくり吟味しているのを確認して全てが阿呆らしく思えてきた。
 ああ、阿呆らしい。そうだよね。大人になって今更、心がトキめくような恋なんて訪れるはずがないよね。社会人になったら学生の時みたいに、好きかも…ドキドキ…心臓の鼓動が止まらない…‼︎なんて、そんな恋があるはずないよね。
 後悔していると前にいる男たちが意気揚々と自己紹介を始める。
 「じゃあ、順番に自己紹介を…前田篤人です!えー…趣味はフットサルとネットサーフィンです。今日はみんな集まってくれてありがとう!真璃子ちゃんとは大学の時のテニサーからの繋がりで今日はこんな美女たちと(笑)合コン出来て最高です!よろしく!…あ、俺は女性陣と同じ25歳でタメだから敬語とか大丈夫だからね!」
 よく言えば明朗そう、悪く言えばくどそうな黒髪ツーブロック、口元の下に黒子の男がそう言って爽やかな笑みを浮かべる。
 「棚橋稔です。32歳で趣味は旅行です。海とか行くの好きだけど泳げません。この中で最年長だけどタメ口で構わないです。……あとは犬猫アレルギーです。」
 最後の情報、意味分かんないしなんなんだよ。そういうマイナスな発言を初っ端の自己紹介でするなよ。
 私の真ん前にいる茶髪のもじゃもじゃ頭で鼻頭に黒子のついた男に内心、一人ツッコミをする。
 「……桃田勇気。趣味はゲームです。……あ、24でーす。」
 自己紹介が一番短い泣きぼくろの金髪韓国アイドルもどきは一番若くて一番顔が良いからか、気だるげでやる気が微塵も感じられなくてこっちもげんなりする。
 各々の自己紹介を終えて飲みに入る私達は初対面特有の緊張感と下心と探り合い、好奇心を交えて喋りながらアルコールを流し込む。
 これが大人の社交場か…学生の時とは大違いだなぁ…
 深い話をするには関係性が浅すぎる私達は各々が抱える事情や考えは伏せて適当に浅い話をするしかない。
 えーあの映画、気になってたんだ~私も観ようかな~!
 ゲームってどんなのやるの?私もエペやったことある~!
 旅行っていいよね~!私は沖縄の海に行ってみたいんだ~!
 ……つまらなくてだるいことを頑張ってやるのはみんな恋人が欲しいからで、ここを乗り越えなければ大人の恋愛は中々成立しない。
 学生の時とは違うから。……そう、違うのだ。
 倫也と出会った学生時代とは大きく違う。
 ついこの間まで長く付き合っていた倫也と出会ったのは高校二年生の時だった。
 あの時の記憶が騒々しい居酒屋の真ん中で静かにフラッシュバックした。
 「あ、それ…」
 通学途中の電車で吊り革に捕まりながら片手に文庫本を開いて読書していた時だった。
 隣で同じ学校の制服を着た男子生徒が同じように読書していた為、横目に見ると同じ表紙の文庫本を開いていた。
 思わず口を開くと男子生徒は照れくさそうにはにかんで小さく会釈した。
 “アルジャーノンに花束を“
 別に普段から熱心な読書家ではない。むしろ本を開くよりもスマホを開く時間の方が多いし、音楽を聴く方が楽しくて好きだ。でも通学途中の車内で音楽を聴いていると夢中になって目的地を忘れて乗り過ごしたことがあったから適度に集中出来て、飽きたタイミングで目的地に辿り着く読書をするようになった。
 たまたま家にあったお父さんの文庫本を勝手に借りて読んでいただけだった。
 でも同じ学校の男子生徒が真横で同じ文庫本を読んでいたことにはときめいて運命を感じた。
 「…何年何組ですか?」
 そう尋ねると彼は嬉しそうに頬を緩めて答えた。
