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57. 黒とガトーショコラ

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「お先に失礼します。お疲れ様でした」

 鞄を肩にかけてそう挨拶すれば、周囲のデスクから次々と「お疲れ様」の声が発せられる。いくつも重なる声の中から、簡単に菊地さんの声を抽出できてしまうのは、もはや私の特技なのかもしれない。
 エレベーターで地上階まで降りて駅まで向かう途中、スマートフォンに届くのは彼からのメッセージだ。

「女子会、楽しんで」

 相変わらずの気遣いに、口角が上がる。
 待ち合わせ場所でもある駅前にたどり着けば、すぐに彩可の姿を見つけられた。この間の一件以来、なんとなく気まずくて彩可とはまともに連絡を取れていなかった。あの日は、表面上はいつも通り過ごしていたものの、やはり心のモヤモヤを解消することができなかったからだ。その空気を引きずっているからか、微妙な雰囲気のまま私たちは挨拶を交わした。
 彩可が目星をつけてくれていた店に入り、早々に注文を済ませる。いつもはメニューを選ぶのに時間がかかる私が、すぐにメニューを決めたのを見て彩可が驚いたのを私は見逃さなかった。

 店員さんが出してくれた水を飲んでお互いに一息をついた頃、彩可はおもむろに小さく頭を下げた。予想外の行動にビックリした私は、どうしたら良いのか分からず、ただその場でかたまってしまう。

「この間は、ごめん。菊地さんのこと、よく知りもしないで勝手なことばっかり言って。あれから冷静になって、私、何言ってんだろう、って自己嫌悪。無神経だったよね」

 ゆっくりと顔を上げた彩可と、目が合う。
 確かに、彩可の言葉には傷ついたし、数日間は菊地さんを疑ってしまう節があった。けれども、あれは彩可なりに私のことを心配してくれていただけなんだよな、と今では感じる。

「もう、いいよ、別に。もう、気にしてない。心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫だから」

 私の言葉に、彩可の表情も徐々に緩まっていく。それからはすぐにいつもの私たちの調子に戻る。美味しいごはんを食べて、仕事の愚痴やらなんやらをとめどなく話し続けた。二人でこうやって話すのが、少し間が空いたからだろうか。話のネタは湯水のように湧いてきた。

「でも本当に菊地さんとの仲がこじれなくって良かった」

 ひとしきり話したところで、彩可はぽつり、とつぶやいた。食後の梅酒ロックがなんだか妙に似合っている。

「私が変なこと言ったせいで二人が気まずくなってたらどうしようって、思ってたから。だってどれだけ考えても、やっぱり菊地さんは彩可にとって今までで最高の彼氏なんだもん」

 彩可の言葉に照れながら、私もサワーを口に運んだ。

「まあ、彩可の言葉を全く真に受けなかったわけじゃないんだ。ほんのちょっと、疑いたくなる自分もいた。けど、何よりもやっぱり彼のことを信じたいと思ったんだ」

 話しながら、自然と微笑みが漏れてしまう。

「最近は、会社以外のほとんど時間を一緒に過ごしてて、彼の存在が日常の一部になっているっていうか、誰かがいる毎日ってこんなに安心するんだなって実感してる」

 私がそう言うと、彩可はいやにニヤついて私を指さした。

「特大級ののろけだね」
「んー、そうかも。でも、彩可だって亘君に対しては同じような気持ちでしょ?」
「いや、どうかな」

 私の単純な質問に、彩可は眉根を寄せる。

「一緒にいて楽しいけど、安心とはまだちょっと違うかな。長く一緒にいるから、もちろん落ち着く部分はあるし、これからこの人と一生一緒に歩いていくんだな、みたいな気持ちはあるけど、まだまだこれからって感じもあるし」

 そこまで答えてから、彩可は何かを思い出したような表情を見せると、そのままおもむろに鞄の中を漁り始めた。驚いている私をよそに、彩可は鞄から目当てのものを取り出すと、笑顔で私にそれを差し出した。きれいに折られた四角いそれは、彩可の結婚式の招待状だ。

「もう出来たの?」

 私は思わず前のめりになってその美しい招待状を手に取った。

「まあ、まだサンプルみたいなもんなんだけどね。一番気に入ったこれで全員分注文しようかなって。茉里のところにも改めて送るね。菊地さんの席も用意してあるから」

 彩可の言葉になんだか胸がいっぱいになって、私は思わず彼女の手に自分の手を重ねた。

「ありがとう。それから、おめでとう」
「もー、そういうのは結婚式に取っておいてよ。まだ式までは結構時間あるんだし!」

 しんみりした空気が苦手な彩可は、明るい声でそう言い放つなり店員さんを呼んでデザートを注文し始めた。私もちゃっかり一緒にガトーショコラを頼む。

「茉里さ、本当に注文決めるの早くなったよね」

 店員さんがいなくなったタイミングで、茉里は言った。

「今日なんて本当にびっくりしたよ。茉里がこんなにスムーズに何を頼むか決めたの、初めてみたもん」
「そうかな?」

 そう答えている間に、店員さんがケーキを持ってきてくれた。お礼を言ってからフォークを手に取り、お互いに一口だけ相手の皿にのせてから食べ始める。

「やっぱり、菊地さん効果?」
「どうかな。菊地さんも結構、優柔不断なところあるんだよね。私に決めさせることも多いし、あの人、二択になったら選ばずにどっちも! とかやっちゃうタイプで」
「そうなんだ。なんか意外かも」
「意外続きでいうと、甘党だし。けど、そうだね。やっぱり、菊地さんの影響かも。ガトーショコラを選んだのも、なんとなく菊地さんっぽいなって思ったからだし」

