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62. 黒の秘密
しおりを挟む「じゃあ、おやすみ!」
食器を洗い終えた頃、テレビの前に座っていた皓人さんはおもむろに立ち上がると、私たちにそう告げた。戸惑う私たちに、彼はいつもと変わらない余裕の笑みを見せる。
「ちょっと早いけど、おれはもう部屋に戻って適当に寝るよ。さすがに彼氏じゃないやつに風呂上がりの姿とか見せたくないでしょ?」
当たり前のことのように、皓人さんは言った。彼の言っていることは、正しい。けれども、唐突すぎて頭が追い付かない。
「うちは、玄也の部屋から風呂も洗面所も直接行ける作りになってるから、リビングの扉閉めちゃえばおれに会うことも無いんだけど、まあ、念のため、ね」
涼しい顔で、皓人さんは言った。
「皓人は風呂とか洗面所、使わないで良いのか?」
「うん、明日でいいや。だから、おやすみ」
そう言ってヒラヒラと手を振りながら、自分の部屋の扉に向かって歩き始めた皓人さんだったが、その途中で何かを思い出したかのように足を止めた。くるり、とこちらへ向き直った彼は、私に向かってふわり、と微笑んだ。
「また会えて良かったよ、茉里ちゃん」
それだけ言うと、彼は「じゃあね」と手を振って扉の向こうへ消えていった。残された私たちを、気まずい空気が包み込んだ。
「……なんか飲むか?」
絞り出された菊地さんの言葉に、私は静かに頷く。彼は戸棚からグラスを取り出し、冷蔵庫の扉を開ける。一瞬見ただけで、飲み物の種類が豊富なことが分かった。まるで、皓人さんの家みたいだ。
いや、違う。皓人さんの家はここで、じゃあ、あそこは?
やはり、頭の中の整理がつかない。
冷蔵庫のポケットに、青汁が収まっている。菊地さんの家なんだから、当たり前だ。菊地さんの家であり、皓人さんの家でもある。その事実が、なかなか飲み込めない。
「はい」
私が頭のなかでモヤモヤと考えている間に用意されていた飲み物が、目の前に差し出される。
「オレンジジュースのレモンジュース割り。スッキリしていいかな、と思って」
菊地さんの優しい気遣いに微笑みながら、私はグラスに口をつける。ほどよい酸味が、身体に染みる。
「この部屋は、長いんですか?」
グラスをキッチンカウンターに置きながら、私は問いかける。
「もう4年くらい経つかな。男同士のルームシェア用の物件って、見つけるの簡単じゃなくて。ここは広さもあってお互いの生活スタイルを保てるし、家賃もそこそこで住みやすくてさ」
私の右隣に並んで、菊地さんもグラスを傾ける。グラスの中身は、私のものと同じだ。
「アイツは特殊な職業で出張も少なくないし、自分の仕事部屋でも寝泊まりしてて、ただのサラリーマンの俺とは、生活スタイルが違うからさ」
菊地さんの言葉に、少しだけ胸が痛んだ。
仕事部屋。それはきっと、私が皓人さんの家だと呼んでいた、あの場所のこと。思い返せば、皓人さんはあそこを自由空間だのなんだのと呼んでいて、家だと呼んだことは一度もなかった。
皓人さんの家は、ここ。
決してウソをつかれていたわけではないけれど、騙されたみたいな気持ちが拭えない。
何かを納得しきれない気持ちを、グラスの中身と共にグイ、と喉の向こうに押し流す。
「ファッションデザイナーなんて、特殊な職業ですもんね」
「うん、俺もビックリしたよ。高校で出会ったとき、アイツはどこか特別だとは思ったけど、そんな才能を持ってたとは想像してなかったから」
空になった私のグラスをそっと取り上げると、自分のそれと合わせて、菊地さんはシンクの脇に置いた。
「俺の部屋、行く?」
相変わらず、どことなく緊張した様子の菊地さんの言葉に、私は小さく頷いた。そのままゆっくりと彼に手を引かれて、私たちはリビングを後にした。
ガチャリ。やたらと大きく響いたドアノブの音に、なぜか私まで緊張してしまう。初めて足を踏み入れる、菊地さんの部屋。彼自身の手で開かれた扉の向こうは、極めて普通の男性の部屋だった。
壁際に寄せられたシングルよりも少し大きめのベッドに、本棚、そしてデスク。クローゼットもある。散らかっているわけでもなく、適度に生活感のある部屋は、私の中の菊地さんのイメージ通りだ。
彼がなぜこんなにも緊張しているのか、疑問に思うほどに。
私が彼の本棚をじっくりと見つめている間に、菊地さんは扉を閉めて、ベッドに腰かける。
「期待させちゃって悪いけど、いかがわしい類いの本は無いから」
ようやく戻ってきた彼の軽口に、思わず笑い声が漏れてしまう。
「そんなの、期待してませんよ」
と言いながら、一番下の段にある高校の卒業アルバムに目が止まる。
「これ、見ても良いですか?」