 「2年4組、芳永倫也。」
 その瞬間から無関係だった私たち二人の時が噛み合って一本の長い道へと繋がった。
 その後、私達は急速に親しくなって倫也から告白されて付き合った。
 付き合った後に倫也から暴露されたが実は倫也はあの本を読んでいなくて、前から私が気になっていたから声を掛けてもらいたくてあの本をわざわざ買って開いて、私が気づくのを待っていたそうだ。
 なんともいじらしい彼の遠回しなアプローチに尚のこと胸が熱くなって嬉しかった。
 手を繋いだのもキスをしたのもセックスをしたのも、他の女子と喋っているのを見て嫉妬したのも全て倫也が初めてだった。
 趣味は合わないけれど連絡頻度と生活リズムは互いに合っていて気づけば八年近く交際していた。
 私達はきっとこのまま自然な流れで結婚する…そう信じて疑わなかった。
 幾度、喧嘩して別れようとしても離れられなかった私達は堅固な鎖で繋がれた運命の相手なのだと信じていた。


 無理して会話するつまらない飲み会を終えて帰宅すると布団を敷いてメイクを落とすことなく倒れ込んだ。
 スマホを見るとラインが一件、通知されている。誰からなのか見ようと思ったが、アルコールの入った体は疲労感と同時に眠気を誘って気付いたら目を閉じて眠りについていた。
 その日、私は浅い眠りの中で夢を見た。
 波が揺れる砂浜の上で茶色いトイプードルが尻尾を振って駆け寄ってくる。つぶらな瞳をしたトイプードルを優しくて撫でていると隣から男の人の手が出てきて一緒にトイプードルの頭を撫で始めた。
 私が視線をトイプードルから隣に移すと目に映ったのは倫也の横顔だった。
 くっきりとした輪郭にシャープな顎のライン…散々見てきた彼の横顔。
 彼は私を見ることなくトイプードルを見つめて撫でている。私も彼から視線を外してトイプードルを撫でると急に目が覚めて枕横に置かれた目覚まし時計が視界に入った。
 時計の短い針は朝方4時を指していて、ゆっくりと起き上がった私は皮脂でベタベタになった顔を今すぐ洗いたい衝動に駆られながらスマホを手に取り、ラインを開いた。
 ”さっきはありがとう!よかったら今度二人でご飯にでも行かない⁇“
 文字を読みながら上に書かれた名前を確認する。
 “棚橋稔“
 頭に浮かんだのは32歳の茶色いもじゃもじゃ頭だった。
 あぁ、あの人か…
 ぼんやりと朧げな記憶を掘り起こしながら、こちらこそありがとう。ぜひ行きましょう!と返信する。
 ラインを閉じるともじゃもじゃ頭は頭から消えて倫也の顔が浮かんだ。
 いくら頭から追い出そうとしても消えないあいつの顔。そして思い出すたびに涙が出るのだ。
 瞳から涙が溢れて頬を伝う感覚。生暖かい涙が流れた跡は少しだけ涼しい。
 まだ好きだよ。だって八年間、ずっと近くにいたのだから簡単に忘れられるわけがない。
 やさしかった思い出が数えきれないほどあって手放すには多すぎる。
 でもあれから三ヶ月が経ったのだ。この三ヶ月間、私は辛く苦しくて毎日、泣いていた。
 でもいくら泣いてもラインを開いても倫也から連絡が来ることはなかった。
 本当は待っている。彼から連絡が来るのをずっと待っている。でも倫也はほぼ毎日、連絡していた日々が嘘かのようにパタリと連絡をやめた。
 きっともう私のことなんて忘れている。いや、でも、まだ……期待と不安、絶望が入り混じった私の感情はぐちゃぐちゃになって毎日、生きるのがやっとの状態だ。
 倫也はそうじゃないの?私と同じ気持ちになっていないの?