 しっとりとした重めの真っ黒なケーキに、そっとフォークを入れる。その重みは舌に載せると、濃厚な甘みへと変化する。

「甘いけど、甘いだけじゃなくて苦みがある。なんか、菊地さんっぽいんだよね」

 そう告げた私の視界にふと、皿の端に盛られた生クリームが入った。真っ白の生クリーム。菊地さんがガトーショコラなら、この生クリームは皓人さんかな。ふわふわしていて、甘くて、でも取り過ぎると具合が悪くなる。

「そういえばさ、ちょっと前に変なことがあったんだ」
「何?」
「同じ部署に菊地さんの同期の女性がいるんだけどね、彼のことを好きになるな、って言われたの。それ以降、会社でも私たちの言動をじっと見てきて、なんかちょっと気まずいんだよね」

 言いながら、私はケーキを食べ進める。
 
「それって、その人も菊地さんのことが好きってこと?」
「私もそう思ったんだけど、どうも違うっぽいんだよね。だから余計になんなのか分からなくて」

 そう、仁科さんが菊地さんに想いを寄せているわけではなさそうなのだ。彼女が目を光らせているのはどちらかというと私に対してというか……。

「じゃあ、茉里のことが好きなんじゃない?」
「え?」

 彩可の想定外の言葉に、私は戸惑ってしまった。仁科さんが私を好き?

「その可能性は、考えてなかった」

 答えながら、自分の発想の乏しさに小さな罪悪感を覚えた。私ってやっぱり、自分の尺度でしか物事を見られていないんだな。

「茉里は美人だし、笑うとカワイイ系だけどスッとしてるとかっこいい系だし、性別問わずにモテると思うよ。実際、高校でも大学でも密かに茉里のこと狙ってる女子いたし。私の話じゃないから誰とは言わないけど、私は完全に敵視されてて怖かったよ」

 わざと大きな身震いをして見せてから、彩可は自分のケーキにフォークを突き刺した。自分に寄せられる好意についてなんて、考える余裕もなく過ごしてきたからな。なんてぼんやりと考えながら、私は最期の一切れを口に運んだ。

「もう1つ、問題があるんだよね」

 気づけば、私はそんなことを口走っていた。完全なる無意識だった。撤回しようにも、彩可がすっかり興味を示していて、それは難しそうだ。

「皓人さんと会ったんだ、この間」

 何気ないことのように言うと、彩可は危うくフォークを落としかける。やはり、これはそれだけのインパクトを持つことなのか、と改めて感じる。

「会社から帰ったら、家の前にいて。彼の家に置いてた私のものを届けてくれたんだけどね、なんか一緒に出張のお土産なんかも渡されちゃってさ」

 答えながら、どうしてこんな話をしているんだろう、と自分で疑問に思ってしまう。もう済んだことなんだから、すべて流してしまえばいいのに、なんでわざわざ話題にしてしまったんだろう。

「菊地さんには?」
「話した。でも、気にしないって、言われた」
「そっか」

 彩可は視線をケーキに戻した。口に運んだ最後の一切れをゆっくりとかみしめると、静かにフォークを皿に置く。
 
「それで? 茉里はまた揺れてるの?」
「え? そんなんじゃないよ。そんなんじゃないけど、ただ、その」

 うろたえる私の視線の先では、皿の上の手つかずの生クリームがチョコン、と佇んでいる。
 
「ちょっと、気になっちゃうっていうか。恋愛的な意味じゃなくて、こう、ほとんど忘れかけてた存在なのに、なんか、そんな人もいたなって思うようになったっていうか」

 答えながら、自分でも情けないと思った。まるで、浮気の言い訳をしているみたい。そんなつもり、ないはずなのに。

「前から言ってるかもしれないけどさ、その皓人さんて、ちょっとストーカー気質ありそうだよね。家の前で待ち伏せたり、そうやって絶妙なタイミングで現れたり。もしかしたら、茉里に未練があるのかもね。別れた後に物を返す目的で会って、復縁するパターンもあるし。でもさ、茉里は菊地さんを選んだんでしょ?」

 彩可の問いかけに、私はすぐさま頷いた。

「なら、ほっときなよ。それで、さっさと忘れればいいよ。人の心にはさ、1人分のスペースしかないんだから。茉里の心のスペースに存在していいのは菊地さんだけで、皓人さんなんて入れちゃだめだよ」

 彩可の言うことはもっともだし、私だって同じように考えていたはずだった。なのに、親友の口からその言葉を聞いて、ほんの少しだけモヤっとした感情が浮かんだ。それを私は、無視することに決めた。
 結局、生クリームは最後まで手を付けないまま、私たちは店を後にした。
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