棚から取り出せば、菊地さんは照れたように口許を歪ませながらも、頷いてくれた。彼の隣に腰かけて、ゆっくりとページを捲る。
あどけない笑顔を浮かべる、今よりもグッと若い彼の姿に、ついつい笑顔が漏れる。写真に写る彼はいつだって誰かに囲まれていて、その社交性の高さと人々から慕われている様子が、そこからも窺われた。今の菊地さんと、あまり変わらない。
男子生徒だけでなく、女子生徒にも囲まれていて、彼が学生時代もモテていたであろうことが容易に想像できた。
「元カノも、写ってます?」
ポツリ、と零れた言葉を、菊地さんはすぐに掬い上げる。
「アルバムには、いるよ」
「何人ですか?」
「2人。誰か、までは教えない」
そう言いながら、彼の頭が私の肩に載る。その重みが、なんだか甘く切なかった。
「モテモテだったんでしょうね」
「たぶん、中谷ほどじゃないよ」
さわさわと、菊地さんの髪の毛が私の首もとをくすぐった。不思議と、その感覚は不快じゃない。
「2人とも、同じ理由で振られた」
「菊地さんが振られたんですか? なんか、想像がつかないです」
「そう? ……中谷が思ってる以上に、俺は情けなくて、意気地無しで、どうしようもないやつなんだよ」
そんなことない、と否定したくて、でも、なんだかすぐに言葉が出てこなくて。だから私はそっと、彼の頭の上に自分の頭を添えてみた。
「……重い」
「あ、ごめんなさい!」
菊地さんが漏らした言葉に、私は慌てて頭を上げた。そんな私に、彼は「違う、違う」慌てたように謝りながら、頭を上げた。
「中谷じゃなくて、俺の話。高校の頃に、彼女に振られた理由。二人とも、『あなたの愛情は一人で抱えるには重すぎる』って。最初に言われた時は、ああ、そっか、って思ったけど、2人目に同じこと言われた時は、さすがにへこんだ」
どこか遠くを見つめながら、菊地さんは話す。その表情は切なそうで、思わず彼の左手に私の右手を重ね合わせて、ぎゅっと握ってみた。ほどなくして、彼も私の手を握り返してくれる。
「そんな時、そばにいて俺のことを受け入れてくれたのが、皓人だったんだ。その頃からかな、皓人がほかの友達より特別な友達になったのは」
そう語りながら、菊地さんは微笑んだ。その表情は、大切な人のことを語る表情で、自然と私の心も温かくなる。
「菊地さんにとって、末田さんは大切な存在なんですね」
私の言葉にうなずくと、菊地さんは不意に私の方へと視線をよこした。じっと瞳を見つめられて、目を逸らせなくなる。手と同じように、視線が絡み合う。
「中谷も、だよ。俺にとって、中谷は大切な存在」
そう言ってゆっくりと彼の顔が近づいてきて、唇が重なる。
一度、二度、と回数が増すごとに、重なる時間が長くなる。
何度重なったのかは、分からない。でも、その時間はまるで永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。皓人さんの存在なんてすっかり忘れて、私たち二人きりなんじゃないかと思ってしまうほどだった。
最後にリップ音と共に菊地さんの唇が離れると、そのまま額を合わせたまま、お互いを見つめ合う。
「好きだよ」
触れ合いそうな距離で、菊地さんの唇が動く。
彼の吐息が、唇にかかる。
「私も、好きです」
その言葉を合図にしたかのように、再び唇が重なり合う。
ただ優しく、お互いの体温を確かめ合うためだけのような口づけ。それだけで、幸せを感じられた。
*************************
私がお風呂から上がると、入れ替わるようにして菊地さんが浴室へと消えていく。彼の部屋で一人、私はどうしたものかと頭を悩ませた。主のいない部屋の中を詮索したくはないけれど、じっとしているのもなんだか落ち着かない。
不意に、クローゼットにかかった、見慣れたスーツが私の視線を捉えた。菊地さんがよく来ているスーツのジャケット。私も何度か、借りたことがある。何気なくタグを確認すると、そこには「mum」の文字が刻まれている。皓人さんのブランドだ。
いつだったか、菊地さんは知り合いのところで洋服を買う、と話していたけれども、その知り合い皓人さんだった、ということか。スーツはクリーニングに出していたし、借りた時もタグなんて見ていなかったから、気づかなかった。
思わず、深いため息が漏れてしまう。
菊地さんにとって、皓人さんは大切な存在だ。そんな皓人さんと私の関係を考えると、このまま菊地さんとの関係を続けるのは、正しいことなのだろうか。
菊地さんのことは好きだ。でも、彼が皓人さんとルームシェアをしている以上、関係があまりにも複雑になりすぎるんじゃないだろうか。そもそも、菊地さんは私と皓人さんの関係をどこまで把握しているんだろう?