 どんなに知りたくても彼の気持ちはもう聞けない。


 「犬猫アレルギーなんだよね?」
 向かいの席に座る棚橋稔に尋ねると彼は一瞬、目をパチクリさせてから落ち着いた様子で、あぁ…と頷いた。
 大人な雰囲気漂うシックなモノトーン調の焼肉店でトングを片手にカルビを網の上に焼く稔は肉の様子を窺う度に伏し目がちになってまつ毛が揺れる。
 「そうだよ。可愛いなぁ…とは思うんだけど近づくとくしゃみが止まらなくなって目が真っ赤に充血して痒くなる。中学の時に近所の飼い猫を撫でて帰ったら目がパンパンに腫れて眼科に行ったことあったよ。友達の家のダックスフンドもちょっと近付いただけで鼻がむずむずし出して大変だったんだ。」
 網の上に丁寧に肉を並べる稔の手つきを見て私は一気に肉を置いて雑に焼きたい衝動に駆られながら稔の話に相槌を打つ。
 「へぇ~、私は小さい頃、ご近所さんの飼っていたゴールデンレトリバーを預かったことがあるんだけどそんな風にはならなかったなぁ…友達の家のわんちゃんもなんともならないし…」
 「羨ましいなぁ…僕なんて一生、犬猫は飼えないからね。ペットのいる生活って憧れるけど僕はハムスターが限界かな。」
 稔が焼き上がった肉を私の小皿の上に置いた。私はそれを割り箸にとって口に入れる。
 稔の焼いた肉は中まで火が通っていて丁寧な味がした。
 私と倫也は面倒くさがりだから一緒に焼肉に行くと互いに雑に焼くため、半生だったり焦げた肉が混ざっているけど稔の焼く肉はそんなものが一切入ってなかった。
 食事を終えて稔の運転するセダンの助手席に座ると真っ直ぐ帰ると思っていた私に稔が突然、寄りたい場所があると言ってきた。
 どこ?と尋ねると彼は、ちょっとね。誰かと眺めたかった場所なんだ…と言って22時の高速道路を走らせた。
 車窓から流れるオレンジ色の柔らかな光をボーッと見つめながら一瞬で消えていく景色を虚ろに眺める。
 高速道路を抜けてしばらくすると稔は車通りの少ない夜道を通って小さな駐車場に車を停めた。
 車を降りて彼の後を追うが辺りは暗く、繁華街とかけ離れた閑静な住宅街に不信感を覚える。
 「ねぇ、どこなの?ここ…」
 眉間に皺を寄せて彼に声を上げると耳の裏で波の音が聞こえてきた。
 ハッとして前を向くと目の前に海岸が映って真っ暗な砂浜に波が揺れている。
 「海なら最初からそう言ってくれればいいのに…」
 砂浜を歩きながら私が肩をすくめると彼は前を向いて歩いたまま、言わない方が反応を楽しめるから、と返した。
 夜の海なんて行ったところでやることなんか何もない。ただ砂浜を歩いて、真っ暗な夜空と海に吸い込まれないようにするだけ。
 「しょうもない話していい?」
 急に足を止めた稔が口を開いた為、私は静かに頷いた。
 「一昨日、三年付き合ってた元カノの結婚式だったんだ。」
 突然の告白に私は目を見開いて口をぱっくりと開ける。
 え…と声を上げたまま、それ以上の言葉が見つからなかった。
 なんて言えばいいのだろう…お気の毒に?いや、それはなんか違うよな。
 言葉選びに悩んでいると稔はお構いなしに話し続けた。
 「この子と結婚すると思っていた子だった。…でも些細な思い違いで喧嘩になって、それから三年間の積み上げたものが嘘かのようにあっという間に崩れてなくなった。…僕が悪かったんだ。もっと早く僕達の未来について話し合えばよかったんだ。それなのに面倒なことから逃げ続けた結果、愛想を尽かされた。きっと彼女は僕と付き合っている間、ずっと不安で仕方なかったんだ。それを僕はこのままでいいじゃんって逃げていた。」
 稔の告白に私は三ヶ月前の倫也との記憶がフラッシュバックした。
 テーブルに乱雑に置かれたフィギュアと積み重なったCD、ぐちゃぐちゃのベッド上に脱ぎ捨てられた灰色のパジャマ…見慣れた倫也のアパートの一室で苛立ったように放った彼の一言。
 「もう、めんどくせぇよ。」
 その言葉を聞いた瞬間、私たちの八年間は輝きを失って途端に灰になった。
 「…最低。」
 涙を流しながらそう呟いた私は彼の家を飛び出して号泣しながら帰宅した。
 本当は追いかけて欲しくて一瞬だけ後ろを振り向いたけれどあいつは追いかけてこなかった。
 私をひとりぼっちにして野放しにした。
 私と付き合い出した時、すでに倫也の家族は別居してバラバラになっていた。
 中学二年生の時、倫也のお母さんとお父さんが別居した。倫也は父と暮らして、倫也の妹は母と暮らすかたちで離れ離れになった。そのせいか彼は結婚に対して否定的なことばかり言っていた。
 "夫婦なんてかたちだけだ。運命なんて存在しない。愛は一瞬で冷める冷たいもの。永遠を誓ってもいずれ崩れるときが来る。"
 そうやって否定ばかりして私達を結婚から遠ざけていた。
 私はそんな殻に閉じこもった倫也の心を温めて引っ張り出してあげたかった。
 だけどいくら会っても変わらない彼の価値観、セックスする度に繰り返される避妊行為に不安と不満が募っていった。
 私達、ずっといつまでもこのままなの?
 それは幸せというよりも恐怖に近かった。
 一緒にいる時、確かに好きで幸せだった。でもそれだけで満足出来るには年月が経ち過ぎていた。
 時折、不安になって倫也にそれを訴えても彼は頑なに自分の意見を変えなかった。
 それはまるで不仲な両親に対する反骨精神にも思えた。愛に飢えた子供がムキになって抗っているみたいに…
 「私のことを本当に愛しているのなら結婚したいと思うのが普通だよ!」
 彼と口論になって思わずそう叫んだところでさっきの台詞が返ってきた。
 もう、めんどくせぇよ。
 あいつは私に八年間をそう言って投げ捨てた。
 最低だ。本当に最悪な男だ。
 怒り狂うと同時に涙が止まらなかった。涙が止まらなくて、怒りよりも悲しみと寂しさが込み上げてきた。
 あんなに好きだったのに…まだ好きなのに…なんであんな男と出会ってしまったのだろう。
 十七歳の時、あいつに話しかけなければよかった。そしたら私は今頃、あいつのことなんて知らないで済んだのに…
 後悔する、どこまでも。でもあいつと出会っていない私はもっと嫌だ。

 「炭香ちゃん。」
 急に名前を呼ばれてハッとした私は稔の顔を見る。稔の輪郭は暗闇に溶けていて丸い瞳が静かに光っていた。すぐ側では延々と繰り返されるさざなみがやさしい音を立てている。
 「僕たち二人の未来について話そうか。」
 稔はそう言って私にくしゃっとした笑顔を見せた。その瞬間、私の頬に一筋の涙が溢れた。
 嗚呼、私、本当はこの言葉を倫也から聞きたかったんだ。倫也がそう言ってくれるのをずっとずっと待っていた。
 だけど倫也はいくら待っても手を差し伸べることも引っ張ることもしなかった。ふにゃふにゃになった私の腕は誰かに引っ張ってもらうのを本当は心待ちにしていた。
 揺れる波のそばで砂浜に腰を下ろした私と稔は他愛もない話をした。
 住むならどこがいい?
 仕事はどうする?
 子供は何人ほしい?
 ハムスターは何匹飼う?
 本当にそうなるのかなんて分からないのに楽しくて具体的に話した。
 倫也と出来なかったことを稔と話すことで埋めた。
 果てしない海の先には真っ暗な夜空と凛とした半月が見える。
 私達がいくらぐちゃぐちゃになっても海はいつまでも存在して波を揺らしている。
 「素敵な景色だね…」
 暗闇に広がる大きな海と空、静かな月光に思わずそう呟いた。
 うるさいものが何もないやさしい景色に心が洗われる。
 稔は私をセダンに乗せて家の近くまで送ってくれた。
 帰宅してラインを開くと通知が二件、入っていた。
 一件はさっきまで一緒にいた稔からで、もう一件は倫也からだった。
 “ごめんね。“
 倫也からのラインにただ一言、そう書かれていた。
 喧嘩するたびに倫也が送ってくる謝罪の言葉…私はいつもそれに応えて仲直りしていた。
 だけど喧嘩はどんなに長くても一週間が限界で私が悪くても倫也はすぐに謝ってくれた。それなのに今回は三ヶ月も連絡してくれなかった。
 この三ヶ月間、不安と寂しさでいっぱいだったのに…
 私の頭には熱い恋愛感情よりも冷たい未来が浮かぶ。それはまた繰り返される避妊行為と喧嘩、乾いて偏った倫也の思想……もう嫌だよ。これ以上、我慢して同じことの繰り返しなんてしたくない。
 感情的になって涙を流すと頭の奥で稔の声が響いた。
 ”僕たち二人の未来について話そうか“
 その瞬間、私はハッとして倫也のラインを閉じると稔からのメッセージを開いた。
 “今日はありがとう。次はどこに行こうか?“
 稔からのメッセージを読むと私は安堵と同時にわずかな寂しさを覚える。
 本当はこのメッセージが倫也からだったらよかったのに…
 あの会話も全部、倫也だったらよかった。でも倫也は違う。倫也は私にあんな話なんてしない。
 “また海に行きたいなぁ…それからプラネタリウムとか!“
 私は稔に返信するとそっとラインを閉じてお風呂に入った。
 温かなお湯に浸かりながら虚しさの奥で新しい未来を感じていた…

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