先ほどまで感じていたのつかの間の幸せから一転、先の見えない真っ暗なモヤモヤに頭の中を支配されてしまったようだ。
菊地さんと皓人さんの絆は強い。その絆を前に、私は菊地さんとどんな関係を築いていけばいいんだろう? そして、皓人さんとどう接していけばいいんだろう?
気づかない間に、残酷な偶然という泥沼に足を踏み入れてしまったような気分だ。
お風呂から上がった菊地さんを笑顔で迎えた時も、初めて使う彼の歯磨き粉で歯を磨く時も、彼のベッドで並んで眠りにつく時も、私のモヤモヤは晴れなかった。いろいろな考えが頭を巡り、なかなか寝付くことができなかった。
そのせいだろうか、珍しく夜中に、私の意識がゆっくりと覚醒した。モヤモヤを少しでも晴らそうと、安らぎを求めて手を伸ばすものの、隣にあったはずの温もりが感じられない。熱源があるであろう方向にへと、さらに腕を伸ばす。けれども、どれだけ腕を伸ばしても、手はただ空を切るだけだった。
私はゆっくりと瞼を押し上げた。
夜の暗闇に慣れない瞳が、隣に寝ているはずの菊地さんの姿を探す。彼のベッドに寝ているのが私だけだということに気付くと、思わず失望のため息が洩れる。
菊地さんが夜中に起き出すなんて、珍しい。いつも寝つきが良くて、そのまま朝まで起きないはずなのに。
寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、もう一度、瞼を閉じる。普段なら瞬時にやってくると思っていた眠気の波は、一向に現れそうにない。やはり、余計なことを考えすぎてしまったからだろうか。
仕方ない、水でも飲もう。
諦めたように再び瞼を開くと、ベッドの上でゆっくりと身体を起こす。布団から出た肩を、ゆっくりと冷たい空気が撫でる。最近はすっかり菊地さんの体温が隣にあることに慣れきってしまったからか、余計に寒さを感じた。
そっとベッドから抜け出し、椅子の背にかけられた彼のパーカーを羽織る。扉を開き、慣れない廊下をゆっくりと突き進む。
その時だった。リビングから、低い声が聞こえてきた。テレビの音ではない、紛れもない菊地さんの声だ。
電話をしているわけでは、ないだろう。
話し相手は皓人さんだと考えるのが、自然だ。
妙な不安に駆り立てられて、廊下を進む私の足が早くなる。
そして、リビングに入った瞬間飛び込んできた光景に、私は息をのんだ。
こんな光景に出くわすなんて、一体誰が想像しただろうか。見開いた瞳に、私はただただその光景を焼き付けることしかできなかった。
リビングの中央に、菊地さんと皓人さんの二人が立っていた。そしてあろうことか、二人はそっと抱き合うと、そのまま唇を重ねたのだった。
どれぐらいたったのだろうか、驚愕の表情でその場に立ち尽くす私の存在に、二人が気付いた。罰が悪そうに焦った表情を見せる菊地さんの隣で、皓人さんは何事もなかったかのように、飄々としたいつもの笑顔で私を見つめた。まるで、頭を鈍器で殴られたような衝撃だ。
つい数時間前、菊地さんの部屋で二人きりだったときに感じたあの幸せな世界には、もう二度と戻ることができないことを、私は察した。
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